西播磨を訪ねて(兵庫県西部史跡めぐり)
「備陽史探訪:147号」より
根岸 尚克
晴天に恵まれて、バスは福山駅北口を八時に出発して、山陽自動車道を東に走る。備前インターを降りて国道二号線を更に東に進む。自動車道が開通する迄は、関西方面に何度もこの道を走った。何十年ぶりかでその道を走っている。何かしら感慨を覚える。三石を過ぎ暫く走ると「有年(うね)」である。やがて右手に東有年沖田遺跡が見えて来る。国道二号線に面してこんな遺跡があるとは。
この遺跡は縄文時代から室町時代にかけての集落遺跡で、その内、弥生時代の住居二棟と古墳時代の住居三棟、高床式倉庫一棟を復元している。弥生時代の住居が円形なのに対し、古墳時代のものは方形となっている。土器も出土している。全て日用に用いるものばかりである。但し、土馬が一体出土している所から、発掘が進めば祭祀用の土偶等も出土するだろう。周濠も見つかるかもしれない。この遺跡は「ムラ」の原形である。ムラの語源は群である。人々が群れ集って村が成立した。では何故人々は群れ集うのか。それは水利があるからである。近郊の案内図をみると他にも集落遺跡がある。それと古墳が多い。その中に「キトラ古墳」がある。キトラは百済のことである。ここ矢野荘は、朝鮮半島からの帰化人秦氏縁の地である。この古墳の主も帰化人であるに相違ない。弥生遺跡が多く点在する事では神辺平野と似ている。
会からもらったパンフレットの矢野庄年表の中に「一〇七一年泰為辰裁判で久富保の所有権を確保」「一一三六年美福門院が久富保を荘園にする様申請し、矢野庄として公認される」と載る。「久富」はクタミで、土地が開拓され人々が入植する事、即ち「来る民」の事である。福山市沼隈町にもクタミの地名が残る。荘園が造られて入植者が流入する様が偲ばれる地名である。
次に若狭野の「若狭野古墳」に行く。播磨国風土記揖保郡(いぼのこおり)の条に「狭野村。別之君玉手等が遠つ祖、本、川内之国泉郡に居りき。地便にあらざるに因りて、遷りてこの土に到り仍(よ)りて云ひしく「この野は狭しくあれども猶し居べし」と云ひき。故、狭野と号(なづ)く」地便=便利。まさにここ若狭野が狭野村の地である。狭=せまい、野=起伏のある地形。
古墳は北方の丘の麓にある。方墳で濠がある。中に入ると最奥部の鏡石がある場所が凹形に作られた変わった構造をしている。この凹部の使われ方が分からない。もしかするとこれは火葬された骨壷を柵を作って祭る場所ではないかとも思うのである。天武持統両天皇は火葬された後、陵に葬られた。元正、元明天皇、藤原鎌足も火葬である。
いよいよ感状山城に登る。はじめに谷間にある伝説を秘めた瓜生羅漢石仏をみて登りにかかる。登山道は良く整備されていて登り易かったが、それでも途中幾度か呼吸を整え乍ら登っていく。
時代は降って建武年間、都を追われた足利尊氏が新田勢に追われて九州に逃れる折、赤松円心の三男則祐が新田勢をこの山城で五十余日にわたり足止めをした結果、足利尊氏の反撃の機会を与える事になった事で知られる。この功績により足利尊氏が赤松則祐に感状を与えた事から感状山といわれる様になったと言われている。高さ約三〇一mで石垣や礎石井戸跡等の遺構が良く残っている。築城年代は鎌倉時代と建武三年説とがある。物見台に立つと南に眺望が開ける。建物も建っていたのだが十六世紀末頃であろうと言われる。本丸跡で昼食となる。点在する石片は建物の礎石である。
昼食を取った後下山し、最後の目的地「赤穂」へ向かう。
赤穂は趣のある街である。福山に来る前の本庄重政が赤穂で製塩法を学んだ事は良く知られていて両方とも城があり城下に通した水道もあり、福山とも縁がある所である。余り時間が無いので、大石神社周辺を散策した。
門に至る参道には義士の石像が両側に並んでいる。之は日本では高いので、中国で刻まれた。何となくずんぐりしていて切れ込みも浅く訴えるものがない。失敗だったと思う。それより義士木像奉安殿の木像がいい。目的を持った凛とした表情をみせる木像群を見ていると胸が熱くなってくるのは私だけであろうか。
これで今日の予定は全て終わり赤穂インターからバスは福山へ向かった。
(写真は岡田宏一郎氏撮影のものを使用)
