中世武士と実名について(山名理興の「興」の意味)

備陽史探訪:123号」より

木下 和司

【中世史を歩くシリーズ】

備後の中世に興味を持ち出してから、早いものでもう足掛け十年になります。いろいろな本を読み、史料を読み解きながら論文にまとめて発表したものが既に五本になりました。今回、藤波さんから会報にシリーズ物の連載を頼まれて、受けるかどうか迷ったのですが、右の論文をまとめる過程で気になっていることをエッセイ風にまとめれば、何とかなるのではと思い承諾しました。第一回目の原稿締め切りまで時間が少なかったのですが、冒頭に書いた実名の話が頭に浮んでいたので、第一作目は武士の実名について書いてみることにしました。

論文としてまとめた五本目は「神辺合戦と山名理興」というタイトルで二十五周年記念出版に載せられる予定ですが、この論文を書き上げる途中で山名理興の「理興」という実名に引っ掛かるものを感じていました。頭の中で何かがモヤモヤとしていて、その正体が何か分からなかったのですが、ある時ひらめくものがありました。モヤモヤの正体は理興の「興」の字が実名の下にきていることだったのです。なぜ、「興」の字が下にくることに疑問をもったのかというと、理興と同年代と考えられる芸備の国人の実名を考えると、毛利興元、吉川興経、小早川興景、小早川興平、天野興貞、というように有力国人は「興」の字が実名の上にくることが多いのです。これに対して下にくる国人は、私の知る範囲では理興だけだったのです。なぜ、「興」の字が上にくる国人が多いかという理由は、簡単なことでした。右の国人達が元服する時代に芸備地方には周防の大内氏の勢力が伸びてきていたのです。つまり、これらの有力国人が元服するときの烏帽子親が、当時の大内氏の総領であった大内義興であり、義興の「興」の字を実名の上に戴いて、身分関係を表現していたのです。つまり、「興」の字を上に戴く国人達は、大内義興の勢力下にあった国人なのです。これに対して理興は、なぜ「興」の字を実名の下に用いたのでしょうか。芸備の普通の国人が義興の「興」の字を下に使うのは、義興に対して非常に無礼なことのように思えるのです。これが、私のモヤモヤの正体だったのです。

そこで、国人領主の実名というものが持つ情報について少し考えてみたいと思います。例えば、毛利氏の惣領の実名を隆元から遡って六代分並べてみると、熙元、豊元、弘元、興元、元就という具合になります。熙元は山名時熙、豊元は山名持豊(入道宗全)から偏諱を授けられており、毛利氏が山名氏と近い関係にあったことが分かります。これは室町幕府が大内氏への対抗政策として、山名氏を安芸守護に登用したことの反映だと思われます。次男から総領となった元就を例外として弘元以後の三代は、何れも大内政弘、義興、義隆の偏諄を受けており、大内氏の強い影響下にあったことが分かります。これは、応仁の乱を契機として毛利氏が山名氏を離れて、周防。長門から安芸。備後に急速に勢力を伸張しつつあった大内氏に接近したことを表しています。

次に備後の国人の場合を考えてみたいと思います。備北の国人の代表格である山内氏の場合、応仁。文明期以後の惣領の実名を書き上げてみると豊成、直通、豊通、隆通となり、山名氏の通字「豊」を戴く人物が多いため、山内氏と山名氏の強い関係が分かります。最後の隆通は、戦国中期に活躍する人物ですが、「隆」の字は大内義隆の偏諱を受けており、隆通が元服する時点で山内氏は山名氏を離れて大内氏の旗下に属したことが分かります。山内氏が大内氏の旗下に転ずるに付いては毛利氏がいろいろな画策を行っており、毛利氏と山内氏の親密性が増していることも確認されます。天文二十三年、毛利氏と大内氏(実質的な支配者は陶晴賢)との分裂が明らかとなった時点で、山内氏は毛利氏への支持を明確にしており、隆通の時代に大内方に転じたというよりは、実質的には毛利氏の勢力下に入ったということになると思います。以上のように、国人領主の実名からその国人領主の上級領主が誰かということを、ある程度判断できることが分かったと思います。では、この問題を考えるきっかけとなった山名理興について、もう一度考えてみたいと思います。理興という名は、「理」と「興」の二字からなりますが、理興の一世代前及び同時代に「理」を実名とする有力守護や国人は確認できません。「興」については大内義興がいますが、偏諱として授けられた「興」の字を実名の下にもってくることは考えられませんので、義興との関係は考えられません。また、「興」の字を下に用いることは義興に対して無礼に当たると考えられることから、理興の家系は単なる国人領主ではなく、大内氏と同等かそれ以上の家格を持っている家系ということになると思います。一つの傍証にしかなりませんが、理興と同時代の伯耆守護・山名豊興も実名の下に「興」の字を用いており、山名氏の一族であれば大内氏への配慮は不要であったと考えられます。理興の出自については、山手若しくは八尾の杉原氏であったということが通説になっていますが、杉原氏の惣領が実名を選ぶ場合、大内氏への配慮なしに実名を選んだとは考えられません。したがって、理興の出自はその名の示す通り、もともとから山名氏であったとするのが妥当ではないかと考えています。

今回は、中世の国人領主の実名が持つ情報について考えてみました。但し、戦国期は国人領主の裏切りが常態となっていた時代ですから、元服の時点で大内方であっても、その三年後、五年後には尼子方になっていたということも考えられます。したがって、実名は貴重な情報を与えてくれますが、他の情報も収集して総合的な理解を深めることが大切だと思います。

