杉原盛重と天野隆重(毛利氏「家中」と「国衆」)

備陽史探訪:126号」より

木下 和司

山名理興・杉原盛重居城 神辺城跡

中世史を歩くシリーズ(二)

ここ二年くらい神辺城を巡る杉原氏について調べています。昨年の暮れに、山名理興について纏めたものを二十五周年記念出版に発表しました。山名理興の出自を杉原氏とすることを否定する内容なので、備後の郷土史に愛着が深い方からは反発を招きそうな気もしています。理興に関する研究に一区切りつけてから、この半年は杉原盛重について調べています。今回、この原稿で発表させてもらう内容は、私の盛重研究の現時点での概要です。といってもこの一月から五月までは大スランプ状態で全く研究が進みませんでした。この六月に岡山の県立図書館がリニューアルされていたので、気晴らしに出かけました。そこで一編の論文と出会ったことが、盛重研究を大きく進める契機となりました。立教大学史学会が出している『史苑』という機関紙に載る館鼻誠さんが書かれた「戦国期山陰吉川領の成立と構造」という論文です。杉原盛重は吉川元春の旗下で西伯耆の要衝・尾高城を任されていたので、何かヒントにでもなればと思い読んでみたのです。この論文における盛重に関する記述とタイトルに書いた天野隆重に関する記述の類似性がヒントになり、ある着想を得て、以後の研究を大きく進めることが出来ました。天野隆重は備後には馴染みの薄い人物ですが、安芸国の国衆で毛利氏の所領吉田に隣接する志芳堀の小領主です。隆重は盛重と同じく、戦国期に出雲の要衝・富田城の城番として実務を取り仕切った人物(城主は毛利元就の五男・元秋)です。盛重と隆重、名前も似ていますが、この二人には毛利氏の山陰支配体制下に於いて大きな共通点があります。毛利氏が軍事的な支配を貫徹するために、毛利氏の家来、中世の用語でいう「家中」と安芸。備後・石見の国衆で中世法的には毛利氏と同等の存在である「国衆」との中間的な存在を必要としたという仮説です。具体的には、毛利氏に対して「家中」的な忠誠心を持った国衆といった存在です。まだ、仮説の段階で自分の主張に対して完全な自信を持てる段階ではありませんが、先日、『吉川家文書』の中に吉川元春・志道元保・渡辺長・天野隆重・杉原盛重が連署して、小早川隆景・福原貞俊・口羽通良に宛てた書状を見つけて確信を強くしました。もう少し詰めてから本格的な論文に纏めてみたいと思っています。この稿では、仮説の概要を述べてみたいと思います。

毛利氏が「家中」と「国衆」の中間的な存在を必要とした理由は、毛利氏の出自が「国衆」と法的に同格の存在でしかなかったことです。毛利氏が防長の支配権を引継いだ大内氏は、その出自が守護であったため、中世法的にも正当な国衆に対する軍事指揮権を有していました。また、大内氏の指揮下で奉行人や軍監を勤めた人物は、大内氏の出自が守護であるために国衆でした。芸備の国衆たちは、現場の軍事指揮官が法的に同格の存在である国衆だから、大内氏の軍事指揮を受け入れました。これに対して防長征服戦後、急拡大した軍事力に対して、毛利氏は法的に正統的な指揮権を有してはいませんでした。毛利氏の軍事指揮権の根拠は国衆同盟の盟主としての地位だけでした。毛利氏と国衆は法的には同格の存在です。つまり、毛利氏の「家中」が、毛利氏と同格である「国衆」を軍事的に指揮できなかったのです。毛利氏がそうしたいと考えても、毛利氏の「家中」による軍事指揮を「国衆」が受け入れることはなかったはずです。それは格下のものによる軍事指揮となり、毛利氏とは同格であるという「国衆」の高いプライドを大きく傷つけることになるからです。毛利氏が法的に同格である「国衆」を軍事的な指揮下に置いてコントロールするためには、毛利氏に対して絶対的な忠誠心を持つ「国衆」必要としたのです。このような立場を持った国衆が、私の調べた範囲では天野隆重と杉原盛重、もう一人、福田盛雅ではないかと思います。隆重と盛重は吉川元春の配下として山陰における軍事指揮官であり、盛雅は小早川隆景の支配下で美作における軍事指揮官として活躍したと思われます。