https://bingo-history.net/archives/510https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/09215-01.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/09215-01.jpg紀行・随筆備陽史探訪,古墳,山城,紀行,赤穂「備陽史探訪:147号」より 根岸 尚克 晴天に恵まれて、バスは福山駅北口を八時に出発して、山陽自動車道を東に走る。備前インターを降りて国道二号線を更に東に進む。自動車道が開通する迄は、関西方面に何度もこの道を走った。何十年ぶりかでその道を走っている。何かしら感慨を覚える。三石を過ぎ暫く走ると「有年(うね)」である。やがて右手に東有年沖田遺跡が見えて来る。国道二号線に面してこんな遺跡があるとは。 この遺跡は縄文時代から室町時代にかけての集落遺跡で、その内、弥生時代の住居二棟と古墳時代の住居三棟、高床式倉庫一棟を復元している。弥生時代の住居が円形なのに対し、古墳時代のものは方形となっている。土器も出土している。全て日用に用いるものばかりである。但し、土馬が一体出土している所から、発掘が進めば祭祀用の土偶等も出土するだろう。周濠も見つかるかもしれない。この遺跡は「ムラ」の原形である。ムラの語源は群である。人々が群れ集って村が成立した。では何故人々は群れ集うのか。それは水利があるからである。近郊の案内図をみると他にも集落遺跡がある。それと古墳が多い。その中に「キトラ古墳」がある。キトラは百済のことである。ここ矢野荘は、朝鮮半島からの帰化人秦氏縁の地である。この古墳の主も帰化人であるに相違ない。弥生遺跡が多く点在する事では神辺平野と似ている。 会からもらったパンフレットの矢野庄年表の中に「一〇七一年泰為辰裁判で久富保の所有権を確保」「一一三六年美福門院が久富保を荘園にする様申請し、矢野庄として公認される」と載る。「久富」はクタミで、土地が開拓され人々が入植する事、即ち「来る民」の事である。福山市沼隈町にもクタミの地名が残る。荘園が造られて入植者が流入する様が偲ばれる地名である。 次に若狭野の「若狭野古墳」に行く。播磨国風土記揖保郡(いぼのこおり)の条に「狭野村。別之君玉手等が遠つ祖、本、川内之国泉郡に居りき。地便にあらざるに因りて、遷りてこの土に到り仍(よ)りて云ひしく「この野は狭しくあれども猶し居べし」と云ひき。故、狭野と号(なづ)く」地便=便利。まさにここ若狭野が狭野村の地である。狭=せまい、野=起伏のある地形。 古墳は北方の丘の麓にある。方墳で濠がある。中に入ると最奥部の鏡石がある場所が凹形に作られた変わった構造をしている。この凹部の使われ方が分からない。もしかするとこれは火葬された骨壷を柵を作って祭る場所ではないかとも思うのである。天武持統両天皇は火葬された後、陵に葬られた。元正、元明天皇、藤原鎌足も火葬である。 いよいよ感状山城に登る。はじめに谷間にある伝説を秘めた瓜生羅漢石仏をみて登りにかかる。登山道は良く整備されていて登り易かったが、それでも途中幾度か呼吸を整え乍ら登っていく。 時代は降って建武年間、都を追われた足利尊氏が新田勢に追われて九州に逃れる折、赤松円心の三男則祐が新田勢をこの山城で五十余日にわたり足止めをした結果、足利尊氏の反撃の機会を与える事になった事で知られる。この功績により足利尊氏が赤松則祐に感状を与えた事から感状山といわれる様になったと言われている。高さ約三〇一mで石垣や礎石井戸跡等の遺構が良く残っている。築城年代は鎌倉時代と建武三年説とがある。物見台に立つと南に眺望が開ける。建物も建っていたのだが十六世紀末頃であろうと言われる。本丸跡で昼食となる。点在する石片は建物の礎石である。 昼食を取った後下山し、最後の目的地「赤穂」へ向かう。 赤穂は趣のある街である。福山に来る前の本庄重政が赤穂で製塩法を学んだ事は良く知られていて両方とも城があり城下に通した水道もあり、福山とも縁がある所である。余り時間が無いので、大石神社周辺を散策した。 門に至る参道には義士の石像が両側に並んでいる。之は日本では高いので、中国で刻まれた。何となくずんぐりしていて切れ込みも浅く訴えるものがない。失敗だったと思う。それより義士木像奉安殿の木像がいい。目的を持った凛とした表情をみせる木像群を見ていると胸が熱くなってくるのは私だけであろうか。 これで今日の予定は全て終わり赤穂インターからバスは福山へ向かった。 (写真は岡田宏一郎氏撮影のものを使用)管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会