大門貝塚記念碑の除幕
17日午前中、大門町の「大門貝塚」跡ので、「大門貝塚」記念碑の除幕式がありました。
記念碑の側に立つ会員の曽我部氏
記念碑の建立は備陽史探訪の会会員で地元大門郷土史研究会の代表でもある曽我部光氏が発起したもので、義倉をはじめ多くの方々の義捐によって、今日の挙になったものです。
除幕式を報じた3月18日の中国新聞
大門貝塚は、備後地方ではじめて学会で紹介された縄文時代の貝塚で、昭和34年の国道2号線の建設で道路敷となり消滅しました。
この貝塚が発見された明治23年は、日本考古学界の揺籃期と言って良い時代で、その発見の意義は語っても語りつくせないほどの意義あるものでした。「貝塚論争」はその後、坪井正五郎や小金井良精などの「コロボックル、アイヌ論争」を経て、現在の日本原人論にたどり着きました。この長い論争で大門貝塚の出土品が学会を賑わせたと思うと、今回の義挙には感慨無量のものがあります。
男女二人の小学生による除幕
出席者は約30名、神事の後、小学生による除幕の後、直会で幕となりました。今回の式典には本会から田口会長が出席し、大門貝塚発見の意義について話されました。
https://bingo-history.net/archives/22568https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/05/dm1.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/05/dm1-150x100.jpg事務局だより17日午前中、大門町の「大門貝塚」跡ので、「大門貝塚」記念碑の除幕式がありました。 記念碑の側に立つ会員の曽我部氏 記念碑の建立は備陽史探訪の会会員で地元大門郷土史研究会の代表でもある曽我部光氏が発起したもので、義倉をはじめ多くの方々の義捐によって、今日の挙になったものです。 除幕式を報じた3月18日の中国新聞 大門貝塚は、備後地方ではじめて学会で紹介された縄文時代の貝塚で、昭和34年の国道2号線の建設で道路敷となり消滅しました。 この貝塚が発見された明治23年は、日本考古学界の揺籃期と言って良い時代で、その発見の意義は語っても語りつくせないほどの意義あるものでした。「貝塚論争」はその後、坪井正五郎や小金井良精などの「コロボックル、アイヌ論争」を経て、現在の日本原人論にたどり着きました。この長い論争で大門貝塚の出土品が学会を賑わせたと思うと、今回の義挙には感慨無量のものがあります。 男女二人の小学生による除幕 出席者は約30名、神事の後、小学生による除幕の後、直会で幕となりました。今回の式典には本会から田口会長が出席し、大門貝塚発見の意義について話されました。管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会