山田渡辺氏と鞆(『福山志料』付録の古文書を読む)
「備陽史探訪:111号」より
小林 定市
阿部福山藩は今から約二百年前の文化二年(一八〇五)に、地誌の編纂事業に着手し文化二年に『福山志料』を完成させた。同書の巻尾に付録として古文書の部があり、備中国に流出していた渡辺氏関係の中世古文書五通の写し文書が記載されている。
前記の古文書は(『廣島県史』古代中世史料編V)に解読され収載されている。同文書の中に渡辺詮が渡辺越中守兼に、宛てて書き送ったと推定されている三通の書状がある。問題は実在が証明されていない、渡辺越中守兼より身分が高い渡辺詮という人物が果たして存在していたのであろうか。問題は渡辺詮の花押であるが、花押を注意して見ると「詮久(花押)」に見えてくる。次ぎに問題の詮の書状を記し、続いて同文書の解読文を併記する。
〔年不詳・渡辺越中守兼宛詮久書状〕
伴安国寺役事、如先々被仰付
候者可然候、寺領二付候間、
御分別専一候、恐々謹言、
六月廿六日 詮久(花押)
渡辺源三殿(越中守兼)進之候
安国寺(備後國鞆)役の事に伴い、
先々の如く仰せ付けられ
候わば然るべく候、寺領に付き候間、
御分別専一に候、恐々謹言、
六月廿六日 詮久(花押)
渡辺源三殿之(これ)を進(まい)らせ候
この文書の文面を見ると、詮久という人物が鞆安国寺の寺役に付いて、今後も以前と同様分別を以って対応し、寺領の処理をするよう渡辺源三に要請した文書のようである。
書状に見られる宛先の渡辺源三とは、備後守護山名氏の被官人として沼隈郡草土(草戸千軒を含む)の代官を勤めた後、沼隈郡山田郷一乗山城の城主となった渡辺越中守兼と推定して誤り無いであろう。越中守兼は天文二十三年(一五五四)十一月八日に八十三歳で死没した武将である。
次ぎに越中守兼が存命中の天文初期(一五三二~四二)の頃、「詮久」の名前を用いた武将に尼子詮久がいる。詮久は尼子経久の嫡孫に当る武将で、通説に依ると天文六年(一五三七)経久の引退により家務を掌握し、天文十年(一五四一)十月二日将軍足利義晴の偏諱を賜り名前を晴久と改め、同年十一月に経久の死没に伴い家督を相続した。
『福山志料』に書写されている詮久の花押は、尼子詮久の花押形やその特徴を誤り無く伝えており、天文八年又は九年の頃詮久が備後南部の鞆に支配力を浸透させていたことを物語る文書のようである。
詮久は鞆の隣接地に当る一乗山城々主の越中守兼に、安国寺役に就いて「先々の如く仰せ付け」と昔も今も変えない事を前提として申し付けた文書で、鞆の支配者が備後守護山名氏から尼子詮久に代っても、旧来の慣例をそのまま踏襲させた。
天文七年八月詮久は、幕府の実権を握ろうと企て上洛を計画しており、精強な詮久軍の前に但馬の山名氏は和を請うに至り、詮久の鉾先は備後に向くと同時に天文九年九月元就の安芸郡山城を攻略しようとして三万の大軍勢を派遣した。
其の他『福山志料』には、詮久が越中守兼宛に出した年月不詳の六月廿日の書状が記されている。内容は「仍って藝州金山(佐東郡銀山城)番衆の儀、春以来長々と仰せ付けられ候、本望に候、唯今は入らぎる儀に候条、御人数を引かられるべく候」と詮久に味方し大内氏に敵対していた、武田光和の銀山城から渡辺越中守兼の城番が不要となったのか引き揚げを命じている。
備後地方に関係する詮久の書状は、天文五年三月十一日の『山内家文書』に「尼子民部少輔詮久」と詮久の名前が記され、天文十一年十月六日の『吉川家文書』には「尼子民部少輔晴久」と足利義晴の偏諱名を用いた晴久の書状が残されている。
『渡辺氏系図』に依ると、尼子詮久が郡山城攻撃を行った際、越中守兼の弟渡辺源十郎は青山土取場合戦で討死しており、元就が書いた「毛利元就郡山籠城日記」にも渡辺源十郎は討死と記録されており、渡辺毛利両家の記録は完全な一致が見られた。
当時兄の渡辺越中守兼は尼子詮久に従っていたらしく、弟の渡辺源十郎は尼子に敵対していた元就の籠城を支援して派遣され、渡辺一族は尼子氏と毛利氏の双方に誼を結び、一族の何れの側が勝っても生き残れる様に生き残り策を模索していた様である。
渡辺氏が毛利に臣従した時期について、長州の「渡辺系図」は「元就公山口御下向に付き御供仕り其れより御家来に罷り成り候」と記録しており、元就が山口に赴き大内義隆に閲した年は天文十八年(一五四九)三月であることから同年頃家臣に加わったのであろう。
