2014年06月01日

高諸神社の石造物について(福山市松永町)

備陽史探訪:178号」より

岡田 宏一郎

高諸神社の石造物

去年の6月にぶら探訪「松永西を歩く パート2」を実施したが時間不足のため高諸神社で解散となったため、数多くある石造物についての説明が出来なかった。ここで改めて、尾道に関係した石造物を中心にして紹介したい。

以前から気になっていた境内入口に鎮座している狛犬の台座に大きく「尾道」と刻まれているが、台座には「奉献」と刻まれているのが通常であるから気になっていたのであった。台座の後ろ側に文字が刻まれているのは知っていたが風化していて判読しにくいし、玉垣の間にはさまれ読めないためそのままになっていた。そこで何かわかる資料がないものかと探していたら「まこと」(昭和十四年十二月号)の中に「高諸社神明記 其の三 営物と寄進物」(矢野梅哉)を読んでいると「獅子 文化十三年 尾道 播磨屋松之助 茶屋儀八 中島屋忠三郎 寄進」の記事に目が止まった。

このことから「尾道」と刻まれているのは寄進者である尾道商人の町名であると判断した。珍しいので気になっていたことが分かり納得したのである。また狛犬の右後方の玉垣は「文化十二年寄進」であることが書かれていたことからも分かった。

境内に入ったところすぐに鳥居があるが柱がセメントで補強されていて刻まれていると思われる文字が分からない。かすかに「劍大明神」と判断したほかは読めない。そこで同じく「まこと」にある高諸社神明記を見ると

元禄七年大雩福山領盡郡立

とある。元禄七年(1694)だから境内の石造物の中ではもっとも古いのではないかと思った。

境内の右側に忠魂碑があるが、その横にはセメント製の「楠正成騎馬武者像」がある。これは戦前今津小学校にあったもので戦後この場所に移された。当時は奉安殿(昭和十年落成)の横に建立されていたもので銅像であった。この楠正成の銅像は神戸に在住した今津出身者二人による寄附である。

さらにその横にある常夜燈は「松永西歩きパート1」で見た大正ロマンを感じさせる木造三階建ての元まねき洋品店横の水路上に建てられていたもので、ここまでが今津町で常夜燈には「末廣町」とあり

金刀比羅神社 明治廿三年九月建之

と刻まれている。末廣町は松永町になり、この南側の路からが松永分になる。

正面の石段下に巨大な注連柱(標柱)が見えるが、この注連柱の大きさは県下第三位の規模である。地元出身者による寄進で

麻生唯右衛門宗光 建

とあり石工は「矢野亀蔵工作」となっていて同じく地元今津の石屋によるものである。

境内を入った左(東側)に王子神社がある。この狛犬の台座には

文久二年戊二月吉日 平櫛小左衛門 村上重右衛門

とあり地元今津の有力者による寄進である。

国道側には出雲型と呼ばれている狛犬がある。これは彫が優れているだけでなく大きくて迫力があるから尾道石工の手による狛犬だと思って丁寧に見たらやはりそうであった。台座には

明治四拾年五月吉日 木村浅治郎義光 寄進

とある。また

尾道市 石工 橋本住吉 □谷金松

とあるが、石工の名前が正確に判読できないため間違っているかも知れない。

境内には常夜燈・燈龍などが多くあるが国道側にある常夜燈は大きく「天明八年」の刻銘があり寄進者の名前があるが全部は読めなかった。

そこで「まこと」(昭和十四年十二月号・高諸社神明記 其の三)を見ると

松永 岡本喜代八、東村 石井藤七郎、神村 石井長蔵、西村 石井善次郎、今津 水野伊作、外氏子中寄進

と書かれていた。これらの村はいずれも松永地域の村々で、氏子による寄進である事が判明した。

その他、資料には稲荷社にある石造狐について

尾道 徳平 小竹 捨吉 卯助 建

とあるので確認のため調べたが読めなかった。また「手水舎」は

天保四年雨乞御禮ニ郡中ヨリ寄進

とあるが手水舎が立て替えられ新しくなっているので分からなかった。

「力石」についても書かれているため探したが見つからなかった。だが資料によると

年代不詳 向島西村 友次、彌二 寄進

とある。境内にはかなりの石造物があるが判読できないものも多く、またすでに消滅している造営物などについては「まこと」や「青むしろ」などの資料から知ることが出来た。とにかく高諸神社はその賑わい振りから多くの石造物や造営物があり、しかも尾道に関係した石造物が目立っているのが特徴である。

高諸神社の賑わいについては、「まこと・青むしろ」などに書かれているので、そのうちに紹介できればいいなあと思っているところである。

【引用及び参考文献・資料】
「まこと 昭和十四年十二月号(高諸社神明記 矢野梅哉)
青むしろ昭和十一年 第四巻 第一号」