福山市東部の史跡
「ふるさと探訪」より
山口 哲晶
深津湾
福山駅から井笠バス『坪生行』に乗ると奈良津から旧県道の細い道に入り蔵王町へと向かう。旧道は本来、蔵王町綱木辺りの常夜灯を左手に折れてそのまま蔵王山麓に沿って東に続くのだがバスは新しい県道に入っていく。この辺りは蔵王山麓から南に延びる深津高地の付け根に辺り緩やかな峠となっている。
ここ深津高地は古くは深津島山と呼ばれるように細長い島であった。万葉集の柿本人麻呂の恋の歌にもその風景とともに登場し、織田信長によって都を追われた足利第十五代将軍義昭が毛利氏の庇護の下に鞆に滞在し、豊臣氏と毛利氏の和議成立の成った後、失意のうち泉州の堺に帰るまでの一時期居館を構えていたところでもある。蔀山(しとみやま)と呼ばれる現在稲荷神社の鎮座するあたりの平地がそうだと伝えられている。
深津高地を横切リバスはやがて広い平野ヘと下っていく。この新道の走る平野は江戸時代初めの福山藩の干拓事業によって生まれたもので、それまでは遠浅の海だった。深津高地に上り、平野を眺めればそれと実感できる。古代から港は波静かな湾内に多く見られ、この周辺もまた現在の深津高地が半島状に延び、東の引野町の半島とともに湾を形成しており、いくつかの港が営まれていたところである。それを示すようにこの辺りの港を表わす「津」のついた深津・奈良津・吉津と言う地名にそれを見て取れる。つまリバスはこれから往時海だったところを走って行くわけである。新道はそのまま真っすぐに延びてやがて国道一八二号線とぶつかる。
宮ノ前廃寺と深津市
バスはこのまま一八二号線を越えて東に向かうが少し寄り道をして「広尾」のバス停で下車する。ここまで来ると寄りたい史跡がある。バス停から一八二号線を北にとって行くと右手にJAFが見えて来る。その背後の丘陵中腹に目指定史跡「宮ノ前廃寺」はある。現在蔵王八幡社の境内となっている狭い丘陵を削り東に塔、西に金堂を配した白鳳時代に創建された古代寺院の一つである。
古代寺院はそれまでの古墳に代わって現世利益を願う諸豪族により数多く建立されたが、それは中央集権体制の確立を目指す国家政策一つでもあった。この背景のもとに備後の国にも数多くの古代寺院が建立された。その分布を見てみると備北地域はほぼ一郡に一寺の様相であり、使用された瓦も地方色の強いものに対して、備南地域は古代山陽道を中心として古代寺院が密集し、陸上交通の要衝に分布している。瓦は藤原宮や平城宮で使用された瓦と類似する文様を持つものが多く、畿内との関係の深さを指摘されている。宮ノ前廃寺も出土した瓦の文様から同様に畿内中央との関係の深さを窺わせる。
宮ノ前廃寺の伽藍は右手に塔、左手に金堂を配置する、いわゆる法起寺式の伽藍配置と言われているが、この寺跡からは幾度かの発掘調査によっても講堂等の存在は確認されていない。背後は急傾斜で本殿に続く地形より、当初から建立されなかった可能性も指摘されている。このため法起寺式としても特異な伽藍配置といえる。この寺跡は「塼(せん)」と呼ばれる現代のレンガの様なもので基壇を囲っていた珍しいもので、他に「紀巨和古女」など人名の入った文字瓦も見つかっている。紀氏と言えば古代和歌山辺りを中心に勢力を張っていた有力な豪族で、ここ芦田川下流域にその名を残しているのは興味深い。草戸町にある明工院にも紀氏の名前が見え、紀氏と備後との関係も解き明かしたい謎の一つである。
蔵王町は以前「市村」と呼ばれており、『日本霊異記』という平安時代に書かれた本の中に登場する「深津市」に比定されている町でもある。当時、古代山陽道という陸上交通の要衝に対して、当地は海に面した市という海上交通の一拠点としての性格を持っていたと思われ、その裏付けが宮ノ前廃寺であり深津市であったといえる。
再びバスに乗り一八二号線を横切り東に向かって進む。この辺りも江戸時代までは海だったところである。寛永一九年(一六四二)の干拓事業によって生まれたもので吉田新開と呼ばれている。小林病院から左折して三叉路の信号を右手にとり、再び旧道に入って坪生町へと向かう。道は狭い町筋を抜けるとやがて緩やかな上り坂となっていく。