安芸国衆としての天野氏には志芳堀天野氏と志芳東村天野氏の二系統があります。隆重の家系は志芳堀天野氏です。志芳東村天野は、後に毛利元就の七男・元政を養子として迎え、近世まで家系が存続します。これに対して隆重の家系は近世に入る直前に断絶しており、纏まった史料が残されておらず、あまり研究の進んでいない家系です。隆重の家系は毛利氏の庶家である福原広俊・貞俊の家系と婚姻関係にあり、毛利氏の「家中」に非常に近い家系です。毛利氏と婚姻関係を結ぶのではなく、毛利氏「家中」の福原氏と婚姻関係を結んでいることは天野氏側に毛利氏より格下であるとの意識があったことになります。隆重以前の天野氏の所領は殆どが志芳盆地内にあり、国衆としては小領主でした。ここに毛利氏との格差を意識する原因があったと考えられます。また、志芳盆地は毛利氏の本領である吉田に隣接しているために、毛利氏との間に古くからの交流があり、毛利元就が天野隆重を信頼する根拠を生み出したと思います。永禄四年の豊前苅田松山城の籠城戦や永禄十二年の出雲富田城の籠城戦を守り抜き、隆重は元就の信頼によく応えています。毛利氏と天野氏の地理的近接性と古くからの関係の中で、元就は隆重の人となりを見て、特別な信頼を置いてきたのではないかと思われます。それが、前述した毛利氏の危機に隆重に重要拠点の防衛を任せた理由だと思われます。ここで隆重と同じく毛利領国の重要拠点である備後・神辺城と西伯耆の要衝・尾高城を任された盛重はどういう人物なのでしょうか。隆重の立場から推論すると元就の大きな信頼を得ていたことになります。備南の一国衆である盛重がどのようにして元就の信頼を得たのでしょうか。ここに大きな謎が存在します。今、私自身は盛重の出自を杉原氏とすることに大きな疑問をもっています。盛重も隆重とおなじく毛利氏と古くから繋がりのあった小領主を出自としているのではないかと言う事です。つまり、盛重は毛利氏の強い推挙のもとに、他家から杉原氏の養子となったのではということです。その根拠は、『毛利家文書』に残る毛利興元・元就の子女の嫁ぎ先を記録した文書です。この中に興元の娘に関して「杉原殿に御座候、その後同盛重に御座候」という文言があります。ここに言う杉原殿は通説では理興と解釈されていますが、二十五周年記念出版で述べたように理興の姓は山名であり、杉原殿は理興ではありえません。「杉原殿」とは天文十五年十二月十二日付けで乃美小太郎に宛てられた「大内氏奉行人連署書状」(『浦家文書』)に現れる杉原豊後守を指すと考えられます。書状の内容から考えると杉原豊後守は、天文十二年から十八年に渡って戦われた神辺合戦に際して、理興の重臣として神辺城に籠城していたと考えられます。天文十八年九月の神辺落城に際して、杉原豊後守は大内・毛利方に転向したと思われます。その根拠は、「杉原文書」に残る天文二十二年の「大友義鎮書状」です。この中で義鎮は豊後守に対して「毛利元就父子とよく相談して大内義長の大内氏相続を宜しく頼む」と依頼しており、この段階で豊後守が大内・毛利方に転向していたことの確認がとれます。神辺落城後、大内氏は神辺城を直轄として青影越後守を城番に据えます。天文二十四年十月、厳島合戦で陶晴賢を破った毛利元就は芸備地方を完全に掌握し、神辺城もその手中に納めたと思われます。この時、神辺城主となったのが、毛利方に転じていた杉原豊後守ではないでしょうか。この豊後守こそが毛利興元の娘を娶った「杉原殿」だと考えられます。毛利氏は、豊後守に興元の娘を姿わせて準一門として神辺城を任せたものと考えられます。弘治三年頃、豊後守が病没し、その後継となったのが盛重です。一般には『陰徳太平記』を根拠として吉川元春の強い推挙により、盛重が神辺城主となったとされています。天文二十四年段階の毛利氏は陶晴賢を破りはしたが、防長の征服戦を残しており、神辺城を直轄城としたくてもその実力を有していなかったと考えられます。このため、妥協策として神辺城主・山名理興の重臣であった杉原豊後守を神辺城に入れ、備南地域の安定を図ったと思われます。『陰徳太平記』が芸防引分後に山名理興が元就に詫びを入れて神辺城に復帰したとしているのは、理興と杉原豊後守を混同したための誤りではないかと思います。

