古志・有地両氏間の境界係争地の年代
「備陽史探訪:177号」より
矢田 貞美
目次
はじめに
古志氏謀殺に関する諸説を総括すると、時の権力者毛利・小早川両氏の情報が皆無に等しいこと、清左衛門の落ち度が原因と指摘していること、直接の下手人は、謀殺場所が三原では不明であるが、吉田郡山では有地元盛と井上春忠を、広島では有地由緒書によると有地氏を、それぞれ推測させるが、真相は不明である。しかし、井上春忠が古志清左衛門忙殺の功により新庄本郷城の出城大町城および福田城を拝領しており(西備名区)、木梨家先祖由緒書によると、木梨元恒没後、継子広盛は幼少故に高須玄番、山田四郎平衛の両家老が養育し、古志清左衛門が後見致すところ、両家老と古志の「豊臣秀吉直参への謀議」が露見し、これが直接のトリガーになったものと推察される。
さて、古志氏と有地氏間の境界係争を推測させる赤川勘兵衛書き出し書状の年代について論述する。
一 赤川勘兵衛書き出し書状
赤川勘兵衛書き出し書状「年欠六月十日付の小早川隆景宛の毛利隆元・元就の連署書状(閥閲録巷一〇八)」を以下に示す。
猶々少茂不審有間敷之由可被仰渡候
熊令啓候、古志。有地論所之儀、早々可放手之由、對有地頓申付相定候、然間一両日中従此方相副人差遣候而彼在所請取、古志江可渡候、此由古志江可被仰候、以使者雖可申(候)、一切無別条候間、以書状申入候、恐々謹言。
六月十日
隆元 御判
元就 御判
右馬頭備中守
隆景 御宿所 隆元
訓読
わざと啓せしめ候、古志・有地の論所の儀、速やかに手放すべきの由、
有地に対して速やかに申し付け相定め候、然間、一両日中に此の方より相副人を差し遣わし候、そして彼の在所を請取り、古志へ渡すべく候、此の由古志へ仰せらるべき候、使者を以て申すべきと雖も、一切別状無く候間、書状を以て申し入れ候、恐々謹言。
解釈
申し上げます。古志と有地の領地紛争のことは速やかに解決すべきである。有地に対して速やかに話をし決めるべきである。一両日中にこちらより説明する者を遣わすので、彼の云う在所を請取り、古志ヘ渡しなさい。この旨を古志へ使者をもって伝えべきであるが、何の問題もないので書状で申し入れたらよろしいでしょう。
論所
赤川勘兵衛書き出し書状は、隆元・元就が小早川隆景に対して古志氏と有地氏との所領争いの地域を、有地氏に古志氏へ返却させるよう指示したものである。論所の詳細や年代については不明であるが、論所を占領された古志氏の訴状により毛利氏が調停し、古志氏に返却されたものと推察される。
論所が福山市芦田町三斗木小字横内とすると(2)、新庄本郷城の出城である、中野口砦麓の横内がこれに相当することになる。往古の境界は河川および分水嶺が利用される場合が多く、横内の雨水や湧き水などは、本郷川支流の中野川に流下するので、毛利元就・隆元は訴状の論所を本郷分、即ち「古志分」と認定したものと思われる。
横内は新庄本郷から有地村に向かう道程の西側にあり、本郷村奥山の頂を越えた「火打ケ峠」西南の狭隘な谷合にある。横内の集落は昭和年代には八戸あったようであるが、徐々に転出し平成廿二年末頃にゴーストタウンとなっている。なお、「火打ケ峠地蔵堂の由来」によると、足利尊氏が松永(今津?)―横内―府中街道を開いたと伝える。従って、中野口砦の麓を通る足利氏縁の古道(中野街道)は本郷町の県道四八号(松永・府中線)の新延平橋辺りを基点とする福山市道一五八号(本郷・新市線)として整備され、現在も新市への近道として利用されている。
