山陽自動車道、東福山IC付近は市村と呼ばれ、古代深津市のあった場所と言われています。
江戸時代には南に広大な干拓地が造られるなど歴史のある地区です。
今日は田中さんの案内で市村を探索しました。
本庄二股から山麓を流れてきた上井出川の東端。吉田新開と市村沖新開を隔てる割土手北の起点でもあります。
ここから南は水路の経路は当時と変わっていますが、芦田川から引かれた水が勢いよく流れています。
近くに市村八十八か所の石仏がいくつかまとめて安置されていました。
この後も道沿いに安置されているのが多く見うけられました。
市村の豪農で代々庄屋を勤めた土屋家で。市指定重要文化財の土屋家文書も拝見することが出来ました。
江戸時代米を納めた蔵も残っています。当時の庄屋の威容が想像できます。
半田池を望む丘から。蔵王第二の溜池ですが周囲に水田もなくなり現在は水が抜かれています。
右の写真は古代深津市とその港と考えられる方向を望んだ写真。中央左右方向に入り江があったと思われます。
蔵王八幡神社と宮の前廃寺跡で。古代深津市の中心と思われる場所で、宮の前廃寺跡にはまだあちこち古代瓦のかけらが落ちています。
八幡神社はアニメの聖地でもあります。
途中あちこちに辻堂がありました。右の薬師堂は良く整備されています。
上井出川沿いにあった金毘羅常夜灯。最後に現在は保育所になっている市村小学校跡を見学し終了となりました。
田中さん、世話をしていただいたスタッフの皆さんありがとうございました。
配布資料の「市村八十八ヶ所霊場2020」に誤記(30番を28番と記載)がありましたので、こちらを修正すると共に当日に頂いたご意見をもとに改良を加えたものを以下に置いています。PDF形式にしていますので、よろしければダウンロードしてお使いください。
https://bingo-history.net/archives/23677https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/12/IMG_7434-1024x768.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/12/IMG_7434-150x100.jpgSera活動報告山陽自動車道、東福山IC付近は市村と呼ばれ、古代深津市のあった場所と言われています。 江戸時代には南に広大な干拓地が造られるなど歴史のある地区です。 今日は田中さんの案内で市村を探索しました。 本庄二股から山麓を流れてきた上井出川の東端。吉田新開と市村沖新開を隔てる割土手北の起点でもあります。 ここから南は水路の経路は当時と変わっていますが、芦田川から引かれた水が勢いよく流れています。 近くに市村八十八か所の石仏がいくつかまとめて安置されていました。 この後も道沿いに安置されているのが多く見うけられました。 市村の豪農で代々庄屋を勤めた土屋家で。市指定重要文化財の土屋家文書も拝見することが出来ました。 江戸時代米を納めた蔵も残っています。当時の庄屋の威容が想像できます。 半田池を望む丘から。蔵王第二の溜池ですが周囲に水田もなくなり現在は水が抜かれています。 右の写真は古代深津市とその港と考えられる方向を望んだ写真。中央左右方向に入り江があったと思われます。 蔵王八幡神社と宮の前廃寺跡で。古代深津市の中心と思われる場所で、宮の前廃寺跡にはまだあちこち古代瓦のかけらが落ちています。 八幡神社はアニメの聖地でもあります。 途中あちこちに辻堂がありました。右の薬師堂は良く整備されています。 上井出川沿いにあった金毘羅常夜灯。最後に現在は保育所になっている市村小学校跡を見学し終了となりました。 田中さん、世話をしていただいたスタッフの皆さんありがとうございました。 配布資料の「市村八十八ヶ所霊場2020」に誤記(30番を28番と記載)がありましたので、こちらを修正すると共に当日に頂いたご意見をもとに改良を加えたものを以下に置いています。PDF形式にしていますので、よろしければダウンロードしてお使いください。 市村八十八ヶ所霊場2020改良版Sera taisera@pluto.dti.ne.jpEditor備陽史探訪の会