杉原豊後守の没した弘治三年頃には、毛利氏は安芸・備後・周防。長門を完全に掌握し、中国一の勢力となっていました。この状況下で、備後の要衝・神辺城主の後継者として杉原盛重が登場します。元就は神辺城を直轄城にしたかったと思います。ですが慎重な性格の元就は、備後の国衆の反発を恐れたために、安芸の小領主で天野隆重と同様に信頼のおける人物であった盛重と杉原豊後守の後家(興元の娘、元就の姪)とを娶わせて、盛重に備南で杉原氏が築いていた国衆のネットワーク(婚姻関係や盟約関係)を引継がせたのではと推論しています。このパターンを思いついた原因は、元就が他家を吸収する場合によく使う手段だからです。元春の吉川氏相続、隆景の小早川氏相続、志路通良による口羽氏相続は、いずれも養子縁組による相続です。また、「森脇覚書」によると盛重の尾高城主・行松氏の相続は、行松入道の未亡人との結婚によっています。元就は養子縁組や婚姻を用いた有力国衆が歴史的に築いた国衆ネットワークの取り込みを得意としており、盛重の神辺城相続もそれに当るのではと考えています。備後の要衝・神辺と西伯耆の要衝・尾高城を任され、毛利氏の外交顧間であった竺雲恵心から「伯州の神辺殿」と尊称された盛重という人物は単なる備後の有力国衆とは考えられず、よほど毛利元就に近い立場にあり、且つ元就の信頼を勝ち得ていた人物としか思えないのです。これが盛重の出自を杉原氏とすること否定したくなっている理由です。但し、盛重の直系は子息である元盛・景盛の相続争いによって断絶しており、先の推論を立証する史料は残されていません。ただ、隆重と盛重の名前が似ていることは、盛重の出自も天野氏ではと考えたくなる一因ではあります。最後に最初に述べた『吉川文書』の書状を見て、なぜ「家中」的な国衆に確信を持ったかと言うと、書状の発給者の一人に毛利氏「家中」である渡辺長の署名があることです。盛重も隆重も毛利氏「家中」と連署して書状を発給することに抵抗感を持たない国衆であったこと、つまり、毛利氏「家中」との間に身分の差を意識していないことを表しているからです。以上、盛重も隆重も毛利氏の「家中」的な国衆であったとする仮説の推論根拠を述べてきました。今後、この推論をもう少し論理的に補強して本格的な論文にしたいと思っています。

