水野十郎左衛門の灯籠

備陽史探訪:189号」より

根岸 尚克

北吉津町妙政寺の水野家二代藩主勝俊の墓前の左右に灯籠がある。右側のものは勝俊の甥の水野十郎左衛門成之の奉納したものであり、この人こそ慶安から寛文にかけてかぶき者として江戸市中を暴れ回り町奴まちやっこと諍いを起こし歌舞伎でも取上げられた旗本奴の一団の首領であった。

水野十郎左衛門の灯籠
水野勝俊の墓を十郎左衛門の灯籠(右側)「水野十郎左衛門」と刻まれている。

水野十郎左衛門 いみな成之 通称百助後十郎左衛門 父は勝成の三男成貞 母は阿波蜂須賀至鎮よししげの女譜代でも名門である。父成貞は旗本として家を興し知行三千石、致仕後は寄合となり慶安三年(一六五〇)没。(寄合とは三千石以上の旗本の無役の者を言い、寄合組に編入され夫役ぶやくにより寄合金を納めた。)成之は同年十一月跡目を継ぎ、翌年八月八日家綱に謁した。父成貞も若年の頃は歌舞伎(傾き)者として知られ大小神祗組の首領として江戸市中を横行した。集団には白柄組、土屋組、六方組等があった。傾き者とは異様な風体で大道を横行する者の事で伊達者とも言う。袴に動物の皮を張ったり着物をマント風に羽織ったり奇抜な髪型をし徒党を組み乱暴狼藉を働いた。江戸京都等都市部で流行した。

水野家系譜

勝成━┳━勝俊━━勝貞━━勝種━━勝岑
   ┣━成言
   ┣━成貞━━成之(十郎左衛門)
   ┣━忠丘
   ┣━勝信
   ┣━勝則
   ┗━勝忠━━勝尚━━勝長
            (結城水野家初代)

明暦三年(一六五七)七月十八日十郎左衛門自ら町奉行所に赴いて、口入れ屋の親分であった幡随院長兵衛を切り殺した事について断りを入れた。口入れ屋とは、奉公口や金銭貸借の斡旋仲介等を職業とする者で、武家の下働きや商家の女中等に対応した。

それによると長兵衛が当日水野の屋敷へやって来て、本日遊女町へ参るから殿も参られ度いと勧めた。十郎左衛門は隙がないので行かないと断ると、少し隙が行っても参られ度い卒爾そつじの事は致しますまいからと十郎左衛門が臆したかの様な言を吐いたので、慮外の申し条とて切り捨てた。奉行所では切り捨て御免として咎めなかった。然しその後も無頼の行為を重ね、幕府は「病と称して出仕を怠り乍ら市中に出て不法の所行あり、将軍家が不届きに思し召され(寛政重修諸家譜)」として寛文四年(一六六四)三月二十六日評定所に召出し、母の蜂須賀家預けを命じ様として折、成之は髪も結ばず袴も付けず白衣で出頭、之が評定所の怒りを買い無作法不敬の罪で翌日切腹、二歳になる長子も斬罪、娘と弟は蜂須賀家預けとなり絶家となる。弟の忠丘は後許されて別家を立てた。

成之は腹を切る時、予て切れ味を試し度いと思っていた刀を取り寄せ腹に突き立て成る程良く切れ申すと言って果てたと伝えられる。その後の七月二十二日幕府は傾き者の禁令を出している。すなわち、傾き者と称する遊侠の徒が異様な髪型や髯をして草履取のやっこに絹布の襟・袖・帯等をさせて徘徊するのを禁止した。長兵衛事件を踏まえての事である。

他の説もある。それに拠ると、十郎左衛門がかつて長兵衛と鞘当の口論をした時に、長兵衛は十郎左衛門を取って投げ散々に打擲ちょうちゃくして逃げた。十郎左衛門は無念に思い後日を待つうち馬上で通る長兵衛に会った。長兵衛は「先日の恥辱さぞ口悔しかろう」と悪態を付いて通り過ぎた。尋常では叶わないので十郎左衛門は仲人を立て長兵衛に詫びを言って和解を申し入れ自宅へ招いた。長兵衛の一家では危いからと引き止めたが、長兵衛は覚悟の上である。旗本が和解をしようと言うのを行かないと臆したと言われると言って出掛けた。十郎左衛門は酒肴の馳走をし風呂を勧めた。十郎左衛門の屋敷にはたんたら拍子の忠助等の剛の者が居て、無防備の長兵衛を搦め取り十郎左衛門が胴切にした(校合雑記きょうごうざっき)。死体を受け取りに来る様に知らせを受けた長兵衛の家では子分が一人で座棺を背負って死ぬのを覚悟で十郎左衛門の屋敷に乗り込むと言う話になっている。これは歌舞伎での事である。

