土器からよむ古墳社会(一)

備陽史探訪:183号」より

網本 善光

1.はじめに

古墳時代の土器には、土師器と須恵器とがあります。

土師器が縄文土器・弥生土器の系譜を引き継ぐ素焼きの土器であるのに対して、須恵器は五世紀代に朝鮮半島からもたらされた陶質土器の系譜を継ぐ土器です。

この二種類の土器は、どちらも祭祀用と日常生活用の二つの機能をもち、お互いに影響を与えながら独自に変遷をとげました。

ちなみに、土師器の名称は、平安時代の素焼き土器の名前を古墳時代に遡らせて使用したものです。また、須恵器は『倭名類聚抄』から採られています。

須恵器が窯を築いて焼かれ、そこには専門の工人がかかわったと考えられます。一方、土師器は窯跡がほとんど発見されておらず、特別な構造の窯を必要としないで手軽につくることができたと考えられます。

土師器の作り方の特色が背景になるのが、よそから運ばれてきた土器の出土(土器の移動)です。土器の移動の例には、地域を超えた広い範囲のものがあり、その意味合いが注目されています。

そこで、古墳時代の土器のうち、土師器について、①主要な遺跡を紹介し、②編年を確認すると同時に、③移動の実態から推測できる古墳時代の社会について考えてみます。

2.土師器研究の標識遺跡(西日本)

土師器の研究は、土師器そのものが古墳出土の土器であるという大前提がありましたので、土師器の誕生と古墳の発生とが一体的にとらえられていました。

①王泊遺跡(笠岡市高島)

まず紹介するのが、笠岡諸島の中で最も本土寄りに位置する高島の王泊遺跡(写真1)です。

高島の東部、北に開いた浅い谷の先端は砂浜を形成しています。この砂浜から二十m入ったところに立つ高島神社の境内が遺跡です。

戦前に、神武天皇東征神話に登場する「吉備高島宮」の考古学的調査がこの地で行われました。

調査の結果、遺物を含む層が確認されました。特に、第1層から第6層の間が古墳時代であったことから、古墳時代全般にわたる土器の変遷をつかむことができました。

中でも、第五層から出土した土器は、近畿地方の古い古墳から出土する「布留式」の土器と同じ時期のものでした。そこで、中国地方での最古の土師器は、高島遺跡出土のものを標識とすることになりました。

王泊遺跡出土の代表的な土器は、ラッパ状に広がった口縁部をもつ壷形土器です。

写真1:王泊遺跡現況写真 (笠岡市HPから)
写真1:王泊遺跡現況写真 (笠岡市HPから)

②上東遺跡(倉敷市上東)

集落出土の土器を通じて弥生土器から土師器への変遷過程の解明に大きな役割を果たしたのが、倉敷市上東遺跡の調査成果です。

上東遺跡は、足守川の下流域に広がる沖積平野の微高地上に営まれた集落です。弥生時代後期を中心に古墳時代にいたる大集落として、吉備を代表する集落遺跡です。

この遺跡から出土した長頚壷を特色とする弥生土器は「上東式」と呼ばれ、吉備地方の弥生時代後期の標識ともなっています。

さて、この遺跡の内部で、山陽新幹線及び都市計画道路の建設に伴う発掘調査が行われました。その結果、弥生時代後期から古墳時代前期に及ぶ時代の土器の変遷を良好につかむことができました。

その後も、津寺遺跡(岡山市)などの調査が進みましたので、中国地方の中でも吉備地域の土師器の様相はよくわかってきました(写真2)。

写真2:吉備の土師器(岡山県古代吉備文化財センターHPから)
写真2:吉備の土師器(岡山県古代吉備文化財センターHPから)

