1996年04月20日

藁江庄を歩く(福山市金江町)

備陽史探訪:持ちまわり記念70号」より

田口 義之

私と坂本さんで担当した松永湾の史跡巡りは、天候にも恵まれ、好評のうちに終えることが出来た。ただ残念だったのは、徒歩例会だったため、見学場所が限定されたことだ。松永には他にも案内したい場所がたくさんある。特に、中世の面影を残した旧藁江荘域の金江町一帯は私の一番好きなフィールドの一つである。

国道二号線を赤坂町で南に折れ、農免道路に入ると、道は次第に上り坂となり、一つの峠を越える。この峠は藁江(わらえ)峠と呼ばれ、難所として知られていた場所である。峠を越える手前で視線を左に移すと、見る者を圧するように山頂を平らにした高い山が目につく。室町時代、峠の向こうに存在した藁江庄の関門、赤柴(あかしば)山城跡である。

南麓のため池の土手から登って行くと、道は次第に険しさを増し、鉄塔の辺りからは木の根・岩の角につかまりながらの登りとなる。稜線の出丸に出て、更に山頂の本丸を目指すと、次第に視野が開け、急に平らな場所に出る。目を凝らすと周囲に何段にも削平された曲輪の跡が見られ、ここが確かに城塞の跡であることが分かる。

中世、ここに城が築かれた時代、南に広がる藁江庄は、武将たちにとって垂涎の地であった。今でこそ金江町から藤江町にかけての松永湾の東岸は、交通の便の悪い、いわば福山の”地方”に当たるが、当時は柳津や藤江の港を擁した瀬戸内海航路の要地で、備後の表玄関に当たる場所であったのだ。

『兵庫北関入船納帳』という室町期の史料によると、兵庫北関、今の神戸港に入港した船の中には藁江船籍の船が何隻か見られ、当時この地が鞆・尾道と並ぶ瀬戸内の要港として栄えていたことが分かる。また、他の史料によると、この地には塩浜、つまり、塩田が存在したことが分かっており、この塩田収入も支配者達の争奪の的となっていたのである。

藁江庄の範囲は、北は柳津町、南は尾道市の浦崎町一帯にまで及んでいたようだ。柳津町の西瑞には庄園の境界を意味する遍坊地(傍示(ぼうじ))という地名が残っているし、浦崎の八幡神社は、藁江庄の鎮守であった金江の八幡神社から別れたものである。

庄園の領家は、京都の石清水八幡神社である。同社は、全国の八幡神社の約半数の総本山として知られ、平安時代以来朝野の信仰を集めていた。鎌倉時代の記録によると同神社の庄園は備後に三ヵ所あって、その一つがこの藁江庄であったのだ。

しかし、室町後期になって世の中が乱れて来ると、庄園の支配をねらって周辺から武家勢力が侵入して来る。最初に入って来たのは、備後守護の山名氏であった。先に紹介した『兵庫北関入船納帳』によると、藁江籍の船は「山名殿国料船」とあり、このことを示している。

だが、応仁の乱が勃発し守護の力が衰えて来ると、今まで鳴りを潜めていた土着の武士たちが実力で庄内に侵入して来た。赤柴山城は、室町初期、藁江氏によって築城されたと伝えるが、この藁江氏などもこうして侵入して来た在地武士の一人なのであろう。

そして、戦国期になると三原市八幡町を本拠とした渋川氏の勢力がこの地にも及び、同氏が毛利氏に属すと共に、一帯は戦国大名毛利氏の領国と化した。渋川氏のことは余り知られていないが、九州探題を世襲した足利氏の一門で、早くから沼隈半島に所領を持ち、備後への土着と共にこの地にも入って来たものである。

付近を散策すると、至るところに中世の面影が残っている。庄内のほぼ中央に建つ金江の八幡神社は藁江庄の鎮守八幡と推定されるが、庄園を見下ろす小高い丘の上に立てられ、かつてこの神社が京都の石清水八幡社の末社として庄園支配の一翼を担っていたことをよく示している。

また、八幡社の東の丘には藁江城と呼ばれる一角が残っている。現地を訪ねて見ると、東から続く尾根続きを空堀によって断ち切り、山頂を平らにならした、まさに中世武士の居館の跡である。地元では、赤柴山城と同じく藁江氏の城と伝えているが、庄内の中心に位置し、八幡社に隣接することから、庄園の支配を担った代官の居館にふさわしい立地である。近くには中世の宝篋印塔の残る真言宗の古刹もあって、赤柴山城と共に是非訪ねたいポイントのひとつである。