2013年06月01日

福山城の御用米蔵について(五千石蔵に収められた一万石の謎に迫る)

備陽史探訪:172号」より

田中 伸治

福山城二の丸の北側、現在の福寿会館およびテニスコートの一帯には、かつて幕府から預かった米を収める「御用米蔵」と呼ばれる蔵が立ち並んでいた。この施設は寛永十年(一六三三年)に始められた非常時の備えとして一定量の米を幕府直轄と譜代大名の城に備蓄させる制度で用いられたもので、通常の年貢米と峻別し、「城詰米」、「御城米」、「城付米」、「御用米」などと呼ばれ、管理・運用された(1)。

この御用米蔵について、二〇〇六年に福山市文化財協会が発行した「新版 福山城」には、『ここには御用米蔵が数棟存在し、五千石蔵とも称し、水野家時代に幕府から預かった米を貯蔵していた。寛永十一(一六三四)年五月、九州の豊後から幕府に納入する米五千石を預かって貯蔵した記録があり、寛永一六(一六三九)年には、備中成羽から米五千石を預かり、これは築切にあった浜の蔵に貯え、合計一万石を収穫期には預かり、古米を売りはらっては新米に取りかえて、有事に備えたのである。』と、書かれている(2)。

しかし、この記述に私は大きく二つの疑問を持っている。ひとつは、御用米が御用米蔵と浜の蔵に分散して貯えていたということ、もうひとつは、「五千石蔵」の呼称についてである。

ひとつめについては、過去に福山城を研究された吉田和隆氏が疑問を指摘され、「備後福山城あれこれ」に詳しく纏められている(3)。

私も氏の見解に概ね同意できるので、ここでは細かく取り上げないが、要約すると、分散貯蔵の根拠は阿部時代の地誌『備陽六郡志』に記述された

水野家の御代より壱万石御預米有、五千石を浜の蔵に入、五千石ハ此蔵に被入置、仍而五千石共御城米共云。

という部分であるが、これに遡る水野時代の記録では浜の蔵には年貢米(物成積)を収めたと記されているなど、他の文献では浜の蔵に御用米を収めた記述は見当たらず、また、備陽六郡志自体においてもこの部分以外では浜の蔵に関する記述に御用米を収めた記載が見られないこと、そして、御用米蔵の収容能力はその規模から一万石程度あると見積られることなどから、御用米はすべて御用米蔵に収められていた可能性が高いということである。

さて、私がここで考察したいのが、二つ目の疑問、「五千石蔵」の呼称についてである。

その前に御用米蔵の規模について確認しておきたい。幸いにも、水野時代について記された「水野記」呼ばれる文献に各建物の形状が詳細に載せられており、桁行三間梁行十間の蔵が五棟、桁行三間梁行二十五間の蔵が二棟、番所、算用所(計量所)などがあったと記されている。水野時代を描いた城絵図類も概ねこの記載通りの建物が描かれており、曲輪の中央に長大な蔵が南北に二棟並んでおり、その周囲を囲むように五棟の蔵が立ち並んでいる(図1)。

図1

図1

中都工業大学の富山博氏の研究によると、一般的な蔵の収容能力は余裕を持たせて坪当たり33.3石と見積られており(4)、福山城では御用米蔵の合計が三〇〇坪(3間×10間×5棟+3間×25間×2棟)であることから、これを一万石で割ると坪当たり33.3石となり、理論値通りの規模であることがわかる(逆に言えば、五千石分しか収納しないのであればあまりに過大な施設規模となってしまう)。

このように、一万石の規模を持つ福山城の御用米蔵において、なぜ五千石蔵の呼称が伝わっているのだろうか。このことについて、先の吉田和隆氏は御用米が寛永十一(一六三四)年に五千石分が預けられ、寛永一六(一六三九)年に追加で五千石分が預けられたことから、『当初の「五千石(米蔵)」の名称は、通称として市井ではなお使われ、阿部氏の時にも伝承されており、『六郡志』の著書、宮原直ゆきは、それを記録した。』と、結論付けている(4)。

だが、御用米蔵の運用過程を考えると、別の可能性が指摘できるのではないだろうか。というのも、当初の五千石から追加で五千石が収蔵されるまで五年の期間があるということは、施設は最初に五千石分が建てられ、後にもう五千石分が追加で建設されたと考えることができるからである。

この観点から米蔵群の配置を見ると、次の建設パターンが想定される。

①中央部に位置する梁行二十五間の蔵二棟が建てられ、その周囲に梁行十間の蔵五棟が配される。
②コの字状に梁行十間の蔵五棟が建てられ、中央部に梁行二十五間の蔵二棟が配される。
③片側梁行二十五間の蔵一棟と梁行十間の蔵複数が建てられ、その隣に梁行二十五間の蔵一棟と梁行十間の蔵複数が配される。