休石(やすみいし)
だらだらと続く坂道を幾度か曲がりながら上ると、峠の頂上に「休石」と刻まれた花同岩製の角柱が目に入ってくる。三〇センチ角、長さはニメートルをゆうに越えるだろうか、石のすぐ脇には枝を広げた本が日陰を作っている。休み石は帝国在郷軍人会春日村分会の人たちの手によって置かれたもの。昭和三年十月のものである。この峠道も当時は狭い山道で福山や坪生に抜ける人たちはみんなこの峠で一息入れたもの。かといって茶店などはなく、せめて…と置かれたのがこの休石と傍に植えられた木であった。私たちもここでひと休みしながら周辺の史跡を見ていくことにしよう。
春日池とその周辺
休石からちょうど南には備後の三大大池の一つ、春日池がある。江戸時代初めの寛永二〇年前後、福山藩による藩営事業として農業用水確保のために築造されたため池である。ちょうど谷の奥まったところ、三方を丘陵に囲まれた平地に堤防を築いて造成された。よく見ると堤防を「く」の字に曲げて水圧を分散させた設計は見事なものである。また、放水路は大石を敷き詰めた堅固なものだったが改修工事により姿を消し、下流にわずかに残っているにすぎない。近年一部が埋め立てられ「春日公園」として開放され多くの家族連れが訪れるようになった。
春日池畔の北側斜面には、山陽自動車道建設に伴う発掘調査で発見された「春日南遺跡」「平松一号遺跡」がある。これらの遺跡からは建物跡や貝塚などが見つかっており中世、室町後半頃の半農半漁を生業とした庶民生活の様子を窺い知ることが出来る。
少し離れるが、春日池から東の丘陵には直径約三〇メートルの円墳「銭神古墳」がある。古墳時代も後期六世紀後半以降のものでこの時期としては比較的規模の大きい墳丘を持っている。内部主体は無袖式の横穴式石室であった。周辺は青葉台の住宅団地として開発されているが、現在公園の一角に保存され見学出来る。この古墳には須恵器という焼き物や金環(耳輪)などが残されていた。
また、谷を隔てた南側、一雇用促進住宅内の一角には「大陰第二号墳」が保存されている。先ほどの銭神古墳に比べれば墳丘は小規模であるが、第一号古墳とともに大陰古墳群を形成していた。発掘調査された第一号古墳は畑地の中にあり、基底部を残しただけで上部は破壊されていた。調査の結果、直径八メートルの円墳で、無袖式の横穴式石室を持つ六世紀後半以降の古墳と考えられている。遺物は須恵器と金環が出土している。この第一号古墳は残念ながら発掘調査後に消滅してしまった。
この辺りの丘陵には以前、数多くの古墳が存在し、その多くは横穴式石室を有した後期群集墳であった。六世紀後半以降の古墳は丘陵などの狭い範囲に直径十数メートルほどの円墳がいくつも造られるのが一般的で、先ほどの古墳もそれらの一部と考えられるが、多くの古墳は開墾、開発などで地上から姿を消し、数基を残すのみとなっている。この辺りには縄文、弥生時代の遺跡は見つかっておらず、これらの古墳の存在からこの辺り一帯は古墳時代から人々が日々の営みを始めたことを物語っている。
さて、再び峠にもどって先に進む。峠を降りきったところ、左手に立派な鳥居と高く上る石段が目にはいる。浦上八幡神社である。この神社は春日町内の神社の中では最も大きいと言われているもので、社殿に上ると春日町一帯が見渡せる。時間が許せば見ておきたいところである。
旧道は再び緩やかに上りながら坪生町との境にさしかかる。
清水山古戦場
ちょうど峠の頂となる左手に厳島神社が鎮座している。この神社でちょうど町境、この先は坪生町である。町内の丘陵の一つに「清水山古戦場」がある。
