「なぜ」京都泉涌寺に備後宮氏の書状が伝わったのか

備陽史探訪:184号」より

会長 田口 義之

京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺は、皇室の菩提寺として古来有名で「御寺泉涌寺」と呼ばれている。

この寺に戦国時代備後国奴可郡西条(庄原市西城町)の大富山城主として近隣に勢力を振るった久代宮氏の四代、宮智盛の書状が蔵されていることを知ったのは最近のことであった(1)。

宮氏の研究は筆者のライフワークとするところで、今まで知られていなかった智盛の書状がこの世に存在することを知ると、見たくなるのが性分である。調べてみると、その影写本が東京大学史料編纂所にあることが分かった、 

影写本とは、古文書などの史料を筆・墨・和紙を用い、筆跡をそっくりそのまま、ほぼ一筆で写し取り、筆勢、虫喰・墨の濃淡・にじみ・本紙の輪郭などまで忠実に再現する特殊技法のことで、原本に次ぐ価値のあるものとして重要視されている。

さっそく史料編纂所にその複写を申し出ると、「所蔵者」の許可が必要とのこと。これでは最初から泉涌寺にお願いすればよかったかとも思ったが、既に取り懸かったことなので、史料編纂所の指示通りの書式で泉涌寺に許可をお願いすると、数日後に総本山泉涌寺の朱印の押された「許可書」が送られてきた。史料編纂所への複写申請はここからが本番となる。指定された用紙に必要事項を記入し、許可書のコピーを添えて郵送した。

待望のものが届いたのはそれから十日ほど後のことであった。

さっそく包装を開いてみると、しっかりした封筒に一枚の写真が入っていた(写真参照)。宮智盛の書状である。解読文は左の通り、
宮智盛書状

尊書致拝見候京都
 泉涌寺御修造付而
 以 御綸旨佛舎利
 御下寔珍異此事候
 則致頂戴奉加之
 儀顕微志候如尊意
 久敷書絶非本意候
 自是重畳可申上候
 恐惶頓首
    宮修理亮
  九月五日 智盛(花押)
 進上
  安国寺 尊答

なぜ、宮氏の書状が遠く離れた京都の泉涌寺に伝わったのか。

宛所の「安国寺」は、有名な安国寺恵瓊のことである。恵瓊は当時、毛利氏の外交僧として、京都と安芸の間を頻繁に往復していた。おそらくこの間、恵瓊は天皇の意向を受け、泉涌寺修造の綸旨を毛利氏を渡し、毛利氏の命で領国内の国人衆にその旨を伝えた。その中に西条大富山城の宮氏もいたのである。

恵瓊は、宮智盛に、正親町天皇の泉涌寺修造の綸旨に添えて、「仏舎利」が毛利氏の領国に下ったことを伝え、宮氏に「奉加」すなわち寄付を要請した。これに対し、智盛が恵瓊の意に応じて「奉加」を了承することを伝えたのがこの書状であった。この書状が泉涌寺に伝存することは、智盛が実際「微志」を尽くして奉加したことを示していると共に、恵瓊のしたたかな計算も窺える。おそらく、恵瓊は宮氏の奉加を泉涌寺に伝えると共に、それが自分の尽力によることを示す為、敢えて自分宛の宮氏の書状を添えた。こうすれば京都政界での自分の存在感が増すに違いない。恵瓊のしたたかな戦略である。こうして宮氏の書状は泉涌寺にもたらされ、今日に至った。これが、宮智盛の書状が備後から遠く離れた京都に伝わった理由である。

泉涌寺修造の綸旨は天正元年(一五七三)八月一二日に発せられているから、この文書は同年か或いは翌年の天正二年のものである(2)。

わずか九行ほどの短い書状であるが、多くのことを読むものに教えてくれる。

まず、智盛がこの時期「修理亮」を名乗っていたことが判明する。智盛に関する一次史料は極めて少なく、このことは久代宮氏関係の史料を解釈する場合、極めて重要である(3)。

また、恵瓊と智盛が旧知の間柄で有ったことも知れ、当時の国人領主の交際範囲が極めて広範囲に及んでいたことも判明する。

さらに、筆跡からして、智盛の自筆の可能性が高く、その流麗な筆致から、同人が極めて教養に富んだ人物であったことが想像される。

宮智盛は「久代記」(4)などでは、弘治元年(一五五五)の折敷畑合戦に毛利方として出陣し「討死」したことになっているが、この文書によって天正初年(一五七三頃)、生存が立証され、「久代記」等の伝えが誤りであることが明らかになった。

