渋川直頼の譲状(備後での渋川氏の所領について)

備陽史探訪:126号」より

小林 定市

一、備後に伝えられた渋川氏の所領

現在から丁度八十年以前の、大正十四年(一九二五)に出版された『御調郡誌』に、出所不詳の「観応三年(一三五二)六月に渋川直頼が子息の渋川義行に宛てた譲状」の写し文書を伝えていた。その譲状には福山市沼隈町の地名山南郷が記載されていた。

[観応三年、渋川金王丸宛、渋川直頼譲状写]

譲与  所領事

一所 下野國足利庄内板倉郷    (栃木県足利市板倉町)
一々 上野國渋川郷        (群馬県渋川市)
一々 武蔵国大麻生郷       (埼玉県熊谷市大麻生)
一々 同國蕨郷上下        (埼玉県蕨市)
一々 同國遊馬郷領家職
一々 但馬國阿佐之野村      (養父郡と美方郡に浅野あり)
一々 相模國一宮庄同社冨田以下  (神奈川県綾瀬市渋谷庄内)
一々 同國西飯田堀内一宮領新御寄進(神奈川県高座郡寒川町一之宮)
一々 加賀國野代村 但此内蓮臺寺村蓮臺寺寄進(石川県小松市蓮代寺町)
一々 越中國目良保        (富山県氷見市中田)
一々 同國春日 吉江保      (富山県高岡市戸出春日)

一所 信濃國有坂郷        (長野県小県郡長門町)
一々 同國長土呂郷        (長野県佐久市大井庄内長土呂)
一々 陸奥國酒谷村
一々 同國小柴村
一々 同國沼木郷
一々 同國赤坂郷
一々 備後国御調別宮       (三原市八幡町)
一々 同國山南郷         (福山市沼隈町)
一々 同國山田村
一々 同國福代村 但大光明寺寄進   (広島県比婆郡東城町福代)
一々 佐渡國守護職
右、所々相副本御下文以下手継状等所譲与干金王丸也、仍譲状如件、
観応三年(一三五三)六月廿九日  直頼御判

渋川氏に就いて『御調郡誌』は、「渋川氏は足利泰氏に出づ泰氏の子義顕上野国渋川郷を領す依って渋川次郎と橋す、曾孫義季族宗尊氏に従ひ建武二年武州女影原にて戦死す、子直頼に至り御調別宮即ち八幡庄を領す、実に観応以前にあり。」と、『御調郡誌』は直頼の時代に、御調別宮や山南郷を領したと伝えているが確証が存在するのであろうか。

二、『賀上家文書』の渋川氏二十一ヶ所領と守護職

実は渋川氏の出典不詳の文書が、『新修蕨市史 通史編』(平成七年発行)の口絵に掲載されていたのである。驚いたことにこの史料の所有者は「三原市賀上晋次郎家所蔵」となっており、『御調郡誌』の原典は『賀上家文書』であった可能性が濃厚となった。

渋川直頼(建武元年一三三四~延文元年七月一三五六)の譲状だけでは、所領の入手時期と移動時期が不明である。直頼の父渋川義季(正和三年一三一四~建武二年七月一三三五)に宛てた譲状と活躍記録が残されており、当時の残存史料を駆使して考証すると大筋で所領の推移が推定できる。義季は直頼が数え年二歳の建武二年、北条時行の反乱「中先代の乱」を鎮圧しようとして武蔵の女影原の戦いで敗死した。

直頼の祖父丹波守貞頼は元亨四年(一三二四)四月、義季宛に先祖伝来の「上野國渋川郷、下野國足利庄内板倉郷、武蔵國大麻生郷、他」の譲状を書いており、最初に書かれた十一ヶ所の所領は鎌倉時代から渋川家に相伝された所領のようである。次の二枚目に書かれた信濃固有坂郷以下十ヶ所の地頭職と佐渡守護職は、特別な来歴を意味する所領らしく、下記の岩松経家関係史料と照合すると、所領を与えられ人物は直頼ではなくて義季だったようである。

三、岩松経家の後醍醐天皇の綸旨

建武元年一月に関東廂番が設けられ、廂番には足利一族の有力武将達が名を連ねていた。一番の頭人に刑部大輔渋川義季・二番の頭人に兵部大輔岩松経家の名前がある。その義季と岩松経家は廂番設置後、一年半後に起きた女影原の激戦で奇しくも共に戦死していた。

二人の廂番登用を推測すると、両者の政治能力と討幕戦に於ける軍功はほぼ伯仲していたことを物語っていたようである。幸いな事に岩松経家の家系は、元弘三年の討幕戦に於ける軍忠を想定させる後醍醐天皇の綸旨を伝えていた。一方の渋川家は何らかの事情で、後醍醐天皇の綸旨を飛散させていたようである。

