土器からよむ古墳社会(二)
「備陽史探訪:184号」より
網本 善光
「土器からよむ古墳社会(一)」から続く
3.古墳の成立と土器の移動
(1)纏向遺跡出土の各地の土器
弥生時代の後期末から古墳時代初期の土器を調べると、よその地域から来た土器(外来系土器)がかなり混じっていることに気付きます。
こうした外来系土器が注目されたのは纏向遺跡の調査がきっかけです。纏向遺跡の調査では、弥生時代の終わり頃から古墳時代のはじめ(纏向1類~3類の時期)に、数 多くの外来系土器が見つかりました。
石野博信さんによると、外来系土器には
一つはオワリ、あるいはキビという地域でつくられてもち運ばれてきた土器と、土はヤマトの土であるけれども、その土器の形や文様のつけ方、こまかい調整の仕方はそれぞれオワリならオワリ、キビならキビの特色をすべてもっているような土器という二つの種類がある
(石野博信『纏向遺跡』新泉社2008)ことがわかりました。
前者のもち運ばれてきた土器が、それぞれの地域から来た人々が持ってきたものであるのに対して、ヤマトの土でつくった後者のものは、それぞれの地域からヤマトにやってきて定住した人たちによってつくられた土器であると考えられます。
このような土器の移動は、これまでの時代にも見られることがらですが、この弥生時代最終末から古墳時代の初めにかけては、搬入された土器の範囲が広いことと、その占める割合が高いのです(図1)。
纏向遺跡では、少ないところでも15%、多い地点では30%を占めるとのことで、このことは「単純に考えると100人のうちの15人から30人が他地域から来た人々であることを示してい」(石野同書)ます。
このことから、纏向遺跡は都市的な性格をもった集落遺跡であると考えられるのですが、こうした集落が、石野さんによると、福岡平野や佐賀平野、岡山平野など各地域に認められるのです。
まさに「広い範囲での人々の移動と定住」というべき動きが、弥生時代の最終末から古墳時代の初頭にかけての西日本にありました。さらに、その動きは、これまでの交流の範囲を超えた大きな社会変化でした。
その根拠が、こうした土器の移動なのです。
(2)大和系・東海系土器の移動
こうした土器の移動を見てみますと、大和系の土器や東海系の土器が広い地域に分布していることが、以前から指摘されていました。
纏向遺跡においても外来系土器の中で最も多いのは後の尾張や伊勢の地域、いわゆる東海系の土器です。
S字状の口縁部をもった台付き甕(図2)を代表とする土器群で、纏向遺跡では外来系土器の約半数を占めています。そして、この東海系の土器は主に東日本に広く分布します。
一方で、筋目などを刻み込んだ羽子板状の板で表面を叩いて成形した甕に代表される大和系の土器(庄内式土器)も広く分布しています。
この土器には、後の大和・河内・摂津といった地域でつくられた厚手のタイプと、河内中心の薄手のタイプとがあり、その分布が東西で異なることも指摘されています。すなわち、東日本には厚手タイプのものが多く分布する一方で、西日本には薄手タイプのものが見られるのです。
こうした土器分布の違いについては、もちろん、①人々の移動と定住を考える説がありますが、②精巧な出来栄えの庄内式の甕については交易品とする説も有力です。また、③分布する土器の製作地・分布先の違いは近畿との直接的交流にかかわった窓口の違いであるとして、流通機構の問題とみる説もあります。
いずれにしても、古墳出現前夜の時代に、土器は私たちの予想以上に各地へ「動いて」いるのです。
(3)津寺遺跡出土の土器
それでは、この弥生時代後期末から古墳時代初頭の土器の移動を、吉備の地方でみてみましょう。
前回紹介した上東遺跡でも庄内式の叩き目をもつ甕形土器の出土がみられますが、多くの出土が確認されているのは津寺遺跡です。
この遺跡は足守川の下流域にあり、河口付近の上東遺跡からいえば、北方に位置します。
この一帯は、楯築遺跡や鯉喰神社遺跡などの弥生時代最終末の墳丘墓を見上げ、そばに同じく弥生時代の大きな集落である高塚遺跡(銅鐸や貸泉が出土)・政所遺跡(銅釧が出土)・矢部南向遺跡・加茂A遺跡などがある文字どおりの「吉備中枢部」です。
