1999年5月16日発行
南北朝の争乱の跡を歩く―
井原鉄道を経由して
備中福山城
高梁川東岸の、北に総社平野、山陽道を一望できる、標高302mの福山山頂にあった中世の山城。
山頂には平安時代から山岳仏教が栄え、報恩大師開基と伝わる福山寺があった。寺の建造物を利用して最初に城を構えたのは、鎌倉末期に真壁小六是久といわれる。小六是久の女は幸山城主であった荘資房の母であった。その後、建武2年(1335)荘兼祐が足利氏について城を構えた(備中誌)という。一山12坊を数えたとあり(備中誌)福山合戦の後寺は再建されたが、江戸初期廃寺となった。城跡は昭和11年国の史跡となる…
<目次>
- 周辺地図・行程
- 井原線音頭
- 第3セクター・井原鉄道(株)
- 清音村軽部
- 軽部神社
- 清音山大覚寺
- 備中福山城
- 福山合戦
- 朝原山安養寺
- 資料1 大井(江)田氏経
- 資料2 王子権現
- 資料3 大覚大僧正
- 資料4 報恩
- 資料5 福山城
- 資料6 福山城関係資料
- 資料7 幸山城
- 資料8 佐々木信胤
- 資料9 毘沙門天
- 資料10 南北朝時代前後の皇室系譜
https://bingo-history.net/archives/3123https://bingo-history.net/wp-content/uploads/1999/05/IMG_0002.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/1999/05/IMG_0002-150x100.jpg管理人デジタルライブラリー例会,南北朝時代1999年5月16日発行
南北朝の争乱の跡を歩く―
井原鉄道を経由して 備中福山城 高梁川東岸の、北に総社平野、山陽道を一望できる、標高302mの福山山頂にあった中世の山城。 山頂には平安時代から山岳仏教が栄え、報恩大師開基と伝わる福山寺があった。寺の建造物を利用して最初に城を構えたのは、鎌倉末期に真壁小六是久といわれる。小六是久の女は幸山城主であった荘資房の母であった。その後、建武2年(1335)荘兼祐が足利氏について城を構えた(備中誌)という。一山12坊を数えたとあり(備中誌)福山合戦の後寺は再建されたが、江戸初期廃寺となった。城跡は昭和11年国の史跡となる… <目次> 周辺地図・行程
井原線音頭
第3セクター・井原鉄道(株)
清音村軽部
軽部神社
清音山大覚寺
備中福山城
福山合戦
朝原山安養寺
資料1 大井(江)田氏経
資料2 王子権現
資料3 大覚大僧正
資料4 報恩
資料5 福山城
資料6 福山城関係資料
資料7 幸山城
資料8 佐々木信胤
資料9 毘沙門天
資料10 南北朝時代前後の皇室系譜 備中福山城と古刹を訪ねて管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会