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https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/04c93116fab4cbc6522e37c5900a418a-983x1024.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/04c93116fab4cbc6522e37c5900a418a-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:123号」より 木下 和司 【中世史を歩くシリーズ】 備後の中世に興味を持ち出してから、早いものでもう足掛け十年になります。いろいろな本を読み、史料を読み解きながら論文にまとめて発表したものが既に五本になりました。今回、藤波さんから会報にシリーズ物の連載を頼まれて、受けるかどうか迷ったのですが、右の論文をまとめる過程で気になっていることをエッセイ風にまとめれば、何とかなるのではと思い承諾しました。第一回目の原稿締め切りまで時間が少なかったのですが、冒頭に書いた実名の話が頭に浮んでいたので、第一作目は武士の実名について書いてみることにしました。 論文としてまとめた五本目は「神辺合戦と山名理興」というタイトルで二十五周年記念出版に載せられる予定ですが、この論文を書き上げる途中で山名理興の「理興」という実名に引っ掛かるものを感じていました。頭の中で何かがモヤモヤとしていて、その正体が何か分からなかったのですが、ある時ひらめくものがありました。モヤモヤの正体は理興の「興」の字が実名の下にきていることだったのです。なぜ、「興」の字が下にくることに疑問をもったのかというと、理興と同年代と考えられる芸備の国人の実名を考えると、毛利興元、吉川興経、小早川興景、小早川興平、天野興貞、というように有力国人は「興」の字が実名の上にくることが多いのです。これに対して下にくる国人は、私の知る範囲では理興だけだったのです。なぜ、「興」の字が上にくる国人が多いかという理由は、簡単なことでした。右の国人達が元服する時代に芸備地方には周防の大内氏の勢力が伸びてきていたのです。つまり、これらの有力国人が元服するときの烏帽子親が、当時の大内氏の総領であった大内義興であり、義興の「興」の字を実名の上に戴いて、身分関係を表現していたのです。つまり、「興」の字を上に戴く国人達は、大内義興の勢力下にあった国人なのです。これに対して理興は、なぜ「興」の字を実名の下に用いたのでしょうか。芸備の普通の国人が義興の「興」の字を下に使うのは、義興に対して非常に無礼なことのように思えるのです。これが、私のモヤモヤの正体だったのです。 そこで、国人領主の実名というものが持つ情報について少し考えてみたいと思います。例えば、毛利氏の惣領の実名を隆元から遡って六代分並べてみると、熙元、豊元、弘元、興元、元就という具合になります。熙元は山名時熙、豊元は山名持豊(入道宗全)から偏諱を授けられており、毛利氏が山名氏と近い関係にあったことが分かります。これは室町幕府が大内氏への対抗政策として、山名氏を安芸守護に登用したことの反映だと思われます。次男から総領となった元就を例外として弘元以後の三代は、何れも大内政弘、義興、義隆の偏諄を受けており、大内氏の強い影響下にあったことが分かります。これは、応仁の乱を契機として毛利氏が山名氏を離れて、周防。長門から安芸。備後に急速に勢力を伸張しつつあった大内氏に接近したことを表しています。 次に備後の国人の場合を考えてみたいと思います。備北の国人の代表格である山内氏の場合、応仁。文明期以後の惣領の実名を書き上げてみると豊成、直通、豊通、隆通となり、山名氏の通字「豊」を戴く人物が多いため、山内氏と山名氏の強い関係が分かります。最後の隆通は、戦国中期に活躍する人物ですが、「隆」の字は大内義隆の偏諱を受けており、隆通が元服する時点で山内氏は山名氏を離れて大内氏の旗下に属したことが分かります。山内氏が大内氏の旗下に転ずるに付いては毛利氏がいろいろな画策を行っており、毛利氏と山内氏の親密性が増していることも確認されます。天文二十三年、毛利氏と大内氏(実質的な支配者は陶晴賢)との分裂が明らかとなった時点で、山内氏は毛利氏への支持を明確にしており、隆通の時代に大内方に転じたというよりは、実質的には毛利氏の勢力下に入ったということになると思います。以上のように、国人領主の実名からその国人領主の上級領主が誰かということを、ある程度判断できることが分かったと思います。では、この問題を考えるきっかけとなった山名理興について、もう一度考えてみたいと思います。理興という名は、「理」と「興」の二字からなりますが、理興の一世代前及び同時代に「理」を実名とする有力守護や国人は確認できません。「興」については大内義興がいますが、偏諱として授けられた「興」の字を実名の下にもってくることは考えられませんので、義興との関係は考えられません。また、「興」の字を下に用いることは義興に対して無礼に当たると考えられることから、理興の家系は単なる国人領主ではなく、大内氏と同等かそれ以上の家格を持っている家系ということになると思います。一つの傍証にしかなりませんが、理興と同時代の伯耆守護・山名豊興も実名の下に「興」の字を用いており、山名氏の一族であれば大内氏への配慮は不要であったと考えられます。理興の出自については、山手若しくは八尾の杉原氏であったということが通説になっていますが、杉原氏の惣領が実名を選ぶ場合、大内氏への配慮なしに実名を選んだとは考えられません。したがって、理興の出自はその名の示す通り、もともとから山名氏であったとするのが妥当ではないかと考えています。 今回は、中世の国人領主の実名が持つ情報について考えてみました。但し、戦国期は国人領主の裏切りが常態となっていた時代ですから、元服の時点で大内方であっても、その三年後、五年後には尼子方になっていたということも考えられます。したがって、実名は貴重な情報を与えてくれますが、他の情報も収集して総合的な理解を深めることが大切だと思います。 <関連記事> 杉原盛重と天野隆重備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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