戦国動乱の世、山口の大内方から出雲尼子方に寝返り「月山富田城の合戦」(天文十一年・一五四二)で大内軍大敗のきっかけを作つたといわれる、神辺城主山名(杉原)理興を攻めるために大内方の攻撃が始まった。世に言う「神辺合戦」(天文十二~十八年・一五四三~一五四九)である。この時大内方の毛利軍は福山市の鞆に前線基地を置き、福山市手城町の「手城山城」を中継基地に引野の諸城を破り坪生町を目指した。いっぽう尼子方理興軍も当時「坪生要害」と呼ばれたここ清水山に陣取り対峙していた。引野、大門方面から攻め上る大内軍はここを突破せねば神辺には進めない地理上の要衝であった。
天文十六年(一五四七)四月二八日、ついに両軍が衝突、相乱れての合戦となった。この時の様子を戦死者数百を越す大戦であったと資料は伝えている。結局は大内方の勝利で終わり、大内軍はさらに神辺城目指して進んで行く。「清水山合戦」と呼ばれるこの戦は、当時「徳寿丸」と呼ばれていた毛利元就の三男、小早川隆景の初陣としても知られている。今は丘陵の小高い山にすぎない清水山だが、昔日多くの血が流された歴史を刻んでいるところでもある。
坪生荘
坪生町は荘園の町である。平安時代も後期、摂関政治にも翳(かげ)りが見え始めた十一世紀以降各地で開発された多くの土地、荘園は中央の有力貴族のもとに集積されていた。ここ坪生荘も十二世紀の文書に記録としてその名が見えることから、それ以前に立荘されたと考えられている。坪生荘はその後も漸次荘域を拡大し、岡山県笠岡市篠坂・有田、福山市大門町・引野町・春日町一帯を荘域として、室町時代末頃までは一条家領として存続していた。南北朝時代になると、地頭で南朝方の井出城主、神原氏を隣接する北朝方の竹田荘鼓岡城主であった三吉覚弁が侵略(仁井の合戦)し、神原氏を滅ぼした事をきっかけに荘域は備後坪生荘(備後坪生村・備中篠坂村)、五カ荘(備後大門荘・引野村・能島村・野々浜村・津之下村)、備中坪生荘(備中有田村付近六か村)に分裂し、以後動乱の渦中に巻き込まれていくのである。
昭和五十八年、山陽目動車道建設に伴い、竹ノ下「大塚土居前遺跡」が発掘調査された。その結果からこの遺跡は十六世紀前半から後半の短期間に営まれた有力土豪の館跡であると想定されており、荘官の館跡である可能性は高い。付近には「おつぼうさん」と呼ばれる宝篋印塔や五輪塔群もあり、荘園の開発領主である荘官代々の墓であると言われている。しかし現存しているものは貧弱なものが多いため、立派なものは移転したのでは…、との説もある。
西楽寺と滑池
「おつぼうさん」の前の道から山陽目動車道を越えると「水無瀬山西楽寺」がある。天平年中行基菩薩開基と伝えているが、その真偽はともかく弘安四年(一二八一)、荘官坪生氏の支族である陶山氏により再建されたことが『福山志料』に見え、それ以前に創建されていたのは事実の様である。本堂は昭和の初め、福山市手城町の益本屋土屋家の住宅を移築したもので、江戸末期の庄屋建築の一例として貴重なものである。
西楽寺を過ぎると滑池に出る。対岸には住宅団地が池の端まで迫り堤まで新しく整備されている。その一角に市指定史跡「滑池(なめらいけ)古窯跡」はある。以前よりこのあたりの水辺から布目瓦や土器片が採取されており、調査の結果奈良から平安時代の窯跡であることが確認されている。坪生の町にも開発の波が押し寄せ、町域を山陽自動車道によって二分されるなど変貌著しいが、足を運んでみたくなる史跡の豊かな町である。時間が許せば丘に立って夕日を眺めながらこの町の昔日に思いをはせるのも悪くはない。この町を過ぎるとそこは備中の国、岡山県笠岡市である。
https://bingo-history.net/archives/13471https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/f5828694363029d41ee282df0406ff30.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/f5828694363029d41ee282df0406ff30-150x100.jpg中世史古代史近世近代史「ふるさと探訪」より 山口 哲晶 深津湾 福山駅から井笠バス『坪生行』に乗ると奈良津から旧県道の細い道に入り蔵王町へと向かう。