小早川隆景初陣の場所、「坪生要害」清水山

坪生要害

坪生要害と小早川隆景

足掛け7年に及んだ神辺合戦は、色んな興味深い逸話を残した。後に豊臣家の五大老にまでなった戦国の名将、小早川隆景の初陣の場所が「坪生要害」であったのもその一つだ。

隆景は、毛利元就の3男として天文2年(1533)、安芸吉田の郡山城中で誕生し、天文十三年(1544)、竹原小早川家を相続して「小早川隆景」となった。所謂「三本の矢」の一人だ。

隆景と備後の縁は深い。隆景が竹原小早川家を相続したのは、従姉(元就の兄興元の娘)が竹原興景の妻であったことによるが、この従姉は、はじめ備後甲山城主山内豊通に嫁し、豊通の早世後は竹原興景の妻に迎えられ、夫興景の没後隆景を竹原家に迎えるにあたっては影の立役者となった。そして、更に備後神辺城主山名理興に再嫁し、理興の没後はその跡目を相続した杉原盛重の妻となった。「悲運」を絵に描いたような一生を送った女性だが、嫁ぎ先では必ず毛利家のために働いた。いわば「毛利家の外交官」だ。現代の我々が思うほど、彼女は打ちひしがれてはいなかっただろう。

さて、こうして竹原小早川家を相続した隆景にとって神辺合戦は、最初の桧舞台となった。小早川家は海にも大きく発展しており「警固衆」と呼ばれた水軍を持っていた。そのため神辺合戦では、主に海上から神辺城を攻撃する役目を担い、前回紹介した手城町の手城島城や大門町の明智山城を攻略し、大内軍の「橋頭堡」とした。手城島には渡辺氏が城番として入り、明智山には部将の浦宗勝が入った。

神辺城の理興にとって手城島や明智山を失った痛手は大きかった。隣国備中の細川氏も理興と共に尼子方に属しており、この両城を失っては細川氏の救援を得ることが困難になる。理興は、この大内勢の攻勢に対して、坪生に出城を築いて対抗した。

「坪生要害」とも「竜王山」とも呼ばれるこの出城の跡は、幕山から坪生に抜ける旧道沿いに残っている。ゴルフの練習場のある「川原池」の直ぐ西に接する小山がそれで、地元では今「清水山」と呼んでいる。狐原町内会館の前から東に登る道があって、五分程度で山頂に達する。山頂はちょっとした広場となっていて竜王社が祀られている。古文書に「坪生要害」のことを「竜王山」とも記すのはこの小祠があるからであろう。

この出城をめぐる、理興勢と大内勢の決戦は天文十六年(1547)4月28日に行われ、大内勢が勝って、神辺城東南の要衝は失われた。

実は、この「坪生要害」の戦いこそ、名将小早川隆景の「初陣」の場所となった記念すべき合戦であった。隆景は当時16歳、この合戦で隆景の出した感状は数通残っており、日付の早いものは「徳寿丸」(隆景元服前の幼名)の署名があり、若干遅れて出されたものは「隆景」の名で出されている。つまり、隆景はこの合戦の最中に元服したことが推測され、この場所が彼の初陣の場と見てまず間違いない。

今、清水山を訪ねても城跡としての痕跡はほとんど残っていない。ただ、戦前、「火の見櫓」を立てるために山の麓を掘ったところ、大量の人骨が出土し、合戦の戦死者のものであろうと、古老が伝えているだけだ。

(田口義之「新びんご今昔物語」大陽新聞連載中より)

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/07/59d628e1-1024x768.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/07/59d628e1-150x100.jpg管理人中世史山城坪生要害と小早川隆景 足掛け7年に及んだ神辺合戦は、色んな興味深い逸話を残した。後に豊臣家の五大老にまでなった戦国の名将、小早川隆景の初陣の場所が「坪生要害」であったのもその一つだ。 隆景は、毛利元就の3男として天文2年(1533)、安芸吉田の郡山城中で誕生し、天文十三年(1544)、竹原小早川家を相続して「小早川隆景」となった。所謂「三本の矢」の一人だ。 隆景と備後の縁は深い。隆景が竹原小早川家を相続したのは、従姉(元就の兄興元の娘)が竹原興景の妻であったことによるが、この従姉は、はじめ備後甲山城主山内豊通に嫁し、豊通の早世後は竹原興景の妻に迎えられ、夫興景の没後隆景を竹原家に迎えるにあたっては影の立役者となった。そして、更に備後神辺城主山名理興に再嫁し、理興の没後はその跡目を相続した杉原盛重の妻となった。「悲運」を絵に描いたような一生を送った女性だが、嫁ぎ先では必ず毛利家のために働いた。いわば「毛利家の外交官」だ。現代の我々が思うほど、彼女は打ちひしがれてはいなかっただろう。 さて、こうして竹原小早川家を相続した隆景にとって神辺合戦は、最初の桧舞台となった。小早川家は海にも大きく発展しており「警固衆」と呼ばれた水軍を持っていた。そのため神辺合戦では、主に海上から神辺城を攻撃する役目を担い、前回紹介した手城町の手城島城や大門町の明智山城を攻略し、大内軍の「橋頭堡」とした。手城島には渡辺氏が城番として入り、明智山には部将の浦宗勝が入った。 神辺城の理興にとって手城島や明智山を失った痛手は大きかった。隣国備中の細川氏も理興と共に尼子方に属しており、この両城を失っては細川氏の救援を得ることが困難になる。理興は、この大内勢の攻勢に対して、坪生に出城を築いて対抗した。 「坪生要害」とも「竜王山」とも呼ばれるこの出城の跡は、幕山から坪生に抜ける旧道沿いに残っている。ゴルフの練習場のある「川原池」の直ぐ西に接する小山がそれで、地元では今「清水山」と呼んでいる。狐原町内会館の前から東に登る道があって、五分程度で山頂に達する。山頂はちょっとした広場となっていて竜王社が祀られている。古文書に「坪生要害」のことを「竜王山」とも記すのはこの小祠があるからであろう。 この出城をめぐる、理興勢と大内勢の決戦は天文十六年(1547)4月28日に行われ、大内勢が勝って、神辺城東南の要衝は失われた。 実は、この「坪生要害」の戦いこそ、名将小早川隆景の「初陣」の場所となった記念すべき合戦であった。隆景は当時16歳、この合戦で隆景の出した感状は数通残っており、日付の早いものは「徳寿丸」(隆景元服前の幼名)の署名があり、若干遅れて出されたものは「隆景」の名で出されている。つまり、隆景はこの合戦の最中に元服したことが推測され、この場所が彼の初陣の場と見てまず間違いない。 今、清水山を訪ねても城跡としての痕跡はほとんど残っていない。ただ、戦前、「火の見櫓」を立てるために山の麓を掘ったところ、大量の人骨が出土し、合戦の戦死者のものであろうと、古老が伝えているだけだ。 (田口義之「新びんご今昔物語」大陽新聞連載中より)備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
詳しくは以下のリンクをご覧ください。 中世を読む