装身の考古学(その二)

備陽史探訪:179号」より

網本 善光

1.はじめに

前回に続いて、装身具を考古学の立場から考えます。

4.腕部の装身具

(1)腕輪

図1:弥生時代の貝製腕輪
図1:弥生時代の貝製腕輪

縄文時代の早期末頃に出現し、縄文時代晩期まで続きます。代表的な素材は貝です。こわれやすいので、儀礼的なものと考えられます。

弥生時代になると、青銅や金銅・鉄・ガラス製のものが加わります。

縄文時代の系譜を引く貝製腕輪として南海産の巻貝(ゴホウラ・イモガイなど)があります。

前期後半に弥生時代独自の腕輪として北部九州で成立し、中期には原料の貝が交易の対象となったことが注目されます。

これらの腕輪類を身につけたのは集落の中の限られた者であり、司祭者・政治的統率者・戦闘指導者などであったと考えられています。

古墳時代には、弥生時代以来の貝製腕輪は一部の地域で見ることができますが、むしろ注目すべきなのは、四世紀の古墳から出土している石釧には弥生時代の木製腕輪に似た浮彫りをほどこしているものがあることです。すなわち、貝製の腕輪については弥生時代後期の三世紀段階において、実用品から儀式用の宝器に変形したと考えられるのです。

また、古墳時代には碧玉を素材とした儀礼用の装身具が発達しました。

図2:玉杖
図2:玉杖

奈良県の桜井茶臼山古墳は、前期の代表的な前方後円墳の一つですが、その石室からは大量の碧玉製の石製品が見つかっています。玉杖や鍬形石・車輪石・石釧などがそれです。

これらの装身具は、朝鮮半島を通じて倭国の支配者層が製作したもので、恐らくは、中国の玉器に影響されて、それを国内に産する碧玉によって再現しようと試みた結果ではないかと考えられています。

特に、鍬形石・車輪石・石釧の碧玉製腕飾類については、三角縁神獣鏡のように、大和の政権が地方の豪族に配布して、相互の絆を強化するための政治的な道具としても用いたのではないか、と考えられます。

さらに、五世紀以降には金製品が登場します。金銀の腕輪や指輪など豪華な副葬品がみられます。

(2)指輪

図3:弥生時代の貝製腕輪
図3:弥生時代の貝製腕輪

縄文時代には東北・北陸地方でごく少数見られるだけですし、弥生時代もみられますが、長崎・山口に巻貝製で墓からの出土品、東海・南関東に青銅製で集落からの出土品という地域的な偏りがあります。

一方、古墳時代には、五世紀以降になりますが、金製などの豪華なものが副葬品などに登場しています。

5.腰・足の装身具

(1)腰飾り

図4:馬形帯鈎
図4:馬形帯鈎

縄文時代のものとしては、津雲貝塚からの出土例が有名です。特に、その具体的な装着方法を示していたので、腰飾りの存在を確認することができました。

一般的には、シカの角を使い、その角の枝分かれ部分を利用して鉤状にかたちづくっています。護符的な役割であるとか、大型品については集団の儀礼用ではないか、と考えられています。

図5:帯金具
図5:帯金具

古墳時代になると、大陸系の装身具として帯金具が登場します。

中でも有名なものが、岡山県の造山古墳の陪塚の一つの榊山古墳から出土したと伝わる馬形帯鈎です。馬の側面形を象った青銅製品で、いわゆるベルトのバックルに当たります。

馬形の胸から鈎が伸びて環にかけて繋ぐ型式のものですが、裏面全体には、麻布の付着が認められることから、布帯にボタンで固定したことがわかります。

そもそも、腰帯を飾る金具は、中国では春秋戦国時代にまでさかのぼり、匈奴などの北方の騎馬民族が愛用しました。漢代に漢民族の服制に取り入れられ発達します。主として武人の官職を象徴するものであり、日本の古墳での出土は、その被葬者像を知る手がかりともなります。

(2)足輪

縄文時代後・晩期に、死者に装着したものがみつかっています。玉状のものが多く、イノシシの牙製・貝製のものもあります。

6.装身具の変遷の概要

ここまで、装身具の変遷について、時代を追って見てきました。そこで、時代ごとにその概要を改めて整理してみましょう。

まず縄文時代ですが、縄文時代のみで消滅せずに、後代まで引き継がれる装身具が存在するという特徴があげられます。そうした装身具に、櫛・頚飾り・腕輪があります。

一方で、縄文時代に使用されながらも、弥生時代に引き継がれなかった代表的装身具として耳飾(耳栓)があります。

同じ装身具であっても、生者のためのものか死者のためのものかで区分すると、死者のための玦状耳飾りが縄文時代前半期のみで消滅するように、生者の装身具とならなかったものが消滅していくのではないか、とみられます。