旧道は本来、蔵王町綱木辺りの常夜灯を左手に折れてそのまま蔵王山麓に沿って東に続くのだがバスは新しい県道に入っていく。この辺りは蔵王山麓から南に延びる深津高地の付け根に辺り緩やかな峠となっている。 ここ深津高地は古くは深津島山と呼ばれるように細長い島であった。万葉集の柿本人麻呂の恋の歌にもその風景とともに登場し、織田信長によって都を追われた足利第十五代将軍義昭が毛利氏の庇護の下に鞆に滞在し、豊臣氏と毛利氏の和議成立の成った後、失意のうち泉州の堺に帰るまでの一時期居館を構えていたところでもある。蔀山(しとみやま)と呼ばれる現在稲荷神社の鎮座するあたりの平地がそうだと伝えられている。 深津高地を横切リバスはやがて広い平野ヘと下っていく。この新道の走る平野は江戸時代初めの福山藩の干拓事業によって生まれたもので、それまでは遠浅の海だった。深津高地に上り、平野を眺めればそれと実感できる。古代から港は波静かな湾内に多く見られ、この周辺もまた現在の深津高地が半島状に延び、東の引野町の半島とともに湾を形成しており、いくつかの港が営まれていたところである。それを示すようにこの辺りの港を表わす「津」のついた深津・奈良津・吉津と言う地名にそれを見て取れる。つまリバスはこれから往時海だったところを走って行くわけである。新道はそのまま真っすぐに延びてやがて国道一八二号線とぶつかる。 宮ノ前廃寺と深津市 バスはこのまま一八二号線を越えて東に向かうが少し寄り道をして「広尾」のバス停で下車する。ここまで来ると寄りたい史跡がある。バス停から一八二号線を北にとって行くと右手にJAFが見えて来る。その背後の丘陵中腹に目指定史跡「宮ノ前廃寺」はある。現在蔵王八幡社の境内となっている狭い丘陵を削り東に塔、西に金堂を配した白鳳時代に創建された古代寺院の一つである。 古代寺院はそれまでの古墳に代わって現世利益を願う諸豪族により数多く建立されたが、それは中央集権体制の確立を目指す国家政策一つでもあった。この背景のもとに備後の国にも数多くの古代寺院が建立された。その分布を見てみると備北地域はほぼ一郡に一寺の様相であり、使用された瓦も地方色の強いものに対して、備南地域は古代山陽道を中心として古代寺院が密集し、陸上交通の要衝に分布している。瓦は藤原宮や平城宮で使用された瓦と類似する文様を持つものが多く、畿内との関係の深さを指摘されている。宮ノ前廃寺も出土した瓦の文様から同様に畿内中央との関係の深さを窺わせる。 宮ノ前廃寺の伽藍は右手に塔、左手に金堂を配置する、いわゆる法起寺式の伽藍配置と言われているが、この寺跡からは幾度かの発掘調査によっても講堂等の存在は確認されていない。背後は急傾斜で本殿に続く地形より、当初から建立されなかった可能性も指摘されている。このため法起寺式としても特異な伽藍配置といえる。この寺跡は「塼(せん)」と呼ばれる現代のレンガの様なもので基壇を囲っていた珍しいもので、他に「紀巨和古女」など人名の入った文字瓦も見つかっている。紀氏と言えば古代和歌山辺りを中心に勢力を張っていた有力な豪族で、ここ芦田川下流域にその名を残しているのは興味深い。草戸町にある明工院にも紀氏の名前が見え、紀氏と備後との関係も解き明かしたい謎の一つである。 蔵王町は以前「市村」と呼ばれており、『日本霊異記』という平安時代に書かれた本の中に登場する「深津市」に比定されている町でもある。当時、古代山陽道という陸上交通の要衝に対して、当地は海に面した市という海上交通の一拠点としての性格を持っていたと思われ、その裏付けが宮ノ前廃寺であり深津市であったといえる。 再びバスに乗り一八二号線を横切り東に向かって進む。この辺りも江戸時代までは海だったところである。寛永一九年(一六四二)の干拓事業によって生まれたもので吉田新開と呼ばれている。小林病院から左折して三叉路の信号を右手にとり、再び旧道に入って坪生町へと向かう。