なお、有地氏は新庄本郷の奥山を越えた福山市芦田町有地を本貫地とするが、先述の分水嶺が領地の境界とすると、奥山の頂きより北側が有地氏の領地で、その南側が古志氏の領地であったものと推察される。
書状の署名年代
毛利隆元は天文十六年(一五四七)八月三日備中守に任官し、永禄六年(一五六三)八月三日和智誠春の館(仁後城‥高田郡船木村(現安芸高田市高宮町船木))に招かれ饗応を受け、高田郡佐々部村の宿舎蓮華寺へ帰って翌四日の明方四一歳で急死したと伝える。天文十五年(一五四六)元就の突然の隠居表明により、隆元が家督を相続して第十四代毛利家当主となるが、備中守の署名が認められるこの書状は天文十六年(一五四七)以降のことと推察される。何故ならば、この文書が上から目線の文面であることから、毛利氏が安芸備後を平定し束の間の安定期に入った年代に作成されたものと推察される。その年代は元就が陶晴賢に勝利し、防長の反乱を鎮圧した弘治三年(一五五七)十二月末から永禄六年(一五六三)の間のことと考えられる。
即ち、弘治二年(一五五六年)以降、毛利氏は尼子晴久に山吹城を攻略されて石見銀山の支配権を失っていたが、永禄三年(一五六〇)に尼子晴久が戦死すると、晴久の嫡男義久は第十三代将軍足利義輝に請願して毛利氏と和睦している。しかし、元就はこの和睦を破棄し、永禄五年(一五六二)より出雲侵攻を開始するが、九州戦線を受け持っていた隆元は幕府の仲介を利用して大友宗麟と和議を結び、父・元就の尼子討伐に参陣する途上において和智誠春の饗応後に急死している。永禄三年(一五六〇)前後の一、二年間は毛利氏にとって戦略的に安定していたと思われえるから、この勘兵衛書き出し書状はこの年代のことと推察される。
すなわち、元就が三子教訓状をしたためたのは、周南市富田の勝栄寺に在陣中していた弘治三年(一五五七)十一月二五日とされ(毛利家文書四〇五)、隆景が新築移転した(天文二十一年(一五五二))新雄高山城のお披露目の接待係の中に古志左衛門太夫豊綱が見え(小早川家文書い123、毛利家文書403)、更に、弘治三年(一五五七)二月、備後の国人衆十八名が軍人の狼藉や規律破りをさせないことを誓った、毛利氏親類衆年寄衆家人連署起請文案に登場する(毛利家文書225)。
従って、豊綱は天文二十一年(一五五二)から弘治三年(一五五七)二月までは存命したことになるから、この文書は豊綱の晩年か古志清左衛門吉信の時代のことと推察されるが、次項に示すが如く古志家文書によると、清左衛門吉信の時代のことと思われる。
有地氏が古志氏謀殺の下手人の一人とすると、この領地争いの当事者であったと思われる古志清左衛門吉信は約三十年後に仕返しされたことになる。
本書状の伝承の経緯
小早川隆景宛の毛利隆元・元就書状(閥閲録巷一〇八)は本来小早川家文書に所収されているのであれば納得できるが、赤川勘兵衛の書き出し書状に包含されたことには以下のような理由が考えられる。同書状の後書きによると、本来、この文書は佐藤家に伝来したものであるが、佐藤家が信辰の代で断絶したため、赤川勘兵衛の息子七郎右衛門種辰が佐藤信辰家を相続したので、赤川勘兵衛が判物等を書写し差し出したとされる。勘兵衛による前記書状の書写代筆は種辰がその任に堪えないほどの幼少であったためであろうか。
なお、本書状(閥閲録巷一〇八)の佐藤叉右衛門元実は毛利隆元の近臣であったので、小早川隆景宛などの書状も佐藤家に伝承されたものと思われる。
