6月1日【ぶら探訪】神辺の寺院めぐり 川南から湯田まで歩きました
水野勝成の城下町の建設に伴い 神辺から福山に移転した寺院の跡に建立された現在の寺院、
また寺院の傍の神辺城下の町割りを歩きました。
神辺駅前に集合、今日の案内役は近世近代史部会の種本さん。
最初に「鯱瓦」の発見された地点へ。この辺りに中世何らかの建物があったと想像されます。
神辺城外堀の跡と言われる水路。堀であったとすれば当時もう少し広かったことが想像されます。
光蓮寺には文化4年の神辺大火でも焼失を免れた貴重な建物があります。
神辺本陣前を通って西福寺へ。元は胎蔵寺(神辺当時は西福寺と号した)であったが胎蔵寺が吉津に移され
その後に今の西福寺が再興された。文化4年の神辺大火で焼失したが、胎蔵寺時代の本堂は吉津観音寺に移築されている。
廉塾を通って萬念寺へ。前身は元亀年間に草創されたという大念寺。大念寺は福山寺町にされたが、
その後にこの萬年寺が建立された。秀吉が九州に向かう途中、ここで休息したと言われる。
その後、湯田に向かう途中にあった辻堂。この辺りの沼地が新涯になったとき、出来た集落ごとによりどころとして造られた。
覆いがかけられていますが、珍しく茅葺が残っていました。
その後湯田寶泉寺へ。天明の一揆を指導した徳永徳右衛門の墓がある。
ここで解散になりました。種本さんありがとうございました。
https://bingo-history.net/archives/22692https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/06/IMG_7037-1024x768.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/06/IMG_7037-150x100.jpg活動報告水野勝成の城下町の建設に伴い 神辺から福山に移転した寺院の跡に建立された現在の寺院、 また寺院の傍の神辺城下の町割りを歩きました。 神辺駅前に集合、今日の案内役は近世近代史部会の種本さん。 最初に「鯱瓦」の発見された地点へ。この辺りに中世何らかの建物があったと想像されます。 神辺城外堀の跡と言われる水路。堀であったとすれば当時もう少し広かったことが想像されます。 光蓮寺には文化4年の神辺大火でも焼失を免れた貴重な建物があります。 神辺本陣前を通って西福寺へ。元は胎蔵寺(神辺当時は西福寺と号した)であったが胎蔵寺が吉津に移され その後に今の西福寺が再興された。文化4年の神辺大火で焼失したが、胎蔵寺時代の本堂は吉津観音寺に移築されている。 廉塾を通って萬念寺へ。前身は元亀年間に草創されたという大念寺。大念寺は福山寺町にされたが、 その後にこの萬年寺が建立された。秀吉が九州に向かう途中、ここで休息したと言われる。 その後、湯田に向かう途中にあった辻堂。この辺りの沼地が新涯になったとき、出来た集落ごとによりどころとして造られた。 覆いがかけられていますが、珍しく茅葺が残っていました。 その後湯田寶泉寺へ。天明の一揆を指導した徳永徳右衛門の墓がある。 ここで解散になりました。種本さんありがとうございました。Sera taisera@pluto.dti.ne.jpEditor備陽史探訪の会