2月2日【ぶら探訪】福山城城下北側の守りを歩く 実施
福山城北側は南側ほど厳重な築城がなされず、防衛上の弱点と言われてきましたが、福山城下北側の防御施設まで含めて考えると、
きわめて強力な防御が考えられていることがわかってきました。
福山城下北の堀を兼ねた吉津川、福山城の真田丸的施設である松廼尾山、そしてそれから木之庄西の山塊まで伸びる土塁跡と
堀の役目をした沼であった木之庄盆地、これら一連の施設を歩きました。
今日の案内役は瀬良さん。福山駅北口の石垣下に集合して出発。
福山城北の防備の実態についてはいままでほとんど研究されてきませんでした。
実際に現地に行って説明を聞き、確認すると実感がわきます。
城の北を守る独立した山城として計画された松山下で説明を聞く参加者。
実質的な城の北の堀として掘られた吉津川を見学する参加者。まだ堀の雰囲気が残っている場所がありました。この場所で当時は幅が約50mです。
その後龍興寺前の吉津川へ。吉津川もここまでくると川の水面は満潮海面より低くなります。
今は吉津川河口は海と樋門で隔てられていますが、開ければここまで海水が入ってきます。
中世から江戸時代初頭吉津に港があったことが実感できます。
城北を守るために造られた松廼尾山で。城郭のような配置、外観で造られた寺社群を見学する参加者。
城の天守閣も望むことができ、城との位置関係も実感できます。
木之庄南に造られた防塁であった土塁跡の道を歩く参加者。
その西端にはそれに続く堀切や崖がありました。
ここでほぼ予定の時間となり解散となりました。
https://bingo-history.net/archives/20500https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/02/IMG_5138-1024x768.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/02/IMG_5138-150x100.jpg活動報告福山城北側は南側ほど厳重な築城がなされず、防衛上の弱点と言われてきましたが、福山城下北側の防御施設まで含めて考えると、 きわめて強力な防御が考えられていることがわかってきました。 福山城下北の堀を兼ねた吉津川、福山城の真田丸的施設である松廼尾山、そしてそれから木之庄西の山塊まで伸びる土塁跡と 堀の役目をした沼であった木之庄盆地、これら一連の施設を歩きました。 今日の案内役は瀬良さん。福山駅北口の石垣下に集合して出発。 福山城北の防備の実態についてはいままでほとんど研究されてきませんでした。 実際に現地に行って説明を聞き、確認すると実感がわきます。 城の北を守る独立した山城として計画された松山下で説明を聞く参加者。 実質的な城の北の堀として掘られた吉津川を見学する参加者。まだ堀の雰囲気が残っている場所がありました。この場所で当時は幅が約50mです。 その後龍興寺前の吉津川へ。吉津川もここまでくると川の水面は満潮海面より低くなります。 今は吉津川河口は海と樋門で隔てられていますが、開ければここまで海水が入ってきます。 中世から江戸時代初頭吉津に港があったことが実感できます。 城北を守るために造られた松廼尾山で。城郭のような配置、外観で造られた寺社群を見学する参加者。 城の天守閣も望むことができ、城との位置関係も実感できます。 木之庄南に造られた防塁であった土塁跡の道を歩く参加者。 その西端にはそれに続く堀切や崖がありました。 ここでほぼ予定の時間となり解散となりました。Sera taisera@pluto.dti.ne.jpEditor備陽史探訪の会