弥生時代には、装身具は集落の誰でもが身につけられるものではなかった、と考えられます。つまり、装飾品の違いで示される格差があったといえるのです。

弥生時代には、社会の複雑化に伴なって権威者の性格も呪術的から政治的に変化しますから、集落や墓地の構造の変遷から窺える社会組織全般の変質と合わせて、それら装飾品を身につけた人たちの性格を推定することとなります。

図6:人物埴輪
図6:人物埴輪

古墳時代になると、その前期は装飾品が、古墳に埋葬された首長を飾ったものとして、また、首長の権威の象徴として重要な役割を果たしていたことがわかります。

さらにこの傾向は、五世紀(古墳時代中期)以降には、大陸からの舶来品の輸入とその国内生産、そして副葬という過程を取るのですが、こうしたことから、この時期は、きらびやかな装身具を積極的に導入した時代であるといえます。

こうした装飾性の高い品が流通し、古墳に副葬される背景には、朝鮮半島における軍事・外交交渉の過程で、朝鮮三国と対等な服制が要請され、それが倭国内に波及したのではないか、と考えられています。

五世紀の武器・武具・馬具は、当時の複雑な国際関係の反映であるといえるのです。

最後に、律令体制のもとに古代国家の成立が進んだ飛鳥時代の七世紀以降は、古墳時代の服装から唐式の服装に転換する時期にもあたります。

そもそも律令時代の服装は、衣服自体に身分・階層の識別が行なわれました。貴族、一般官人、庶民、奴婢に至るまでの社会的階層によって衣服の種類、布、色調が細かく規定されて公的な場における着用が義務づけられました。

そのため、装身具の概念も大きく変わることになります。すなわち、大陸の制度化された文化、思想の導入によって旧来の慣習や信仰などが否定されました。そして、縄文時代以来の主要な装身具であった首飾り、耳飾り、腕輪などの玉類の使用がなくなります。さらに、霊や魂が籠る玉や呪術的な装身具はその意味を失い、かわりに身分、階層を識別する冠帽、腰帯、扇など実用的な服飾品が主流となったのです。

7.おわりに

装身具の歴史には、弥生時代の始まりと古墳時代の中頃、そして飛鳥時代に大きな画期があります。中でも、東アジア世界の大きな影響を受けた古墳時代の装身具は、金製品への嗜好の点から注目されます。

