草戸中山城跡の再発見
11月24日木曜日、午前9時「草戸川西街道」準備室の皆さんと草戸町某所で参会、趣旨説明の後直ちに山に入る。
探訪の会会員2名、準備室の皆さん21名、新聞記者4名。
通称「大鳥越」と呼ばれる旧道から尾根上に出、15分で下見調査時に発見した「井戸跡」に到着。怪しいと睨んでいた南側の山頂を目指す。
ヤブコギ30メートルで山頂に到着、標高104メートル、眺望絶景である。
山頂は平坦、それも人工的に削平した曲輪跡に間違いなく、周囲に約2メートルの切岸がくっきりと残り、西から南にかけて一段低く「帯曲輪」を廻らす。
さらに、北側の井戸跡の下には巾5メートル、長さ30メートル前後の帯曲輪の跡が2段残っている。
間違いなく、中世の山城跡である。
手早く、巻尺で計測し、再び元来た道を引き返す。
今回発見した城跡から、東に二つのピークがあり、いずれも加工の痕跡が残り、曲輪跡である。また、ピークとピークの間には「土橋」状の地形が見られる。
城の遺構は、東南に続くやせ尾根上にも残り、その先端が現在「中山城跡」とされる丘である。
江戸時代の地誌や『沼隈郡誌』によれば、草戸中山城は「大鳥越の上にあり」とされており、今回発見された標高104メートルの山頂に築かれた城跡がそれに該当するものと判断される。地形から見て、この新たに発見された城跡と、「中山城跡」とされる南端の丘上の城跡は一連のもので、今回発見された城跡が「本城」、中山城跡とされていた小丘上の遺構は、その「出丸」と考えるのが妥当である。
地元の皆さんは、今回の成果を大変喜んでおられ、城跡を整備して市民の憩いの場所にしたいと話されていた。
なお、同行記者の報道に注目して欲しい。
https://bingo-history.net/archives/377https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/1327595680-1024x753.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/1327595680-150x150.jpg事務局だより報告,報道,山城,調査11月24日木曜日、午前9時「草戸川西街道」準備室の皆さんと草戸町某所で参会、趣旨説明の後直ちに山に入る。 探訪の会会員2名、準備室の皆さん21名、新聞記者4名。 通称「大鳥越」と呼ばれる旧道から尾根上に出、15分で下見調査時に発見した「井戸跡」に到着。怪しいと睨んでいた南側の山頂を目指す。 ヤブコギ30メートルで山頂に到着、標高104メートル、眺望絶景である。 山頂は平坦、それも人工的に削平した曲輪跡に間違いなく、周囲に約2メートルの切岸がくっきりと残り、西から南にかけて一段低く「帯曲輪」を廻らす。 さらに、北側の井戸跡の下には巾5メートル、長さ30メートル前後の帯曲輪の跡が2段残っている。 間違いなく、中世の山城跡である。 手早く、巻尺で計測し、再び元来た道を引き返す。 今回発見した城跡から、東に二つのピークがあり、いずれも加工の痕跡が残り、曲輪跡である。また、ピークとピークの間には「土橋」状の地形が見られる。 城の遺構は、東南に続くやせ尾根上にも残り、その先端が現在「中山城跡」とされる丘である。 江戸時代の地誌や『沼隈郡誌』によれば、草戸中山城は「大鳥越の上にあり」とされており、今回発見された標高104メートルの山頂に築かれた城跡がそれに該当するものと判断される。地形から見て、この新たに発見された城跡と、「中山城跡」とされる南端の丘上の城跡は一連のもので、今回発見された城跡が「本城」、中山城跡とされていた小丘上の遺構は、その「出丸」と考えるのが妥当である。 地元の皆さんは、今回の成果を大変喜んでおられ、城跡を整備して市民の憩いの場所にしたいと話されていた。 なお、同行記者の報道に注目して欲しい。管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会