尚、今回毛利氏関係の研究を進めるに当たり、当会の住本さんの運営するホームページを参考にさせて戴きました。最後になりますが、感謝の意を表したいと思います。

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https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2015/12/7e04cd0fa4703756594fe89a8b7d3d1a-1024x350.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2015/12/7e04cd0fa4703756594fe89a8b7d3d1a-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:126号」より 木下 和司 中世史を歩くシリーズ(二) ここ二年くらい神辺城を巡る杉原氏について調べています。昨年の暮れに、山名理興について纏めたものを二十五周年記念出版に発表しました。山名理興の出自を杉原氏とすることを否定する内容なので、備後の郷土史に愛着が深い方からは反発を招きそうな気もしています。理興に関する研究に一区切りつけてから、この半年は杉原盛重について調べています。今回、この原稿で発表させてもらう内容は、私の盛重研究の現時点での概要です。といってもこの一月から五月までは大スランプ状態で全く研究が進みませんでした。この六月に岡山の県立図書館がリニューアルされていたので、気晴らしに出かけました。そこで一編の論文と出会ったことが、盛重研究を大きく進める契機となりました。立教大学史学会が出している『史苑』という機関紙に載る館鼻誠さんが書かれた「戦国期山陰吉川領の成立と構造」という論文です。杉原盛重は吉川元春の旗下で西伯耆の要衝・尾高城を任されていたので、何かヒントにでもなればと思い読んでみたのです。この論文における盛重に関する記述とタイトルに書いた天野隆重に関する記述の類似性がヒントになり、ある着想を得て、以後の研究を大きく進めることが出来ました。天野隆重は備後には馴染みの薄い人物ですが、安芸国の国衆で毛利氏の所領吉田に隣接する志芳堀の小領主です。隆重は盛重と同じく、戦国期に出雲の要衝・富田城の城番として実務を取り仕切った人物(城主は毛利元就の五男・元秋)です。盛重と隆重、名前も似ていますが、この二人には毛利氏の山陰支配体制下に於いて大きな共通点があります。毛利氏が軍事的な支配を貫徹するために、毛利氏の家来、中世の用語でいう「家中」と安芸。備後・石見の国衆で中世法的には毛利氏と同等の存在である「国衆」との中間的な存在を必要としたという仮説です。具体的には、毛利氏に対して「家中」的な忠誠心を持った国衆といった存在です。まだ、仮説の段階で自分の主張に対して完全な自信を持てる段階ではありませんが、先日、『吉川家文書』の中に吉川元春・志道元保・渡辺長・天野隆重・杉原盛重が連署して、小早川隆景・福原貞俊・口羽通良に宛てた書状を見つけて確信を強くしました。もう少し詰めてから本格的な論文に纏めてみたいと思っています。この稿では、仮説の概要を述べてみたいと思います。 毛利氏が「家中」と「国衆」の中間的な存在を必要とした理由は、毛利氏の出自が「国衆」と法的に同格の存在でしかなかったことです。毛利氏が防長の支配権を引継いだ大内氏は、その出自が守護であったため、中世法的にも正当な国衆に対する軍事指揮権を有していました。また、大内氏の指揮下で奉行人や軍監を勤めた人物は、大内氏の出自が守護であるために国衆でした。芸備の国衆たちは、現場の軍事指揮官が法的に同格の存在である国衆だから、大内氏の軍事指揮を受け入れました。これに対して防長征服戦後、急拡大した軍事力に対して、毛利氏は法的に正統的な指揮権を有してはいませんでした。毛利氏の軍事指揮権の根拠は国衆同盟の盟主としての地位だけでした。毛利氏と国衆は法的には同格の存在です。つまり、毛利氏の「家中」が、毛利氏と同格である「国衆」を軍事的に指揮できなかったのです。毛利氏がそうしたいと考えても、毛利氏の「家中」による軍事指揮を「国衆」が受け入れることはなかったはずです。それは格下のものによる軍事指揮となり、毛利氏とは同格であるという「国衆」の高いプライドを大きく傷つけることになるからです。毛利氏が法的に同格である「国衆」を軍事的な指揮下に置いてコントロールするためには、毛利氏に対して絶対的な忠誠心を持つ「国衆」必要としたのです。このような立場を持った国衆が、私の調べた範囲では天野隆重と杉原盛重、もう一人、福田盛雅ではないかと思います。隆重と盛重は吉川元春の配下として山陰における軍事指揮官であり、盛雅は小早川隆景の支配下で美作における軍事指揮官として活躍したと思われます。 安芸国衆としての天野氏には志芳堀天野氏と志芳東村天野氏の二系統があります。隆重の家系は志芳堀天野氏です。志芳東村天野は、後に毛利元就の七男・元政を養子として迎え、近世まで家系が存続します。これに対して隆重の家系は近世に入る直前に断絶しており、纏まった史料が残されておらず、あまり研究の進んでいない家系です。隆重の家系は毛利氏の庶家である福原広俊・貞俊の家系と婚姻関係にあり、毛利氏の「家中」に非常に近い家系です。毛利氏と婚姻関係を結ぶのではなく、毛利氏「家中」の福原氏と婚姻関係を結んでいることは天野氏側に毛利氏より格下であるとの意識があったことになります。隆重以前の天野氏の所領は殆どが志芳盆地内にあり、国衆としては小領主でした。ここに毛利氏との格差を意識する原因があったと考えられます。また、志芳盆地は毛利氏の本領である吉田に隣接しているために、毛利氏との間に古くからの交流があり、毛利元就が天野隆重を信頼する根拠を生み出したと思います。