津寺遺跡は、弥生時代中期から集落が営まれ、古墳時代初頭には8~10軒の住居からなる複数の集落によって構成された大きな集落であったことが、出土した土器の種類や量などからわかります(図3)。まさに、この地域での拠点的な集落でした。
この遺跡からは瀬戸内沿岸地域のものに加えて、山陰地方(図4)・畿内地方・西部瀬戸内地方・東海地方・北陸地方の順に、外来系の土器が多く出土しています。
また、土器棺墓にこうした外来系の土器が見られることからも、移住を含めた人の移動を考えることができます(亀山行雄「古墳時代前期の津寺遺跡」『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告127津寺遺跡5』岡山県文化財保護協会1998)。
4.おわりに
このように、地域的に確固とした分布圏をもっていた弥生時代後期の土器が、弥生時代最終末から古墳時代初期にかけて急速に流動化・拡大化を示すことは、その背景に地域間交流と呼ぶべきレベルを越えた原因を考えなければいけません。
現時点では人の移住をその理由にあげています。しかし、その移住の要因とその実態については依然としてよくわかっていません。
各地の土器の交流(それは人的交流の活発化と表裏一体のものだと考えます)が、定型化した古墳の成立に大きな役割を果たしたことは、十分に想定できることがらです。
ということは、古墳時代の土器である土師器の成立を解明することが、古墳成立の謎を探る大きな課題の一つにもなるのです。
https://bingo-history.net/archives/23458https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2015/06/5c44228de65907fd7966ef19a97bb41c.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2015/06/5c44228de65907fd7966ef19a97bb41c-150x100.jpg古代史「備陽史探訪:184号」より 網本 善光 「土器からよむ古墳社会(一)」から続く 3.古墳の成立と土器の移動 (1)纏向遺跡出土の各地の土器 弥生時代の後期末から古墳時代初期の土器を調べると、よその地域から来た土器(外来系土器)がかなり混じっていることに気付きます。 こうした外来系土器が注目されたのは纏向遺跡の調査がきっかけです。纏向遺跡の調査では、弥生時代の終わり頃から古墳時代のはじめ(纏向1類~3類の時期)に、数 多くの外来系土器が見つかりました。 石野博信さんによると、外来系土器には 一つはオワリ、あるいはキビという地域でつくられてもち運ばれてきた土器と、土はヤマトの土であるけれども、その土器の形や文様のつけ方、こまかい調整の仕方はそれぞれオワリならオワリ、キビならキビの特色をすべてもっているような土器という二つの種類がある (石野博信『纏向遺跡』新泉社2008)ことがわかりました。 前者のもち運ばれてきた土器が、それぞれの地域から来た人々が持ってきたものであるのに対して、ヤマトの土でつくった後者のものは、それぞれの地域からヤマトにやってきて定住した人たちによってつくられた土器であると考えられます。 このような土器の移動は、これまでの時代にも見られることがらですが、この弥生時代最終末から古墳時代の初めにかけては、搬入された土器の範囲が広いことと、その占める割合が高いのです(図1)。 纏向遺跡では、少ないところでも15%、多い地点では30%を占めるとのことで、このことは「単純に考えると100人のうちの15人から30人が他地域から来た人々であることを示してい」(石野同書)ます。 このことから、纏向遺跡は都市的な性格をもった集落遺跡であると考えられるのですが、こうした集落が、石野さんによると、福岡平野や佐賀平野、岡山平野など各地域に認められるのです。 