二 前項の「古志・有地論所の儀」との関連が推察される古志家文書
古志家文書は古志重信が保管
府中市の古志家で所蔵中に遺失したと推定される古志家文書の一で、年欠四月十三日付け古志因幡守宛て山名氏政書状の「殊先祖代々御判所持之面令被悦候」は、「代々所持している判形(花押)を見せていただいて参考になった」と解釈されるので、判形が古志家文書を指すとすると、重信宛以前の四状(佐々木古志佐渡守(義綱)宛足利義満御判御教書、古志左京亮(為信)宛の山名政豊感状と山名誠豊書状の二状、古志左京亮宛の大内義隆書状)を重信が保管所持しており、重信が古志家文書十一状を一括して保管所持していたことになる。
古志左京亮宛の大内義隆書状
古志左京亮宛の年欠五月四日付の大内義隆書状(古志家文書)を次に示す。
御覚悟誠以神妙候 仍本訴地此可有所勘弁儀候也(哉)、猶(楢)陶可申候、慶事期後信候也、恐々謹言
五月四日 義隆 花押
古志左京一元殿
訓読
御覚悟誠にもって神妙に候、よって本訴地この時所勘弁の儀有るべく候や、なお陶申すべく候、慶事後信を期し候也、恐々謹言。
解釈
大内方に味方するとの御覚悟は殊勝である。ついては、係争地を回復する好機ではないだろうか。なお、詳しくは陶が申すであろう。良い知らせを期待しましょう。
本文中の「本訴地」は、土地問題が係争中であることを推測させるが、具体的な内容は不明であり、本訴地が古志氏と有地氏間の前項の論所、横内に相当の可否を判断できる史料は見当たらない。「本訴地」は「年欠六月十日付け小早川隆景宛の毛利隆元・元就の連署書状(閥閲録巷一〇八)」の古志氏と有地氏の所領争いを指しているものとされる(松永市本郷町誌、黒川、福山市古文書調査記録集)。
しかし、後述の如く古志家文書十一通は重信父子が日御碕神社に寄託していたので、大内義隆書状の宛先古志左京亮は重信の父宗信とみるのが自然である。
「御覚悟誠以神妙候」は尼子方の古志氏が大内氏に与したと解釈でき、また、義隆が左京亮に対して「慶事期後信」と褒美を匂わせた好意的な文脈であるから、大内氏の雲州発向に与した返礼と思われ、天文十一年(一五四二)五月四日の書状と推察される。すると、祖父為信、父宗信および吉信の三代が左京亮であるが、古志家文書は重信が保管所持しており、同氏は出雲が本貫地であり備後に居住した痕跡は認められない。よって、本書状の古志左京亮は宗信に比定され、古志家文書の「古志・有地論所之儀」を指すとの仮説は成立しない。
なお、この大内義隆書状の年代・宛先を、松永市本郷町誌は天文十七年(一五四八)・吉信と、黒川は天文十九(一五五〇)か同二十年(一五五一)。吉信と、古志史探会編は天文十一年(一五四二)・宗信と、それぞれ比定している。
三 国人衆十二人が大内義隆に雲州発向を勧めた返礼の場合
天文十年(一五四一)四月十三日、尼子晴久は吉田郡山城攻めで敗軍以降、芸・備・雲・石の国人衆、三吉修理亮廣隆、福屋民部少輔隆兼(式部少)、高野山五郎入道久意、三澤三郎左右衛門為清、三刀屋弾正左衛門久佐、本城越中守常光、宍戸遠江守正隆(大炊助)、河津民部左衛門久家、吉川治部少輔興経、山内新右衛門隆通、宮若狭守秀景、古志清左衛門吉信、出羽主膳正助盛など十三人が天文十一年(一五四二)春、連署して大内義隆に雲州発向を勧めている(西備名区巻七、吉田物語巻第三、安西軍策巻第二)。