岩松経家宛の守護職綸旨は、「飛騨國守護職、可令管領者、天気如此、仍執達如件。元弘三年七月十九日 式部少輔(花押)兵部大輔殿」とあり、また所領の綸旨は、北條氏の遺領「伊勢國笠松庄 (大仏)維貞跡」を筆頭に以下十ヶ所を記載の後、「右、所々地頭職、可令管領者、天気如此、仍執達如件。元弘三年七月十九日 式部少輔(花押) 兵部大輔殿」『集古文書。大日本史料』であった。経家宛の十ヶ所領の前領有者の中で、九ヶ所は北条高時の弟泰家と大仏氏に名越氏と北条一族の所領で、「出羽國会津 顕業跡」だけが領主を特定できなかった。

次に渋川家に伝来した史料と、岩松経家の綸旨の共通点を列挙すると、1、両家とも足利一族で足利高氏の討幕戦に従事した。2、守護職は各一ヶ國ずつ宛行われている。3、所領(地頭職)の数も同数の十ヶ所と一致している。最後の条件「北條氏の遺領」を証明する渋川氏の史料は少ないが、幸いなことに備後山南郷の領主が『厳島紙背文書』により、大仏維貞の所領であったことが判明している。他の九ヶ所の所領も山南郷と同様、北条氏一族が領有していた所領であった可能性が高い。

四、譲状の書写年代

以上前記の史料から、山南郷の領主の交代時期を総合的に判断すると、後醍醐天皇の綸旨に依り元弘三年七月頃、渋川義季が新領主となった可能性が高い。

次に綸旨には書かれていなかった筈の但し書きの追記が、備後國福代村と加賀國野代村に記されていた事である。寄進を裏付ける史料として、永正十四年(一五〇七)十二月十八日、京都伏見区指月後山の臨済宗大光明寺の住持長典は、賀陽院大光明寺領諸国所々目録案に「一、備後國福代郷地頭職事」「一、加賀國能美郡野代保四分一蓮臺寺村(中略)同野代保惣領渋川殿御料所分」と記しており兩書の内容は一致する。

問題は北朝の光明天皇陵がある大光明寺に、渋川氏が何の事由で福代村と野代村を寄進したかである。その経緯を推考すると、後醍醐天皇から与えられた渋川氏の所領は、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻した時点で没収されていた筈である。ところが後に尊氏が擁立した、光明天皇に依って安堵されたことを物語っているようである。そこで渋川氏は光明天皇が売去された康暦二年(一三八〇)以後、天皇の追福を祈り大光明寺に所領を寄進したものと考えられる。