まさに「広い範囲での人々の移動と定住」というべき動きが、弥生時代の最終末から古墳時代の初頭にかけての西日本にありました。さらに、その動きは、これまでの交流の範囲を超えた大きな社会変化でした。 その根拠が、こうした土器の移動なのです。 (2)大和系・東海系土器の移動 こうした土器の移動を見てみますと、大和系の土器や東海系の土器が広い地域に分布していることが、以前から指摘されていました。 纏向遺跡においても外来系土器の中で最も多いのは後の尾張や伊勢の地域、いわゆる東海系の土器です。 S字状の口縁部をもった台付き甕(図2)を代表とする土器群で、纏向遺跡では外来系土器の約半数を占めています。そして、この東海系の土器は主に東日本に広く分布します。 一方で、筋目などを刻み込んだ羽子板状の板で表面を叩いて成形した甕に代表される大和系の土器(庄内式土器)も広く分布しています。 この土器には、後の大和・河内・摂津といった地域でつくられた厚手のタイプと、河内中心の薄手のタイプとがあり、その分布が東西で異なることも指摘されています。すなわち、東日本には厚手タイプのものが多く分布する一方で、西日本には薄手タイプのものが見られるのです。 こうした土器分布の違いについては、もちろん、①人々の移動と定住を考える説がありますが、②精巧な出来栄えの庄内式の甕については交易品とする説も有力です。また、③分布する土器の製作地・分布先の違いは近畿との直接的交流にかかわった窓口の違いであるとして、流通機構の問題とみる説もあります。 いずれにしても、古墳出現前夜の時代に、土器は私たちの予想以上に各地へ「動いて」いるのです。 (3)津寺遺跡出土の土器 それでは、この弥生時代後期末から古墳時代初頭の土器の移動を、吉備の地方でみてみましょう。 前回紹介した上東遺跡でも庄内式の叩き目をもつ甕形土器の出土がみられますが、多くの出土が確認されているのは津寺遺跡です。 この遺跡は足守川の下流域にあり、河口付近の上東遺跡からいえば、北方に位置します。 この一帯は、楯築遺跡や鯉喰神社遺跡などの弥生時代最終末の墳丘墓を見上げ、そばに同じく弥生時代の大きな集落である高塚遺跡(銅鐸や貸泉が出土)・政所遺跡(銅釧が出土)・矢部南向遺跡・加茂A遺跡などがある文字どおりの「吉備中枢部」です。 津寺遺跡は、弥生時代中期から集落が営まれ、古墳時代初頭には8~10軒の住居からなる複数の集落によって構成された大きな集落であったことが、出土した土器の種類や量などからわかります(図3)。まさに、この地域での拠点的な集落でした。 この遺跡からは瀬戸内沿岸地域のものに加えて、山陰地方(図4)・畿内地方・西部瀬戸内地方・東海地方・北陸地方の順に、外来系の土器が多く出土しています。 また、土器棺墓にこうした外来系の土器が見られることからも、移住を含めた人の移動を考えることができます(亀山行雄「古墳時代前期の津寺遺跡」『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告127津寺遺跡5』岡山県文化財保護協会1998)。 4.おわりに このように、地域的に確固とした分布圏をもっていた弥生時代後期の土器が、弥生時代最終末から古墳時代初期にかけて急速に流動化・拡大化を示すことは、その背景に地域間交流と呼ぶべきレベルを越えた原因を考えなければいけません。 現時点では人の移住をその理由にあげています。しかし、その移住の要因とその実態については依然としてよくわかっていません。 各地の土器の交流(それは人的交流の活発化と表裏一体のものだと考えます)が、定型化した古墳の成立に大きな役割を果たしたことは、十分に想定できることがらです。 ということは、古墳時代の土器である土師器の成立を解明することが、古墳成立の謎を探る大きな課題の一つにもなるのです。管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会備陽史探訪の会古代史部会では「大人の博物館教室」と題して定期的に勉強会を行っています。
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