そこで、義隆は富田城攻めを決行するが、義隆の指導力不足に愛想を尽かし、天文十二年(一五四三)四月には三澤、三刀屋、吉川、本城、宮、山内、杉原、櫻井などの芸備雲石衆が変心したため、大内勢は大敗を帰することになる。しかし、古志清左衛門吉信の去就については不明であるが、この際吉信も変心したが故に、大内方の敗走ながらその後も存命し、天正九年(一五八〇)の八浜の攻防戦で活躍することができたものと推察される。
義隆書状の年代
年欠五月四日付古志左京亮宛の大内義隆書状が古志清左衛門吉信以下の芸・備・雲・石の国人衆十三人が天文十一年(一五四二)春、連署して義隆に雲州発向を勧めたことに対する返礼とすると、大内義隆は天文二十年(一五五一)九月一日陶隆房(後の晴賢)に殺害されるので、論理的には書状の発行は天文十一年(一五四二)春が上限で、死没した天文二十年九月一日以前の天文二十年(一五五一)五月四日が下限となるが、天文十一年(一五四二)五月四日の文書と見るのが一般的と考えられる。
ここで、論所の訴地が横内とすると、その解決には大内義隆の時代の懸案が隆元・元就の時代までの少なくとも十八年間以上を要したことになる。
なお、黒川(3)および広島県史(4)は、原文(写真)を直線アンダーラインの如く「御覚悟誠以神妙候、仍本訴地此時可有所勘候、幸儀候哉、猶陶可申候、慶事期後信候也、恐々謹言」と読み下しているが、読み下しは前記の福山市古文書調査記録集(5)および古志史探会編(6)による点線アンダーラインの方がより適切と思われる。
四 福山市藤江町の古志氏が古志家文書を所持していた理由
古志家文書十一状の内、七状は重信宛のものであるから、重信父子がこれらを日御碕神社へ寄託したと推測される。何故なら、古志家文書は浦上古志本家(屋号、隠岐屋)の第八代浦上甚平衛盛栄(文政三年(一八二〇)没、五四歳)が日御碕神社より持ち帰ったと伝承されるためである(松永市本郷町誌(7)、市川(8)、古志家末裔の伊藤敏子氏談)。古志家文書は、明治四年頃に古志に復姓した府中市の古志本家(屋号、隠岐屋)第十一代古志甚兵衛盛陽の遺言により、同第二代の分家(屋号、三井屋)の第八代古志利左衛門盛義が明治十六年六月九日付けで相続したものである。
盛義は古志家文書等を盛陽より相続し、その後、姻戚関係にある福山市藤江町の山路家の後援を得て特定郵便局を営むため、三井屋第九代古志卓三盛敏(昭和十七年十月六日没、八十歳)が、明治三九年福山市藤江町串の浜へ転居したから、同市同町の古志氏が所有することとなったのである。
しかし、藤江の古志氏は千葉県八千代市へ転出し(昭和五一年十二月)、古志家文書は古志氏末裔の佐藤吉子氏より平成十一年四月出雲市へ寄贈されている。
引用文献
(1)青木繁:尾道市史(資料二十木梨先祖由緒)、六五五~六五九、一九七一.
(2)藤井高一郎:新庄古志氏の城砦について、文化財ふくやま十四号、二七~三二、一九七九.
(3)黒川正宏:古志家文書について(二)、芸備地方史研究一〇五、十六~二十、一九七五.
(4)広島県:広島県史 古代中世資料Ⅳ、八六八~八七五、一九七八.
(5)福山市教育委員会・文化財協会編刊:福山市古文書調査記録集、二〇~三二、一二六、 一九七六.
(6)古志史探会編(執筆長谷川博史):出雲古志氏の歴史とその性格―古志の歴史Ⅱ―、六五~六六、一九九九.
(7)(財)弘徳協会編刊:松永市本郷町誌、一五四、一九六五.
(8)市川朝男著刊:新庄本郷 大場山城主正統記、八一~八二、一九九二.
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