その後も水野家では自家の四人の用人を綱・金時・定光・季武と名付け、吉原、堺町、木挽町の茶屋・風呂屋を徘徊して喧嘩を仕掛け諸人を苦しめ、日夜遊興に耽っていたが、長兵衛を闇討ちしたので三千石の旗本に似合わしくないと世人に謗られた。その後の生活も放埓ほうらつを極めていたので切腹となった。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/04/8b237f66e262afec65172c84e1081773-1024x543.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/04/8b237f66e262afec65172c84e1081773-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:189号」より 根岸 尚克 北吉津町妙政寺の水野家二代藩主勝俊の墓前の左右に灯籠がある。右側のものは勝俊の甥の水野十郎左衛門成之の奉納したものであり、この人こそ慶安から寛文にかけて傾(かぶ)き者として江戸市中を暴れ回り町奴(まちやっこ)と諍いを起こし歌舞伎でも取上げられた旗本奴の一団の首領であった。 水野十郎左衛門 諱(いみな)は成之 通称百助後十郎左衛門 父は勝成の三男成貞 母は阿波蜂須賀至鎮(よししげ)の女譜代でも名門である。父成貞は旗本として家を興し知行三千石、致仕後は寄合となり慶安三年(一六五〇)没。(寄合とは三千石以上の旗本の無役の者を言い、寄合組に編入され夫役(ぶやく)により寄合金を納めた。)成之は同年十一月跡目を継ぎ、翌年八月八日家綱に謁した。父成貞も若年の頃は歌舞伎(傾き)者として知られ大小神祗組の首領として江戸市中を横行した。集団には白柄組、土屋組、六方組等があった。傾き者とは異様な風体で大道を横行する者の事で伊達者とも言う。袴に動物の皮を張ったり着物をマント風に羽織ったり奇抜な髪型をし徒党を組み乱暴狼藉を働いた。江戸京都等都市部で流行した。 水野家系譜 勝成━┳━勝俊━━勝貞━━勝種━━勝岑    ┣━成言    ┣━成貞━━成之(十郎左衛門)    ┣━忠丘    ┣━勝信    ┣━勝則    ┗━勝忠━━勝尚━━勝長             (結城水野家初代) 明暦三年(一六五七)七月十八日十郎左衛門自ら町奉行所に赴いて、口入れ屋の親分であった幡随院長兵衛を切り殺した事について断りを入れた。口入れ屋とは、奉公口や金銭貸借の斡旋仲介等を職業とする者で、武家の下働きや商家の女中等に対応した。 それによると長兵衛が当日水野の屋敷へやって来て、本日遊女町へ参るから殿も参られ度いと勧めた。十郎左衛門は隙がないので行かないと断ると、少し隙が行っても参られ度い卒爾(そつじ)の事は致しますまいからと十郎左衛門が臆したかの様な言を吐いたので、慮外の申し条とて切り捨てた。奉行所では切り捨て御免として咎めなかった。然しその後も無頼の行為を重ね、幕府は「病と称して出仕を怠り乍ら市中に出て不法の所行あり、将軍家が不届きに思し召され(寛政重修諸家譜)」として寛文四年(一六六四)三月二十六日評定所に召出し、母の蜂須賀家預けを命じ様として折、成之は髪も結ばず袴も付けず白衣で出頭、之が評定所の怒りを買い無作法不敬の罪で翌日切腹、二歳になる長子も斬罪、娘と弟は蜂須賀家預けとなり絶家となる。弟の忠丘は後許されて別家を立てた。 成之は腹を切る時、予て切れ味を試し度いと思っていた刀を取り寄せ腹に突き立て成る程良く切れ申すと言って果てたと伝えられる。その後の七月二十二日幕府は傾き者の禁令を出している。すなわち、傾き者と称する遊侠の徒が異様な髪型や髯をして草履取の奴(やっこ)に絹布の襟・袖・帯等をさせて徘徊するのを禁止した。長兵衛事件を踏まえての事である。 他の説もある。それに拠ると、十郎左衛門がかつて長兵衛と鞘当の口論をした時に、長兵衛は十郎左衛門を取って投げ散々に打擲(ちょうちゃく)して逃げた。十郎左衛門は無念に思い後日を待つうち馬上で通る長兵衛に会った。長兵衛は「先日の恥辱さぞ口悔しかろう」と悪態を付いて通り過ぎた。尋常では叶わないので十郎左衛門は仲人を立て長兵衛に詫びを言って和解を申し入れ自宅へ招いた。長兵衛の一家では危いからと引き止めたが、長兵衛は覚悟の上である。旗本が和解をしようと言うのを行かないと臆したと言われると言って出掛けた。十郎左衛門は酒肴の馳走をし風呂を勧めた。十郎左衛門の屋敷にはたんたら拍子の忠助等の剛の者が居て、無防備の長兵衛を搦め取り十郎左衛門が胴切にした(校合雑記(きょうごうざっき))。死体を受け取りに来る様に知らせを受けた長兵衛の家では子分が一人で座棺を背負って死ぬのを覚悟で十郎左衛門の屋敷に乗り込むと言う話になっている。これは歌舞伎での事である。 その後も水野家では自家の四人の用人を綱・金時・定光・季武と名付け、吉原、堺町、木挽町の茶屋・風呂屋を徘徊して喧嘩を仕掛け諸人を苦しめ、日夜遊興に耽っていたが、長兵衛を闇討ちしたので三千石の旗本に似合わしくないと世人に謗られた。その後の生活も放埓(ほうらつ)を極めていたので切腹となった。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
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