ところが、これらの装身具の動向は、死者への副葬という形でしか知ることができず、生者の装身具については不明な部分多くあります。

生活者の装身具について、その集落遺跡からの出土や生産遺跡の動向などにも注意を払う必要があるのではないでしょうか。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/11/10-6.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/11/10-6-150x100.jpg管理人古代史「備陽史探訪:179号」より 網本 善光 1.はじめに 前回に続いて、装身具を考古学の立場から考えます。 4.腕部の装身具 (1)腕輪 縄文時代の早期末頃に出現し、縄文時代晩期まで続きます。代表的な素材は貝です。こわれやすいので、儀礼的なものと考えられます。 弥生時代になると、青銅や金銅・鉄・ガラス製のものが加わります。 縄文時代の系譜を引く貝製腕輪として南海産の巻貝(ゴホウラ・イモガイなど)があります。 前期後半に弥生時代独自の腕輪として北部九州で成立し、中期には原料の貝が交易の対象となったことが注目されます。 これらの腕輪類を身につけたのは集落の中の限られた者であり、司祭者・政治的統率者・戦闘指導者などであったと考えられています。 古墳時代には、弥生時代以来の貝製腕輪は一部の地域で見ることができますが、むしろ注目すべきなのは、四世紀の古墳から出土している石釧には弥生時代の木製腕輪に似た浮彫りをほどこしているものがあることです。すなわち、貝製の腕輪については弥生時代後期の三世紀段階において、実用品から儀式用の宝器に変形したと考えられるのです。 また、古墳時代には碧玉を素材とした儀礼用の装身具が発達しました。 奈良県の桜井茶臼山古墳は、前期の代表的な前方後円墳の一つですが、その石室からは大量の碧玉製の石製品が見つかっています。玉杖や鍬形石・車輪石・石釧などがそれです。 これらの装身具は、朝鮮半島を通じて倭国の支配者層が製作したもので、恐らくは、中国の玉器に影響されて、それを国内に産する碧玉によって再現しようと試みた結果ではないかと考えられています。 特に、鍬形石・車輪石・石釧の碧玉製腕飾類については、三角縁神獣鏡のように、大和の政権が地方の豪族に配布して、相互の絆を強化するための政治的な道具としても用いたのではないか、と考えられます。 さらに、五世紀以降には金製品が登場します。金銀の腕輪や指輪など豪華な副葬品がみられます。 (2)指輪 縄文時代には東北・北陸地方でごく少数見られるだけですし、弥生時代もみられますが、長崎・山口に巻貝製で墓からの出土品、東海・南関東に青銅製で集落からの出土品という地域的な偏りがあります。 一方、古墳時代には、五世紀以降になりますが、金製などの豪華なものが副葬品などに登場しています。 5.腰・足の装身具 (1)腰飾り 縄文時代のものとしては、津雲貝塚からの出土例が有名です。特に、その具体的な装着方法を示していたので、腰飾りの存在を確認することができました。 一般的には、シカの角を使い、その角の枝分かれ部分を利用して鉤状にかたちづくっています。護符的な役割であるとか、大型品については集団の儀礼用ではないか、と考えられています。 古墳時代になると、大陸系の装身具として帯金具が登場します。 中でも有名なものが、岡山県の造山古墳の陪塚の一つの榊山古墳から出土したと伝わる馬形帯鈎です。馬の側面形を象った青銅製品で、いわゆるベルトのバックルに当たります。 馬形の胸から鈎が伸びて環にかけて繋ぐ型式のものですが、裏面全体には、麻布の付着が認められることから、布帯にボタンで固定したことがわかります。 そもそも、腰帯を飾る金具は、中国では春秋戦国時代にまでさかのぼり、匈奴などの北方の騎馬民族が愛用しました。漢代に漢民族の服制に取り入れられ発達します。主として武人の官職を象徴するものであり、日本の古墳での出土は、その被葬者像を知る手がかりともなります。 (2)足輪 縄文時代後・晩期に、死者に装着したものがみつかっています。玉状のものが多く、イノシシの牙製・貝製のものもあります。 6.装身具の変遷の概要 ここまで、装身具の変遷について、時代を追って見てきました。そこで、時代ごとにその概要を改めて整理してみましょう。 まず縄文時代ですが、縄文時代のみで消滅せずに、後代まで引き継がれる装身具が存在するという特徴があげられます。そうした装身具に、櫛・頚飾り・腕輪があります。 一方で、縄文時代に使用されながらも、弥生時代に引き継がれなかった代表的装身具として耳飾(耳栓)があります。 同じ装身具であっても、生者のためのものか死者のためのものかで区分すると、死者のための玦状耳飾りが縄文時代前半期のみで消滅するように、生者の装身具とならなかったものが消滅していくのではないか、とみられます。 弥生時代には、装身具は集落の誰でもが身につけられるものではなかった、と考えられます。つまり、装飾品の違いで示される格差があったといえるのです。 弥生時代には、社会の複雑化に伴なって権威者の性格も呪術的から政治的に変化しますから、集落や墓地の構造の変遷から窺える社会組織全般の変質と合わせて、それら装飾品を身につけた人たちの性格を推定することとなります。 古墳時代になると、その前期は装飾品が、古墳に埋葬された首長を飾ったものとして、また、首長の権威の象徴として重要な役割を果たしていたことがわかります。 さらにこの傾向は、五世紀(古墳時代中期)以降には、大陸からの舶来品の輸入とその国内生産、そして副葬という過程を取るのですが、こうしたことから、この時期は、きらびやかな装身具を積極的に導入した時代であるといえます。 こうした装飾性の高い品が流通し、古墳に副葬される背景には、朝鮮半島における軍事・外交交渉の過程で、朝鮮三国と対等な服制が要請され、それが倭国内に波及したのではないか、と考えられています。 五世紀の武器・武具・馬具は、当時の複雑な国際関係の反映であるといえるのです。 最後に、律令体制のもとに古代国家の成立が進んだ飛鳥時代の七世紀以降は、古墳時代の服装から唐式の服装に転換する時期にもあたります。 そもそも律令時代の服装は、衣服自体に身分・階層の識別が行なわれました。貴族、一般官人、庶民、奴婢に至るまでの社会的階層によって衣服の種類、布、色調が細かく規定されて公的な場における着用が義務づけられました。 そのため、装身具の概念も大きく変わることになります。すなわち、大陸の制度化された文化、思想の導入によって旧来の慣習や信仰などが否定されました。そして、縄文時代以来の主要な装身具であった首飾り、耳飾り、腕輪などの玉類の使用がなくなります。さらに、霊や魂が籠る玉や呪術的な装身具はその意味を失い、かわりに身分、階層を識別する冠帽、腰帯、扇など実用的な服飾品が主流となったのです。 7.おわりに 装身具の歴史には、弥生時代の始まりと古墳時代の中頃、そして飛鳥時代に大きな画期があります。中でも、東アジア世界の大きな影響を受けた古墳時代の装身具は、金製品への嗜好の点から注目されます。 ところが、これらの装身具の動向は、死者への副葬という形でしか知ることができず、生者の装身具については不明な部分多くあります。 生活者の装身具について、その集落遺跡からの出土や生産遺跡の動向などにも注意を払う必要があるのではないでしょうか。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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