御領の地名と山城

備陽史探訪:179号」より

会長 田口義之

滝山城址(1970年)
滝山城址(1970年)

去六月十五日、神辺町上御領の金光教芸備教会にて、我備陽史探訪の会中世史部会の「大東宇山城跡測量調査報告会」が開催された。

半年間にわたった測量調査によって分ったことなどは、坂本部会長の報告に譲るとして、ここで紹介したいのは地名「御領」と、一帯の中世山城の状況である。山城は地域の歴史の中で築かれ、他の山城と関連しながら使用されたからだ。

御領の地名は、皇室にかかわる土地であったからだとは、昔から言われて来たことだ。元弘の変に際して、在地の土豪と伝えられる重政、目崎の両氏が後醍醐天皇に応じて挙兵したのも、御領が皇室領であったためと考えられてきた(御野村誌など)。

実際、室町幕府の裁判記録である「御前落居記録」によると、宮氏と岡崎門跡が当時「安那東条」と呼ばれた御領の領有をめぐって争い、永享三年(一四三一)十一月、将軍義教の裁定で門跡側の勝訴となったことが知られる。

安那東条とは、平安期に安那郡を東西に三つの地域に分け、東から「東条」「中条」「西条」と呼んだもので、現在、中条のみが大字の地名として残っている。西条は現在の加茂町にあたり、安那郡の分割は地形によっていることが分かる。

御領の地名の由来が岡崎門跡の領有に関係することは、まず間違いない。岡崎門跡とは、岡崎殿と呼ばれた実相院門跡のことと考えられ、元京都の岡崎に在ったが応仁の乱後現在地の岩倉に移転したため岩倉殿と呼ばれるようになった。天台宗寺門派の宮門跡で、幕末岩倉具視が一時隠棲していた場所として知られる。宮門跡が領家であったことから御領の地名が生まれたのであろう。

大東宇山城跡と関連付けられるのは、平野を挟んで南正面に聳える滝山城と、東北に位置する高屋城、さらに西方1キロのところに存在する竜王石山城である。滝山城は備後宮氏の居城と伝えられ、岡崎門跡と御領の領有を争ったことで知られる。高屋城は藤井氏の居城で、戦国期、藤井能登入道皓玄は神辺城に出仕して宿老を勤めた。大東宇山城は皓玄の高屋城から神辺城に到る往還を守備する位置を占めている。竜王石山城は在地の土豪、重政、目崎氏の居城と伝えられ、同じく、備中から備後にいたる街道を俯瞰する位置を占めていた。

大東宇山城跡は、これら周辺の山城と有機的な関連を持って存在したに違いない。今後の研究発表に期待したい。

御領の地名と山城(神辺町上御領・大東宇山城跡・滝山城・高屋城・竜王石山城)https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2014/08/c25ffb30434a18851715fd9721cacc08.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2014/08/c25ffb30434a18851715fd9721cacc08-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:179号」より 会長 田口義之 去六月十五日、神辺町上御領の金光教芸備教会にて、我備陽史探訪の会中世史部会の「大東宇山城跡測量調査報告会」が開催された。 半年間にわたった測量調査によって分ったことなどは、坂本部会長の報告に譲るとして、ここで紹介したいのは地名「御領」と、一帯の中世山城の状況である。山城は地域の歴史の中で築かれ、他の山城と関連しながら使用されたからだ。 御領の地名は、皇室にかかわる土地であったからだとは、昔から言われて来たことだ。元弘の変に際して、在地の土豪と伝えられる重政、目崎の両氏が後醍醐天皇に応じて挙兵したのも、御領が皇室領であったためと考えられてきた(御野村誌など)。 実際、室町幕府の裁判記録である「御前落居記録」によると、宮氏と岡崎門跡が当時「安那東条」と呼ばれた御領の領有をめぐって争い、永享三年(一四三一)十一月、将軍義教の裁定で門跡側の勝訴となったことが知られる。 安那東条とは、平安期に安那郡を東西に三つの地域に分け、東から「東条」「中条」「西条」と呼んだもので、現在、中条のみが大字の地名として残っている。西条は現在の加茂町にあたり、安那郡の分割は地形によっていることが分かる。 御領の地名の由来が岡崎門跡の領有に関係することは、まず間違いない。岡崎門跡とは、岡崎殿と呼ばれた実相院門跡のことと考えられ、元京都の岡崎に在ったが応仁の乱後現在地の岩倉に移転したため岩倉殿と呼ばれるようになった。天台宗寺門派の宮門跡で、幕末岩倉具視が一時隠棲していた場所として知られる。宮門跡が領家であったことから御領の地名が生まれたのであろう。 大東宇山城跡と関連付けられるのは、平野を挟んで南正面に聳える滝山城と、東北に位置する高屋城、さらに西方1キロのところに存在する竜王石山城である。滝山城は備後宮氏の居城と伝えられ、岡崎門跡と御領の領有を争ったことで知られる。高屋城は藤井氏の居城で、戦国期、藤井能登入道皓玄は神辺城に出仕して宿老を勤めた。大東宇山城は皓玄の高屋城から神辺城に到る往還を守備する位置を占めている。竜王石山城は在地の土豪、重政、目崎氏の居城と伝えられ、同じく、備中から備後にいたる街道を俯瞰する位置を占めていた。 大東宇山城跡は、これら周辺の山城と有機的な関連を持って存在したに違いない。今後の研究発表に期待したい。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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