③纏向遺跡

一方、大和地方での土師器の成立過程の検討が、古式の前方後円墳の築造が見られる三輪山周辺、とくに纏向遺跡で進められました。

大和川流域に位置する纏向遺跡は広大な面積が想定される大遺跡で、これまでに大小百数十次の発掘調査が行われています。

出土した土器は、「纏向1類~5類」に分類されています。そして、それぞれの土器型式が吉備地域のどの土器型式に対応するかも研究されています。

④弥生土器から土師器への編年

吉備地域では、弥生時代の後期から古墳時代前期までの土器の変化を「鬼川市式→才の町式→下田所式→亀川上層式」の順でとらえています。

これと纏向遺跡の土器編年とを比較しますと、弥生時代最終末の「才の町Ⅰ式」と「纏向1類」とが対応し、以下「才の町Ⅱ式」と「纏向2類」が対応、「下田所式」と「纏向3類」が対応、そして「亀川上層式」と「纏向4類」とが対応すると考えられています。

実は、この「纏向1類~4類」の時間幅の中に、奈良盆地では、纏向石塚・ホケノ山古墳・箸墓古墳といった最古式の前方後円墳(弥生時代の「墳丘墓」と考える研究者もいます)が築かれているのです。

同様に、吉備地方でも宮山墳丘墓(才の町Ⅱ~下田所式:写真3)・矢藤治山墳丘墓(亀川上層式)などがみられます。

写真3:宮山墳丘墓の石室(総社市HPから)
写真3:宮山墳丘墓の石室(総社市HPから)

このように、弥生土器から土師器への土器の変化が詳しくわかることに伴って、定型化された前方後円墳以前に大型の墳墓が存在したことも明らかになりました。

このため、弥生土器と考えていた土器が使われていた時代に大型の墓が築かれている場合をどう考えるか二通りの見解が出ました。

  • ○その墓を「古墳」と呼び、それまで「弥生土器」と考えていた土器自体が「土師器」であった
  • ○「弥生土器」の時代であるから、大型の墓であっても「古墳」とは呼ばない