このうち、②では中央部に空間を作る意味を見出しにくく、③では蔵の規模を変える意味を見出しにくいなど、非合理的な配置となるため、「五千石蔵」とは①で最初に建てられた中央二棟の蔵を指すと考えるのが最も理にかなっているのである。

これを前提に、五千石蔵の記入がある絵図を見てみると(図2)、殆どが中央二棟の蔵の間に「五千石米蔵」と記入されており(5)、絵図においても中央二棟を五千石蔵とする解釈を当てはめることができるのである。

図2

図2

では、この仮説が正しいとして、いつから御用米蔵全体が五千石蔵の別名となったのだろうか。文献を追っていくと、宝永五年(一七〇八年)以降に成立した「水野記」では「御城附兵糧倉」とあり、少なくとも五千石蔵が一般的な表記ではなかったことがわかる。そして、安永年間(一七七二~一七八〇年)成立の備陽六郡志では五千石蔵の別名が記載されているので、福山藩の歴史と照らし合わせれば「別名としての五千石蔵」は阿部氏の時代に発生したことになる。

ところで、この時期に御用米蔵に大きな変化があったことが、史料に認められる。

備陽六郡志には、御用米蔵について、

正龑公御代対州府中へ弐千百石長州赤間か関江七千二百石、御廻米被仰付、其以後御預米無之故、廻場役所等も朽倒れ、御蔵も大破に及候に付、三間拾間の蔵弐ヶ所、三間ニ弐拾五間之蔵壱ヶ所、寛延三年之春被崩。三間ニ拾間之蔵三ヶ所、三間弐拾五間の蔵一ヶ所相残。

とあり、正福の時代に御用米(御預米)を預からなくなり、寛延三年(一七五〇)年に三ヶ所の蔵が倒壊したことが書かれている。また、安永三年(一七七四年)の絵図においても、この記述通りに蔵を欠いた状態で御用米蔵が描かれており(図3)、その確度は極めて高いと思われる。

図3

図3

ただし、この記述には明らかな誤記が含まれている。それは、「対州府中と長州赤間に米を送って以後御預米はなくなった」とする部分で、幕府の記録には天明三年(一七八三年)に六八七二石、天保四年(一八三三年)に三五〇〇石、天保七年(一八三六年)に二一二五石が福山藩の御用米から放出されており(1)、実際には幕末まで御用米の運用が継続されていたのは明らかだからである。

このため、御用米は預かっていたが、御用米蔵は倒壊したという、矛盾とも思える状況となっていたことになるのだが、注目したいのは「倒壊していない」御用米蔵が半数あるということで、この面積を単純計算すると、3間×10間×3棟+3間×25間×1棟=165坪となり、これに坪当たり33.3石を掛けて約六五〇〇石の収容能力が残されたことになる。そして、天明三年(一七八三年)にはこの収容能力を超える米が放出されており、これを念頭に冒頭に示した備陽六郡志の記述を再確認してみると、別の解釈が浮かび上がってくる。

水野家の御代より壱万石御預米有、五千石を浜の蔵に入、五千石ハ此蔵に被入置、仍而五千石共御城米共云。

つまり、阿部氏の時代に限っていえば、浜の蔵への分散貯蔵もあり得ることで、蔵全体を「五千石」と呼ぶのも実態に即していることになる(そう考えると、御用米蔵は自然に倒壊したのではなく、意図的に五千石分を削減したのかもしれない)。ともかく、備陽六郡志の著書は御用米運用の実態を誤っていることなどから、そのまま信じることはできないにしても、ある程度の事実を反映した内容である可能性もまた考えられるのである。

以上を纏めると、「五千石蔵」とは、御用米蔵で最初に建てられた梁行二十五間の蔵二棟の呼称である可能性が指摘できる。そして、阿部氏の時代に御用米蔵が減損するなど運用に大きな変化があり、五千石蔵の対象が変化した可能性が考えられる、ということになる。

何れにしても、一万石を収める五千石蔵という矛盾しているようにも見える呼称について、その実態を探ることなく単に「通称」で片付けてしまうのは歴史の事実を究明するうえで危険であろう。

<参考文献>
(1)柳谷慶子『江戸幕府城詰米制の機能』史學雜誌九六 一九八七年
(2)「新版 福山城」福山市文化財協会 二〇〇六年 P.29
(3)吉田和隆『備後福山城あれこれ』一九九五年 P.20~
(4)富山博『江戸時代の郷蔵建築―敷地を中心として―』中部工業大学紀要 (3)一九六七年
(5)「備後国福山御城下絵図」福山城博物館蔵など