2014年04月01日

干拓地に建てられた手城堂についての考察(福山の四ツ堂)

備陽史探訪:177号」より

三好 勝芳

手城堂

手城堂

備後南部には、四ツ堂が特に多く、福山志料(文化六年、一八〇六)には、五九六ヶ所、深津郡だけでも、七四ヶ所もあると云う。

なぜ、備後南部に四ツ堂が、そんなに多いのか、全国的にも珍しいと云われている。

備後福山の初代藩主水野勝成公は、藩主として福山に入府される以前、備後南部を流浪された時代があり、その際、休む場所も露を凌ぐ所もなく難渋されたことから、福山藩主になって、この地に入府され、方々の四ツ辻などに休み堂を造ることを奨励されたことが、契機となり、多くの四ツ堂が作られたとの伝説が生れた。

ところで、福山市東手城町堂の脇に「手城堂」と呼ばれる四ツ堂がある。この四ツ堂は、水野干拓の終盤になって、深津湾の干拓によって出来た手城村に作られた唯一の四ツ堂である。堂の廻りの集落を「堂の脇」と呼び、手城村の地名にもなっている。

手城村は、寛文六年(一六六六)に、潮止土手が造られ、手城新開という干拓地が、千間土手の南側に出来てからの村落である。干拓地が耕地になるには、少なくとも二~三十年を要し、米作可能地になるには、四、五十年の年月を要したのであろう。

工作可能地となった干拓地には、方々から入植者が年々増加し、集落も出来、手城村が形成された。入植した地域農民の観音信仰や庚申信仰などの民衆宗教の活動の場が必要となり、また地域住民の懇親や情報交換の場も必要となった。その場として、四ツ堂を造ることになったのである。

手城堂は、いつ頃建立されたのであろうか。現在の手城堂の由緒書には、仏語石碑の記載から、元禄四年(一六九一)八月に創建されたと書かれているが、仏語石碑とは何か、何処にあるのかも判らない。

この創建時期については、次の点で疑義がある。

第一には、寛文六年(一六六六)から、元禄四年(一六九一)は、二十五年しか経過していないので、四ツ堂を造るだけの集落が形成されていないと考えられる。

第二は、備後の歴史書の備陽六郡志(一七四〇年代)に手城四ツ堂の記載があることから、米作が可能となった一七〇〇年頃から一七四〇年の間に、手城堂は建立されたものと考えられる。

更に第三には、現在の古老(関本氏)によれば、手城堂は、野々浜の横道から引いて(移設)来たものと云う伝承があると云う。然れば、由緒書に云う創建時期の元禄四年八月と云うのは、野々浜に造られた時期を示しているのではなかろうか。

従って、手城堂は、手城新開の干拓後、手城村への入植者が集落を形成するに要するだけの数にのぼり、現在の「堂の脇」の集落が出来て、この集落の民意によって、堂が建てられたものと推定出来る。

水野勝成公の流浪時代からは、二百年が過ぎ、水野家改易からでも、五〇年以上が経過しており、当初の勝成公伝説とは関係なく、その地域の住民の要望に沿って、手城堂は創建されたのである。

このように備後南部では、地域住民が「地域の要望に基づいて、自主的に、多くの四ツ堂を建立する」と云う風潮があったのであろうと思われる。

その風潮が生れた背景には、勝成公伝説が、一つの契機となっているのかも知れない。

(平成二十六年一月三十一日記)

手城堂の由緒書

手城堂の由緒書