そこで、弥生土器と土師器の「境界線」の検討が、改めて必要となって来たのです。

わたしは、土師器の誕生には、前方後円墳を頂点とする古墳祭祀の成立が影響すると考えています。

もっとも、後述しますが、前方後円墳の成立以前に、地域を越えた土器の移動が見られます。こうした動きをどのように評価するかが、現在の土師器研究のテーマの一つです。

土器からよむ古墳社会(二)」に続く

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/11/9d86a83a614d91cb736352f34e0a498a.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/11/9d86a83a614d91cb736352f34e0a498a-150x100.jpg管理人古代史「備陽史探訪:183号」より 網本 善光 1.はじめに 古墳時代の土器には、土師器と須恵器とがあります。 土師器が縄文土器・弥生土器の系譜を引き継ぐ素焼きの土器であるのに対して、須恵器は五世紀代に朝鮮半島からもたらされた陶質土器の系譜を継ぐ土器です。 この二種類の土器は、どちらも祭祀用と日常生活用の二つの機能をもち、お互いに影響を与えながら独自に変遷をとげました。 ちなみに、土師器の名称は、平安時代の素焼き土器の名前を古墳時代に遡らせて使用したものです。また、須恵器は『倭名類聚抄』から採られています。 須恵器が窯を築いて焼かれ、そこには専門の工人がかかわったと考えられます。一方、土師器は窯跡がほとんど発見されておらず、特別な構造の窯を必要としないで手軽につくることができたと考えられます。 土師器の作り方の特色が背景になるのが、よそから運ばれてきた土器の出土(土器の移動)です。土器の移動の例には、地域を超えた広い範囲のものがあり、その意味合いが注目されています。 そこで、古墳時代の土器のうち、土師器について、①主要な遺跡を紹介し、②編年を確認すると同時に、③移動の実態から推測できる古墳時代の社会について考えてみます。 2.土師器研究の標識遺跡(西日本) 土師器の研究は、土師器そのものが古墳出土の土器であるという大前提がありましたので、土師器の誕生と古墳の発生とが一体的にとらえられていました。 ①王泊遺跡(笠岡市高島) まず紹介するのが、笠岡諸島の中で最も本土寄りに位置する高島の王泊遺跡(写真1)です。 高島の東部、北に開いた浅い谷の先端は砂浜を形成しています。この砂浜から二十m入ったところに立つ高島神社の境内が遺跡です。 戦前に、神武天皇東征神話に登場する「吉備高島宮」の考古学的調査がこの地で行われました。 調査の結果、遺物を含む層が確認されました。特に、第1層から第6層の間が古墳時代であったことから、古墳時代全般にわたる土器の変遷をつかむことができました。 中でも、第五層から出土した土器は、近畿地方の古い古墳から出土する「布留式」の土器と同じ時期のものでした。そこで、中国地方での最古の土師器は、高島遺跡出土のものを標識とすることになりました。 王泊遺跡出土の代表的な土器は、ラッパ状に広がった口縁部をもつ壷形土器です。 ②上東遺跡(倉敷市上東) 集落出土の土器を通じて弥生土器から土師器への変遷過程の解明に大きな役割を果たしたのが、倉敷市上東遺跡の調査成果です。 上東遺跡は、足守川の下流域に広がる沖積平野の微高地上に営まれた集落です。弥生時代後期を中心に古墳時代にいたる大集落として、吉備を代表する集落遺跡です。 この遺跡から出土した長頚壷を特色とする弥生土器は「上東式」と呼ばれ、吉備地方の弥生時代後期の標識ともなっています。 さて、この遺跡の内部で、山陽新幹線及び都市計画道路の建設に伴う発掘調査が行われました。その結果、弥生時代後期から古墳時代前期に及ぶ時代の土器の変遷を良好につかむことができました。 その後も、津寺遺跡(岡山市)などの調査が進みましたので、中国地方の中でも吉備地域の土師器の様相はよくわかってきました(写真2)。 ③纏向遺跡 一方、大和地方での土師器の成立過程の検討が、古式の前方後円墳の築造が見られる三輪山周辺、とくに纏向遺跡で進められました。 大和川流域に位置する纏向遺跡は広大な面積が想定される大遺跡で、これまでに大小百数十次の発掘調査が行われています。 出土した土器は、「纏向1類~5類」に分類されています。そして、それぞれの土器型式が吉備地域のどの土器型式に対応するかも研究されています。 ④弥生土器から土師器への編年 吉備地域では、弥生時代の後期から古墳時代前期までの土器の変化を「鬼川市式→才の町式→下田所式→亀川上層式」の順でとらえています。 これと纏向遺跡の土器編年とを比較しますと、弥生時代最終末の「才の町Ⅰ式」と「纏向1類」とが対応し、以下「才の町Ⅱ式」と「纏向2類」が対応、「下田所式」と「纏向3類」が対応、そして「亀川上層式」と「纏向4類」とが対応すると考えられています。 実は、この「纏向1類~4類」の時間幅の中に、奈良盆地では、纏向石塚・ホケノ山古墳・箸墓古墳といった最古式の前方後円墳(弥生時代の「墳丘墓」と考える研究者もいます)が築かれているのです。 同様に、吉備地方でも宮山墳丘墓(才の町Ⅱ~下田所式:写真3)・矢藤治山墳丘墓(亀川上層式)などがみられます。 このように、弥生土器から土師器への土器の変化が詳しくわかることに伴って、定型化された前方後円墳以前に大型の墳墓が存在したことも明らかになりました。 このため、弥生土器と考えていた土器が使われていた時代に大型の墓が築かれている場合をどう考えるか二通りの見解が出ました。 ○その墓を「古墳」と呼び、それまで「弥生土器」と考えていた土器自体が「土師器」であった ○「弥生土器」の時代であるから、大型の墓であっても「古墳」とは呼ばない そこで、弥生土器と土師器の「境界線」の検討が、改めて必要となって来たのです。 わたしは、土師器の誕生には、前方後円墳を頂点とする古墳祭祀の成立が影響すると考えています。 もっとも、後述しますが、前方後円墳の成立以前に、地域を越えた土器の移動が見られます。こうした動きをどのように評価するかが、現在の土師器研究のテーマの一つです。 「土器からよむ古墳社会(二)」に続く備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会古代史部会では「大人の博物館教室」と題して定期的に勉強会を行っています。
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