道は狭い町筋を抜けるとやがて緩やかな上り坂となっていく。 休石(やすみいし) だらだらと続く坂道を幾度か曲がりながら上ると、峠の頂上に「休石」と刻まれた花同岩製の角柱が目に入ってくる。三〇センチ角、長さはニメートルをゆうに越えるだろうか、石のすぐ脇には枝を広げた本が日陰を作っている。休み石は帝国在郷軍人会春日村分会の人たちの手によって置かれたもの。昭和三年十月のものである。この峠道も当時は狭い山道で福山や坪生に抜ける人たちはみんなこの峠で一息入れたもの。かといって茶店などはなく、せめて…と置かれたのがこの休石と傍に植えられた木であった。私たちもここでひと休みしながら周辺の史跡を見ていくことにしよう。 春日池とその周辺 休石からちょうど南には備後の三大大池の一つ、春日池がある。江戸時代初めの寛永二〇年前後、福山藩による藩営事業として農業用水確保のために築造されたため池である。ちょうど谷の奥まったところ、三方を丘陵に囲まれた平地に堤防を築いて造成された。よく見ると堤防を「く」の字に曲げて水圧を分散させた設計は見事なものである。また、放水路は大石を敷き詰めた堅固なものだったが改修工事により姿を消し、下流にわずかに残っているにすぎない。近年一部が埋め立てられ「春日公園」として開放され多くの家族連れが訪れるようになった。 春日池畔の北側斜面には、山陽自動車道建設に伴う発掘調査で発見された「春日南遺跡」「平松一号遺跡」がある。これらの遺跡からは建物跡や貝塚などが見つかっており中世、室町後半頃の半農半漁を生業とした庶民生活の様子を窺い知ることが出来る。 少し離れるが、春日池から東の丘陵には直径約三〇メートルの円墳「銭神古墳」がある。古墳時代も後期六世紀後半以降のものでこの時期としては比較的規模の大きい墳丘を持っている。内部主体は無袖式の横穴式石室であった。周辺は青葉台の住宅団地として開発されているが、現在公園の一角に保存され見学出来る。この古墳には須恵器という焼き物や金環(耳輪)などが残されていた。 また、谷を隔てた南側、一雇用促進住宅内の一角には「大陰第二号墳」が保存されている。先ほどの銭神古墳に比べれば墳丘は小規模であるが、第一号古墳とともに大陰古墳群を形成していた。発掘調査された第一号古墳は畑地の中にあり、基底部を残しただけで上部は破壊されていた。調査の結果、直径八メートルの円墳で、無袖式の横穴式石室を持つ六世紀後半以降の古墳と考えられている。遺物は須恵器と金環が出土している。この第一号古墳は残念ながら発掘調査後に消滅してしまった。 この辺りの丘陵には以前、数多くの古墳が存在し、その多くは横穴式石室を有した後期群集墳であった。六世紀後半以降の古墳は丘陵などの狭い範囲に直径十数メートルほどの円墳がいくつも造られるのが一般的で、先ほどの古墳もそれらの一部と考えられるが、多くの古墳は開墾、開発などで地上から姿を消し、数基を残すのみとなっている。この辺りには縄文、弥生時代の遺跡は見つかっておらず、これらの古墳の存在からこの辺り一帯は古墳時代から人々が日々の営みを始めたことを物語っている。 さて、再び峠にもどって先に進む。峠を降りきったところ、左手に立派な鳥居と高く上る石段が目にはいる。浦上八幡神社である。この神社は春日町内の神社の中では最も大きいと言われているもので、社殿に上ると春日町一帯が見渡せる。時間が許せば見ておきたいところである。 旧道は再び緩やかに上りながら坪生町との境にさしかかる。 清水山古戦場 ちょうど峠の頂となる左手に厳島神社が鎮座している。この神社でちょうど町境、この先は坪生町である。町内の丘陵の一つに「清水山古戦場」がある。 戦国動乱の世、山口の大内方から出雲尼子方に寝返り「月山富田城の合戦」(天文十一年・一五四二)で大内軍大敗のきっかけを作つたといわれる、神辺城主山名(杉原)理興を攻めるために大内方の攻撃が始まった。世に言う「神辺合戦」(天文十二~十八年・一五四三~一五四九)である。