永禄四年の豊前苅田松山城の籠城戦や永禄十二年の出雲富田城の籠城戦を守り抜き、隆重は元就の信頼によく応えています。毛利氏と天野氏の地理的近接性と古くからの関係の中で、元就は隆重の人となりを見て、特別な信頼を置いてきたのではないかと思われます。それが、前述した毛利氏の危機に隆重に重要拠点の防衛を任せた理由だと思われます。ここで隆重と同じく毛利領国の重要拠点である備後・神辺城と西伯耆の要衝・尾高城を任された盛重はどういう人物なのでしょうか。隆重の立場から推論すると元就の大きな信頼を得ていたことになります。備南の一国衆である盛重がどのようにして元就の信頼を得たのでしょうか。ここに大きな謎が存在します。今、私自身は盛重の出自を杉原氏とすることに大きな疑問をもっています。盛重も隆重とおなじく毛利氏と古くから繋がりのあった小領主を出自としているのではないかと言う事です。つまり、盛重は毛利氏の強い推挙のもとに、他家から杉原氏の養子となったのではということです。その根拠は、『毛利家文書』に残る毛利興元・元就の子女の嫁ぎ先を記録した文書です。この中に興元の娘に関して「杉原殿に御座候、その後同盛重に御座候」という文言があります。ここに言う杉原殿は通説では理興と解釈されていますが、二十五周年記念出版で述べたように理興の姓は山名であり、杉原殿は理興ではありえません。「杉原殿」とは天文十五年十二月十二日付けで乃美小太郎に宛てられた「大内氏奉行人連署書状」(『浦家文書』)に現れる杉原豊後守を指すと考えられます。書状の内容から考えると杉原豊後守は、天文十二年から十八年に渡って戦われた神辺合戦に際して、理興の重臣として神辺城に籠城していたと考えられます。天文十八年九月の神辺落城に際して、杉原豊後守は大内・毛利方に転向したと思われます。その根拠は、「杉原文書」に残る天文二十二年の「大友義鎮書状」です。この中で義鎮は豊後守に対して「毛利元就父子とよく相談して大内義長の大内氏相続を宜しく頼む」と依頼しており、この段階で豊後守が大内・毛利方に転向していたことの確認がとれます。神辺落城後、大内氏は神辺城を直轄として青影越後守を城番に据えます。天文二十四年十月、厳島合戦で陶晴賢を破った毛利元就は芸備地方を完全に掌握し、神辺城もその手中に納めたと思われます。この時、神辺城主となったのが、毛利方に転じていた杉原豊後守ではないでしょうか。この豊後守こそが毛利興元の娘を娶った「杉原殿」だと考えられます。毛利氏は、豊後守に興元の娘を姿わせて準一門として神辺城を任せたものと考えられます。弘治三年頃、豊後守が病没し、その後継となったのが盛重です。一般には『陰徳太平記』を根拠として吉川元春の強い推挙により、盛重が神辺城主となったとされています。天文二十四年段階の毛利氏は陶晴賢を破りはしたが、防長の征服戦を残しており、神辺城を直轄城としたくてもその実力を有していなかったと考えられます。このため、妥協策として神辺城主・山名理興の重臣であった杉原豊後守を神辺城に入れ、備南地域の安定を図ったと思われます。『陰徳太平記』が芸防引分後に山名理興が元就に詫びを入れて神辺城に復帰したとしているのは、理興と杉原豊後守を混同したための誤りではないかと思います。 杉原豊後守の没した弘治三年頃には、毛利氏は安芸・備後・周防。長門を完全に掌握し、中国一の勢力となっていました。この状況下で、備後の要衝・神辺城主の後継者として杉原盛重が登場します。元就は神辺城を直轄城にしたかったと思います。ですが慎重な性格の元就は、備後の国衆の反発を恐れたために、安芸の小領主で天野隆重と同様に信頼のおける人物であった盛重と杉原豊後守の後家(興元の娘、元就の姪)とを娶わせて、盛重に備南で杉原氏が築いていた国衆のネットワーク(婚姻関係や盟約関係)を引継がせたのではと推論しています。このパターンを思いついた原因は、元就が他家を吸収する場合によく使う手段だからです。元春の吉川氏相続、隆景の小早川氏相続、志路通良による口羽氏相続は、いずれも養子縁組による相続です。また、「森脇覚書」によると盛重の尾高城主・行松氏の相続は、行松入道の未亡人との結婚によっています。元就は養子縁組や婚姻を用いた有力国衆が歴史的に築いた国衆ネットワークの取り込みを得意としており、盛重の神辺城相続もそれに当るのではと考えています。備後の要衝・神辺と西伯耆の要衝・尾高城を任され、毛利氏の外交顧間であった竺雲恵心から「伯州の神辺殿」と尊称された盛重という人物は単なる備後の有力国衆とは考えられず、よほど毛利元就に近い立場にあり、且つ元就の信頼を勝ち得ていた人物としか思えないのです。これが盛重の出自を杉原氏とすること否定したくなっている理由です。但し、盛重の直系は子息である元盛・景盛の相続争いによって断絶しており、先の推論を立証する史料は残されていません。ただ、隆重と盛重の名前が似ていることは、盛重の出自も天野氏ではと考えたくなる一因ではあります。最後に最初に述べた『吉川文書』の書状を見て、なぜ「家中」的な国衆に確信を持ったかと言うと、書状の発給者の一人に毛利氏「家中」である渡辺長の署名があることです。盛重も隆重も毛利氏「家中」と連署して書状を発給することに抵抗感を持たない国衆であったこと、つまり、毛利氏「家中」との間に身分の差を意識していないことを表しているからです。以上、盛重も隆重も毛利氏の「家中」的な国衆であったとする仮説の推論根拠を述べてきました。今後、この推論をもう少し論理的に補強して本格的な論文にしたいと思っています。 尚、今回毛利氏関係の研究を進めるに当たり、当会の住本さんの運営するホームページを参考にさせて戴きました。最後になりますが、感謝の意を表したいと思います。 <関連記事> 中世武士と実名について備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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