国人領主の研究はこうした伝承から離れ、一次史料から研究し直さなければならないことを、この書状は改めて示している。

【補注】
(1)東大史料編纂所のデータベースを検索中、この文書の存在を知った。
(2)「大日本史料」十編、天正元年八月十二日の条
(3)智盛に関する一次史料はこの他、原本では天正四年十一月吉祥日大檀那源朝臣智盛の銘を持つ、熊野神社棟札(広島県史古代中世資料編Ⅳ所収)が知られているのみである。
(4)広島県西城町教育委員会・西城町史資料集2「久代記」所収。既に江戸末期、頼杏平は「芸藩通志」の中で「久代記」の記述に疑問を呈している(同書備後国奴可郡土官)。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/09/48c25ab28530d559c1009253a42cb84e-1024x415.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/09/48c25ab28530d559c1009253a42cb84e-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:184号」より 会長 田口 義之 京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺は、皇室の菩提寺として古来有名で「御寺泉涌寺」と呼ばれている。 この寺に戦国時代備後国奴可郡西条(庄原市西城町)の大富山城主として近隣に勢力を振るった久代宮氏の四代、宮智盛の書状が蔵されていることを知ったのは最近のことであった(1)。 宮氏の研究は筆者のライフワークとするところで、今まで知られていなかった智盛の書状がこの世に存在することを知ると、見たくなるのが性分である。調べてみると、その影写本が東京大学史料編纂所にあることが分かった、  影写本とは、古文書などの史料を筆・墨・和紙を用い、筆跡をそっくりそのまま、ほぼ一筆で写し取り、筆勢、虫喰・墨の濃淡・にじみ・本紙の輪郭などまで忠実に再現する特殊技法のことで、原本に次ぐ価値のあるものとして重要視されている。 さっそく史料編纂所にその複写を申し出ると、「所蔵者」の許可が必要とのこと。これでは最初から泉涌寺にお願いすればよかったかとも思ったが、既に取り懸かったことなので、史料編纂所の指示通りの書式で泉涌寺に許可をお願いすると、数日後に総本山泉涌寺の朱印の押された「許可書」が送られてきた。史料編纂所への複写申請はここからが本番となる。指定された用紙に必要事項を記入し、許可書のコピーを添えて郵送した。 待望のものが届いたのはそれから十日ほど後のことであった。 さっそく包装を開いてみると、しっかりした封筒に一枚の写真が入っていた(写真参照)。宮智盛の書状である。解読文は左の通り、 尊書致拝見候京都  泉涌寺御修造付而  以 御綸旨佛舎利  御下寔珍異此事候  則致頂戴奉加之  儀顕微志候如尊意  久敷書絶非本意候  自是重畳可申上候  恐惶頓首     宮修理亮   九月五日 智盛(花押)  進上   安国寺 尊答 なぜ、宮氏の書状が遠く離れた京都の泉涌寺に伝わったのか。 宛所の「安国寺」は、有名な安国寺恵瓊のことである。恵瓊は当時、毛利氏の外交僧として、京都と安芸の間を頻繁に往復していた。おそらくこの間、恵瓊は天皇の意向を受け、泉涌寺修造の綸旨を毛利氏を渡し、毛利氏の命で領国内の国人衆にその旨を伝えた。その中に西条大富山城の宮氏もいたのである。 恵瓊は、宮智盛に、正親町天皇の泉涌寺修造の綸旨に添えて、「仏舎利」が毛利氏の領国に下ったことを伝え、宮氏に「奉加」すなわち寄付を要請した。これに対し、智盛が恵瓊の意に応じて「奉加」を了承することを伝えたのがこの書状であった。この書状が泉涌寺に伝存することは、智盛が実際「微志」を尽くして奉加したことを示していると共に、恵瓊のしたたかな計算も窺える。おそらく、恵瓊は宮氏の奉加を泉涌寺に伝えると共に、それが自分の尽力によることを示す為、敢えて自分宛の宮氏の書状を添えた。こうすれば京都政界での自分の存在感が増すに違いない。恵瓊のしたたかな戦略である。こうして宮氏の書状は泉涌寺にもたらされ、今日に至った。これが、宮智盛の書状が備後から遠く離れた京都に伝わった理由である。 泉涌寺修造の綸旨は天正元年(一五七三)八月一二日に発せられているから、この文書は同年か或いは翌年の天正二年のものである(2)。 わずか九行ほどの短い書状であるが、多くのことを読むものに教えてくれる。 まず、智盛がこの時期「修理亮」を名乗っていたことが判明する。智盛に関する一次史料は極めて少なく、このことは久代宮氏関係の史料を解釈する場合、極めて重要である(3)。 また、恵瓊と智盛が旧知の間柄で有ったことも知れ、当時の国人領主の交際範囲が極めて広範囲に及んでいたことも判明する。 さらに、筆跡からして、智盛の自筆の可能性が高く、その流麗な筆致から、同人が極めて教養に富んだ人物であったことが想像される。 宮智盛は「久代記」(4)などでは、弘治元年(一五五五)の折敷畑合戦に毛利方として出陣し「討死」したことになっているが、この文書によって天正初年(一五七三頃)、生存が立証され、「久代記」等の伝えが誤りであることが明らかになった。 国人領主の研究はこうした伝承から離れ、一次史料から研究し直さなければならないことを、この書状は改めて示している。 【補注】 (1)東大史料編纂所のデータベースを検索中、この文書の存在を知った。 (2)「大日本史料」十編、天正元年八月十二日の条 (3)智盛に関する一次史料はこの他、原本では天正四年十一月吉祥日大檀那源朝臣智盛の銘を持つ、熊野神社棟札(広島県史古代中世資料編Ⅳ所収)が知られているのみである。 (4)広島県西城町教育委員会・西城町史資料集2「久代記」所収。既に江戸末期、頼杏平は「芸藩通志」の中で「久代記」の記述に疑問を呈している(同書備後国奴可郡土官)。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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