仁井川沿いの天満池周辺

備陽史探訪:183号」より

種本 実

連載「川筋を訪ねて」【その十】

桒田笹舟先生の歌碑

桒田笹舟氏の旧居の跡
桒田笹舟氏の旧居の跡
三月の中旬に、天満池の南の丘に鎮座する天満天神社の境内を訪ねると白梅が満開だった。傍には福山市の名誉市民の一人である、故・桒田笹舟氏の旧居の跡がある。跡地は今は市に寄贈されて地元で管理している。

笹舟氏は若くして神戸市に住み、戦時中は疎開して生家へ帰省されて昭和二十九年まで過ごされた。

笹舟氏の生家では、昭和三十年代には当時としては未だ大変珍しかったテレビを購入され、近所の大人や子供たちが大勢見せてもらいに行ったという。チョコレートやココアなど、当時としては高価なお菓子が振舞われたが、愛しい郷里を想う氏が神戸から送られたものだった。

氏は福山市に源氏物語絵巻の書写など、たくさんの文化財を寄贈されている。その一端を紹介してみる。

旧居の跡の歌碑

旧居の跡の歌碑
旧居の跡の歌碑
左記は、歌碑の文字を笹舟氏の縁故の方にご教示頂いて当用漢字で書き写した内容である。

一千枚
書きて無能と
いうことを知ると
     いふ
その無能か
   ら出
    発

日本芸術院賞受賞などに輝く、かな書道の大家である氏の高潔な人柄が窺える歌ではないだろうか。

歌碑は昭和六十一年に八人目の福山市名誉市民に推された年に建立され、傍には同年に笹舟古里後援会によって建立された「桒田笹舟先生顕彰碑」も建っている。

桒田笹舟先生顕彰碑
桒田笹舟先生顕彰碑

東光園の歌碑

東光園の歌碑
東光園の歌碑
特別養護老人ホーム「東光園」は坪生町の東に昭和五十七年に開設され、笹舟氏が揮毫した書を七年後に記念碑として建立した。旧居の跡の歌碑と同じく、縁故の方にご教示頂いて当用漢字にルビを挿入して書き写してみる。

朝くもりさむく
   安(あ)りしが
 雲はれて
  安(あ)たたかく阿(あ)り
由(ゆ)ふ邊(べ)

 阿里(あり)

東光園も旧居も共に小高い丘の上にあり、雲の流れや月が目線で捉え易かったのだろうか。

旧坪生小学校跡の沿革史を刻む碑

小学校跡の沿革史
小学校跡の沿革史
坪生小学校は、明治四年に開設された啓蒙所を基にして、明治四十一年には神森神社の境内、そして昭和五十年に現在地に移転した。

笹舟氏が揮毫した沿革史の石碑は昭和五十一年三月に同窓生によって建立されて“教育文化の一大聖地であった”歴史を現在に伝えている。

また神森神社の境内に上がる石段の前には、平成二年に建立された顕彰碑が建っている。

顕彰碑
顕彰碑

光円寺の石碑

光円寺の石碑
光円寺の石碑
大門町の紫雲山光円寺には、笹舟氏によって揮毫された、親鸞聖人が述べられた和讃の一節の石碑が建っている。末尾には

昭和五十六年十一月
八十一翁 笹舟謹書

と刻まれている。氏は平成元年に八十九歳で逝去されたので晩年の作品である。

尚、光円寺には笹舟氏から六曲屏風一双が寄贈されている。七月の当会の「ぶら探訪」の際に、できれば見学させていただくことをご住職にお願いしておいた。「もし、都合がよければ」とのご住職のお言葉に期待したい。 

四つ堂二つ

福山志料には、天満天神社の傍には四つ堂が二つあると記されている。

感能寺堂

感能寺堂
感能寺堂
このお堂はかつては四本の柱がある堂であったそうだが、現在は画像のごとく屋根がなく、お地蔵様が風雨にさらされている。御利益があるそうで、御賽銭がたくさんあった。「感能寺」はそばのK家の屋号でもある。この付近の字名は「神能寺」であり、前号の「紙屋堂」と同様に発音は同じでも字は違っている。

坪生村史によれば、「徳川氏が天神社の別当に篠坂村の勧能院の住職を充てた」とある。笠岡市の、三宝院の前身の一寺である観音院と前記の勧能院は同寺だろうかと、三宝院へ尋ねたがはっきりしたことは不明とのことだった。

地蔵様の基壇の傍には朱が残る軒丸瓦があって目を引いた。笹舟氏の旧居は農家風の平屋と、二階建ての洋風だったそうで、平屋の屋根瓦かもしれない。

朱の軒丸瓦
朱の軒丸瓦

仁井の大師堂

仁井の大師堂
仁井の大師堂
地元の郷土史会が発行した「坪生たずね歩き」を片手に訪ねたが場所はなかなか分らなかった。一月の初旬に訪ねた際には朽ちかけたお堂だったが、しばらくして訪ねると、近所の方が修復していて見違えるようになっていた

いつも季節の花が絶えないように、地域の人たちが絶えずお参りされているという。時代は変わっても篤い信仰の心は継承されていることに敬服の思いである。

終わりに

大師堂から帰途につくと水を湛える天満池が眼下に見下ろせた。宝永八年の村の記録によれば、村内には溜池が四十二カ所もあった。農業用水は川よりも池に頼ったという。池造りの労苦はいかばかりであったことだろう。先人の偉大な足跡をたどりながら新芽が息吹く坪生町を後にした。 