詮久は郡山城を囲み数次の激戦を展開したが、翌十年正月に詮久軍は敗れ撤退の後出雲に帰還。天文十一年正月、大内・毛利軍が出雲に遠征し月山富田城を囲み、数次の交戦を行うも要害堅固のため攻略不能となり、翌天文十二年五月に大内・毛利軍は総退陣となった。
大内氏は出雲攻略の失敗から、天文十二年末頃になると備後神辺城の制圧に力を傾注したようであるが、神辺城は要害堅固なため持久作戦となり海運の強化を図ったらしく、大内義隆は天文十三年、鞆浦の十八貫を因島の村上新蔵人に宛送った。
一説に村上新蔵人は鞆の大可島城に拠ったと伝えている。その後の天文二十年(一五五一)九月、大内義隆は家臣の陶隆房に山口を襲撃され深川の大寧寺で自刃して果てた。
この政変で大内氏の支配力は急速に衰え、この間隙を縫って各地を攻略した毛利元就は、備後南部と備中に進出する独自の拠点造りを鞆で進めつつあった。
天文二十二年、毛利元就は比婆郡泉川の荻ケ瀬に進出し尼子詮久の先鋒隊と対峙していた。その陣中で毛利元就と嫡男の隆元は、鞆新城完成の礼状を書き送っている。宛先は草戸から山田の一乗山城に進出した、渡辺越中守兼の孫渡辺出雲守房であった。
〔天文二十二年、渡辺房宛元就書状〕
御折紙拝見候、鞆要害被取誘被相調之由候、普請大儀之子細候、則時二被仰付候事、誠御入魂無比類難申盡候、番衆等之事承候、得其心候、油断之儀有間敷候ゝ、
(以下略)
(天文二十二年) 毛利隆元御判
五月十日 右馬頭元就御判
渡辺出雲守殿公房)御返報
御折り紙を拝見候、鞆要害を取り誘われ相調えられるの由に候、普請は大儀の子細に候、則時に仰せ付けられ候事、誠に御入魂比類無く申し盡くし難く候、番衆等の事承り候、其の心を得候、油断の儀有る間敷く候ゝ、
〔天文二十二年、渡辺房宛元就書状〕
(前略)
一、当津要害(鞆城)之事、幾度申候而も御入魂難申盡候、此度御馳走心中之程者不得申候、(後略)
(天文二十二年)毛利隆元御判
五月廿四日右馬頭元就御判
渡辺出雲守殿(房)御返報
一、当津要害の事、幾度申し候ても御入魂申し盡くし難く候、此の度の御馳走心中の程は申し得ず候、
(山口文書館所蔵『譜録』)
渡辺出雲守房は元就の要望に沿い、一族を率いて速やかに困難を排除しながら鞆新城の築城に着手し完工させており、元就は深く感謝の意を表明すると同時に番衆(城詰警衛侍)の件は承知した、周囲の情勢をよく見極め、油断は禁物注意を怠らないようにとの指示を出した。
鞆城の起源について、通説では「毛利氏が将軍足利義昭を鞆に迎えた頃」と推定されてきた。しかし、元就の書状を肯定すると築城時期は二十三年も遡ることになり、築城場所に就いては村上新蔵人が拠城としていた以外の城地が妥当と考えられる。
前記の文書に誤りが無ければ、天文末年頃の鞆には大内方の村上氏の城と毛利方の渡辺氏の城が完成。大内氏と毛利氏に関係した二城が並立して存在していた可能性が大である。
村上氏が毛利家に臣従した時期に就いては、弘治元年(一五五五)の厳島合戦前とする説が有力である。
天正四年(一五七六)春、足利義昭は幕府近臣を従え鞆に来住した。その際渡辺氏は警護と接待役を勤めていたらしく、足利義昭は渡辺氏の親子孫の三人に、三通の「白傘袋・鞍覆いの免許」を与えている。
渡辺出雲守房宛の御内書(山口文書館所蔵)の日付は「三月十三日」、次男の渡辺民部少輔元宛の日付は「十二月十三日」、孫の渡辺出雲守源八景宛の日付は「二月十日」と、三通の月日が異なる御内書が伝えられており受取場所は鞆津の可能性が高い。
出雲守房は、天正十六年四月十五日に死没、行年七十五歳。出雲守房の嫡男源三高は、天正三年六月五日に備前国児島常山合戦で戦死、行年二十八歳。出雲守房の跡を相続したのは次男の民部少輔元であったが、天正十九年二月七日に死没、行年三十六歳であった。民部少輔元の家督を相続した、嫡男の四郎右衛門出雲守景(法名穆安日等)は小早川隆景に従い朝鮮に出陣。慶長五年の関ヶ原合戦後は長州の毛利家に仕えていたが、嫡男の源助佐渡信だけを長州に残し置いて景親子は思い出の多い鞆に帰住した。
元和五年(一六一九)福嶋氏が改易となり、水野氏が入国して三代目の水野勝俊は最初鞆城に居住したらしく、出雲守景の三男杢太夫政が鞆で水野勝俊に仕えた事が機縁となって、次男の勘左衛門秀も水野家に仕官する身となった。以上渡辺氏にとって、鞆は草土や山田(現在の熊野町)と同様に関係の深い土地であった。
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