この時大内方の毛利軍は福山市の鞆に前線基地を置き、福山市手城町の「手城山城」を中継基地に引野の諸城を破り坪生町を目指した。いっぽう尼子方理興軍も当時「坪生要害」と呼ばれたここ清水山に陣取り対峙していた。引野、大門方面から攻め上る大内軍はここを突破せねば神辺には進めない地理上の要衝であった。 天文十六年(一五四七)四月二八日、ついに両軍が衝突、相乱れての合戦となった。この時の様子を戦死者数百を越す大戦であったと資料は伝えている。結局は大内方の勝利で終わり、大内軍はさらに神辺城目指して進んで行く。「清水山合戦」と呼ばれるこの戦は、当時「徳寿丸」と呼ばれていた毛利元就の三男、小早川隆景の初陣としても知られている。今は丘陵の小高い山にすぎない清水山だが、昔日多くの血が流された歴史を刻んでいるところでもある。 坪生荘 坪生町は荘園の町である。平安時代も後期、摂関政治にも翳(かげ)りが見え始めた十一世紀以降各地で開発された多くの土地、荘園は中央の有力貴族のもとに集積されていた。ここ坪生荘も十二世紀の文書に記録としてその名が見えることから、それ以前に立荘されたと考えられている。坪生荘はその後も漸次荘域を拡大し、岡山県笠岡市篠坂・有田、福山市大門町・引野町・春日町一帯を荘域として、室町時代末頃までは一条家領として存続していた。南北朝時代になると、地頭で南朝方の井出城主、神原氏を隣接する北朝方の竹田荘鼓岡城主であった三吉覚弁が侵略(仁井の合戦)し、神原氏を滅ぼした事をきっかけに荘域は備後坪生荘(備後坪生村・備中篠坂村)、五カ荘(備後大門荘・引野村・能島村・野々浜村・津之下村)、備中坪生荘(備中有田村付近六か村)に分裂し、以後動乱の渦中に巻き込まれていくのである。 昭和五十八年、山陽目動車道建設に伴い、竹ノ下「大塚土居前遺跡」が発掘調査された。その結果からこの遺跡は十六世紀前半から後半の短期間に営まれた有力土豪の館跡であると想定されており、荘官の館跡である可能性は高い。付近には「おつぼうさん」と呼ばれる宝篋印塔や五輪塔群もあり、荘園の開発領主である荘官代々の墓であると言われている。しかし現存しているものは貧弱なものが多いため、立派なものは移転したのでは…、との説もある。 西楽寺と滑池 「おつぼうさん」の前の道から山陽目動車道を越えると「水無瀬山西楽寺」がある。天平年中行基菩薩開基と伝えているが、その真偽はともかく弘安四年(一二八一)、荘官坪生氏の支族である陶山氏により再建されたことが『福山志料』に見え、それ以前に創建されていたのは事実の様である。本堂は昭和の初め、福山市手城町の益本屋土屋家の住宅を移築したもので、江戸末期の庄屋建築の一例として貴重なものである。 西楽寺を過ぎると滑池に出る。対岸には住宅団地が池の端まで迫り堤まで新しく整備されている。その一角に市指定史跡「滑池(なめらいけ)古窯跡」はある。以前よりこのあたりの水辺から布目瓦や土器片が採取されており、調査の結果奈良から平安時代の窯跡であることが確認されている。坪生の町にも開発の波が押し寄せ、町域を山陽自動車道によって二分されるなど変貌著しいが、足を運んでみたくなる史跡の豊かな町である。時間が許せば丘に立って夕日を眺めながらこの町の昔日に思いをはせるのも悪くはない。この町を過ぎるとそこは備中の国、岡山県笠岡市である。管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会備陽史探訪の会古代史部会では「大人の博物館教室」と題して定期的に勉強会を行っています。
詳しくは以下のリンクをご覧ください。 大人の博物館教室
備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
詳しくは以下のリンクをご覧ください。 中世を読む
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
詳しくは以下のリンクをご覧ください。 近世福山の歴史を学ぶ