渋川直頼譲状写

渋川直頼譲状写
渋川直頼譲状写2

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/5c8d66e5f7e7574c2ff59a11cf18a091.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/5c8d66e5f7e7574c2ff59a11cf18a091-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:126号」より 小林 定市 一、備後に伝えられた渋川氏の所領 現在から丁度八十年以前の、大正十四年(一九二五)に出版された『御調郡誌』に、出所不詳の「観応三年(一三五二)六月に渋川直頼が子息の渋川義行に宛てた譲状」の写し文書を伝えていた。その譲状には福山市沼隈町の地名山南郷が記載されていた。 [観応三年、渋川金王丸宛、渋川直頼譲状写] 譲与  所領事 合 一所 下野國足利庄内板倉郷    (栃木県足利市板倉町) 一々 上野國渋川郷        (群馬県渋川市) 一々 武蔵国大麻生郷       (埼玉県熊谷市大麻生) 一々 同國蕨郷上下        (埼玉県蕨市) 一々 同國遊馬郷領家職 一々 但馬國阿佐之野村      (養父郡と美方郡に浅野あり) 一々 相模國一宮庄同社冨田以下  (神奈川県綾瀬市渋谷庄内) 一々 同國西飯田堀内一宮領新御寄進(神奈川県高座郡寒川町一之宮) 一々 加賀國野代村 但此内蓮臺寺村蓮臺寺寄進(石川県小松市蓮代寺町) 一々 越中國目良保        (富山県氷見市中田) 一々 同國春日 吉江保      (富山県高岡市戸出春日) 一所 信濃國有坂郷        (長野県小県郡長門町) 一々 同國長土呂郷        (長野県佐久市大井庄内長土呂) 一々 陸奥國酒谷村 一々 同國小柴村 一々 同國沼木郷 一々 同國赤坂郷 一々 備後国御調別宮       (三原市八幡町) 一々 同國山南郷         (福山市沼隈町) 一々 同國山田村 一々 同國福代村 但大光明寺寄進   (広島県比婆郡東城町福代) 一々 佐渡國守護職 右、所々相副本御下文以下手継状等所譲与干金王丸也、仍譲状如件、 観応三年(一三五三)六月廿九日  直頼御判 渋川氏に就いて『御調郡誌』は、「渋川氏は足利泰氏に出づ泰氏の子義顕上野国渋川郷を領す依って渋川次郎と橋す、曾孫義季族宗尊氏に従ひ建武二年武州女影原にて戦死す、子直頼に至り御調別宮即ち八幡庄を領す、実に観応以前にあり。」と、『御調郡誌』は直頼の時代に、御調別宮や山南郷を領したと伝えているが確証が存在するのであろうか。 二、『賀上家文書』の渋川氏二十一ヶ所領と守護職 実は渋川氏の出典不詳の文書が、『新修蕨市史 通史編』(平成七年発行)の口絵に掲載されていたのである。驚いたことにこの史料の所有者は「三原市賀上晋次郎家所蔵」となっており、『御調郡誌』の原典は『賀上家文書』であった可能性が濃厚となった。 渋川直頼(建武元年一三三四~延文元年七月一三五六)の譲状だけでは、所領の入手時期と移動時期が不明である。直頼の父渋川義季(正和三年一三一四~建武二年七月一三三五)に宛てた譲状と活躍記録が残されており、当時の残存史料を駆使して考証すると大筋で所領の推移が推定できる。義季は直頼が数え年二歳の建武二年、北条時行の反乱「中先代の乱」を鎮圧しようとして武蔵の女影原の戦いで敗死した。 直頼の祖父丹波守貞頼は元亨四年(一三二四)四月、義季宛に先祖伝来の「上野國渋川郷、下野國足利庄内板倉郷、武蔵國大麻生郷、他」の譲状を書いており、最初に書かれた十一ヶ所の所領は鎌倉時代から渋川家に相伝された所領のようである。次の二枚目に書かれた信濃固有坂郷以下十ヶ所の地頭職と佐渡守護職は、特別な来歴を意味する所領らしく、下記の岩松経家関係史料と照合すると、所領を与えられ人物は直頼ではなくて義季だったようである。 三、岩松経家の後醍醐天皇の綸旨 建武元年一月に関東廂番が設けられ、廂番には足利一族の有力武将達が名を連ねていた。一番の頭人に刑部大輔渋川義季・二番の頭人に兵部大輔岩松経家の名前がある。その義季と岩松経家は廂番設置後、一年半後に起きた女影原の激戦で奇しくも共に戦死していた。 二人の廂番登用を推測すると、両者の政治能力と討幕戦に於ける軍功はほぼ伯仲していたことを物語っていたようである。幸いな事に岩松経家の家系は、元弘三年の討幕戦に於ける軍忠を想定させる後醍醐天皇の綸旨を伝えていた。一方の渋川家は何らかの事情で、後醍醐天皇の綸旨を飛散させていたようである。 岩松経家宛の守護職綸旨は、「飛騨國守護職、可令管領者、天気如此、仍執達如件。元弘三年七月十九日 式部少輔(花押)兵部大輔殿」とあり、また所領の綸旨は、北條氏の遺領「伊勢國笠松庄 (大仏)維貞跡」を筆頭に以下十ヶ所を記載の後、「右、所々地頭職、可令管領者、天気如此、仍執達如件。元弘三年七月十九日 式部少輔(花押) 兵部大輔殿」『集古文書。大日本史料』であった。経家宛の十ヶ所領の前領有者の中で、九ヶ所は北条高時の弟泰家と大仏氏に名越氏と北条一族の所領で、「出羽國会津 顕業跡」だけが領主を特定できなかった。 次に渋川家に伝来した史料と、岩松経家の綸旨の共通点を列挙すると、1、両家とも足利一族で足利高氏の討幕戦に従事した。2、守護職は各一ヶ國ずつ宛行われている。3、所領(地頭職)の数も同数の十ヶ所と一致している。最後の条件「北條氏の遺領」を証明する渋川氏の史料は少ないが、幸いなことに備後山南郷の領主が『厳島紙背文書』により、大仏維貞の所領であったことが判明している。他の九ヶ所の所領も山南郷と同様、北条氏一族が領有していた所領であった可能性が高い。 四、譲状の書写年代 以上前記の史料から、山南郷の領主の交代時期を総合的に判断すると、後醍醐天皇の綸旨に依り元弘三年七月頃、渋川義季が新領主となった可能性が高い。 次に綸旨には書かれていなかった筈の但し書きの追記が、備後國福代村と加賀國野代村に記されていた事である。寄進を裏付ける史料として、永正十四年(一五〇七)十二月十八日、京都伏見区指月後山の臨済宗大光明寺の住持長典は、賀陽院大光明寺領諸国所々目録案に「一、備後國福代郷地頭職事」「一、加賀國能美郡野代保四分一蓮臺寺村(中略)同野代保惣領渋川殿御料所分」と記しており兩書の内容は一致する。 問題は北朝の光明天皇陵がある大光明寺に、渋川氏が何の事由で福代村と野代村を寄進したかである。その経緯を推考すると、後醍醐天皇から与えられた渋川氏の所領は、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻した時点で没収されていた筈である。ところが後に尊氏が擁立した、光明天皇に依って安堵されたことを物語っているようである。そこで渋川氏は光明天皇が売去された康暦二年(一三八〇)以後、天皇の追福を祈り大光明寺に所領を寄進したものと考えられる。 渋川直頼譲状写備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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