「川筋を訪ねて」シリーズは今十回をもって擱筆します。ありがとうございました。

【桒田笹舟氏の旧居の跡】

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/05/c8e6f7f6d73936f088a3a45c1ada69fb.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/05/c8e6f7f6d73936f088a3a45c1ada69fb-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:183号」より 種本 実 連載「川筋を訪ねて」【その十】 桒田笹舟先生の歌碑三月の中旬に、天満池の南の丘に鎮座する天満天神社の境内を訪ねると白梅が満開だった。傍には福山市の名誉市民の一人である、故・桒田笹舟氏の旧居の跡がある。跡地は今は市に寄贈されて地元で管理している。 笹舟氏は若くして神戸市に住み、戦時中は疎開して生家へ帰省されて昭和二十九年まで過ごされた。 笹舟氏の生家では、昭和三十年代には当時としては未だ大変珍しかったテレビを購入され、近所の大人や子供たちが大勢見せてもらいに行ったという。チョコレートやココアなど、当時としては高価なお菓子が振舞われたが、愛しい郷里を想う氏が神戸から送られたものだった。 氏は福山市に源氏物語絵巻の書写など、たくさんの文化財を寄贈されている。その一端を紹介してみる。 旧居の跡の歌碑 左記は、歌碑の文字を笹舟氏の縁故の方にご教示頂いて当用漢字で書き写した内容である。 一千枚 書きて無能と いうことを知ると      いふ その無能か    ら出     発 日本芸術院賞受賞などに輝く、かな書道の大家である氏の高潔な人柄が窺える歌ではないだろうか。 歌碑は昭和六十一年に八人目の福山市名誉市民に推された年に建立され、傍には同年に笹舟古里後援会によって建立された「桒田笹舟先生顕彰碑」も建っている。 東光園の歌碑 特別養護老人ホーム「東光園」は坪生町の東に昭和五十七年に開設され、笹舟氏が揮毫した書を七年後に記念碑として建立した。旧居の跡の歌碑と同じく、縁故の方にご教示頂いて当用漢字にルビを挿入して書き写してみる。 朝くもりさむく    安(あ)りしが  雲はれて   安(あ)たたかく阿(あ)り 由(ゆ)ふ邊(べ) 月  阿里(あり) 東光園も旧居も共に小高い丘の上にあり、雲の流れや月が目線で捉え易かったのだろうか。 旧坪生小学校跡の沿革史を刻む碑 坪生小学校は、明治四年に開設された啓蒙所を基にして、明治四十一年には神森神社の境内、そして昭和五十年に現在地に移転した。 笹舟氏が揮毫した沿革史の石碑は昭和五十一年三月に同窓生によって建立されて“教育文化の一大聖地であった”歴史を現在に伝えている。 また神森神社の境内に上がる石段の前には、平成二年に建立された顕彰碑が建っている。 光円寺の石碑大門町の紫雲山光円寺には、笹舟氏によって揮毫された、親鸞聖人が述べられた和讃の一節の石碑が建っている。末尾には 昭和五十六年十一月 八十一翁 笹舟謹書 と刻まれている。氏は平成元年に八十九歳で逝去されたので晩年の作品である。 尚、光円寺には笹舟氏から六曲屏風一双が寄贈されている。七月の当会の「ぶら探訪」の際に、できれば見学させていただくことをご住職にお願いしておいた。「もし、都合がよければ」とのご住職のお言葉に期待したい。  四つ堂二つ 福山志料には、天満天神社の傍には四つ堂が二つあると記されている。 感能寺堂 このお堂はかつては四本の柱がある堂であったそうだが、現在は画像のごとく屋根がなく、お地蔵様が風雨にさらされている。御利益があるそうで、御賽銭がたくさんあった。「感能寺」はそばのK家の屋号でもある。この付近の字名は「神能寺」であり、前号の「紙屋堂」と同様に発音は同じでも字は違っている。 坪生村史によれば、「徳川氏が天神社の別当に篠坂村の勧能院の住職を充てた」とある。笠岡市の、三宝院の前身の一寺である観音院と前記の勧能院は同寺だろうかと、三宝院へ尋ねたがはっきりしたことは不明とのことだった。 地蔵様の基壇の傍には朱が残る軒丸瓦があって目を引いた。笹舟氏の旧居は農家風の平屋と、二階建ての洋風だったそうで、平屋の屋根瓦かもしれない。 仁井の大師堂 地元の郷土史会が発行した「坪生たずね歩き」を片手に訪ねたが場所はなかなか分らなかった。一月の初旬に訪ねた際には朽ちかけたお堂だったが、しばらくして訪ねると、近所の方が修復していて見違えるようになっていた いつも季節の花が絶えないように、地域の人たちが絶えずお参りされているという。時代は変わっても篤い信仰の心は継承されていることに敬服の思いである。 終わりに 大師堂から帰途につくと水を湛える天満池が眼下に見下ろせた。宝永八年の村の記録によれば、村内には溜池が四十二カ所もあった。農業用水は川よりも池に頼ったという。池造りの労苦はいかばかりであったことだろう。先人の偉大な足跡をたどりながら新芽が息吹く坪生町を後にした。  「川筋を訪ねて」シリーズは今十回をもって擱筆します。ありがとうございました。 【桒田笹舟氏の旧居の跡】備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
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