村上水軍と歌島の砦(尾道市向島)
「備陽史探訪:83号」より
柿本 光明
城郭を築くとき山岳を利用したときを山城といい、平野に臨む丘陵を利用したときも平山城と呼ばれる。山城は大化改新のころから、平安・鎌倉時代を通じてよくみられた。このころは平常の居館とは別に天険を利用した戦時の山城が築かれていたが、平城系統の居館と高い山城とは次第に接近し、近世初頭にいたると大規模な平山城の出現をみるようになった。
(日本史小辞典より)
向島古跡めぐり
一、玉の浦わの向島
廻れば七里七の浦
神武のみかどのむかしより
ゆきかう船も真帆片帆
鏡の海に浮かび出て
ゆかりも遠し三千年
四、白砂老松うつろえる
浦浜明神岩子島
旭将軍義仲の
忘れ形身の義重が
覚明どのに連れられて
隠住居の川尻郷
五、大町、余崎、小歌島城
とりでも多き浮島の
いにしえ事をしのばるる
加島、海物両園は
世にも聞こえし庭という
今は昔の名残のみ
(二、三、六を略す)
この「向島古蹟めぐり」にも、うたわれているように古城の趾やとりでなども沢山ある。
尾道駅前のフェリー乗場より海を隔てこんもりと樹々におおわれた小島が見える。これが小歌島(オカジマ)である。一衣帯水の小島といおうか、昔向島を歌島と称したのに対しこの島を小歌島といい通称岡島とも書く。昭和初期までは周囲六〇〇Mで全島樹木うつ蒼としていたが、明治初年伐採し、桜、梨、桃などを植え、春は百花欄慢、尾道港に入港する船の案内に自亜の灯台も設けられていたこともある。
戦国の時代この島も村上氏の領域の内にあったので当時、城の守護神として宇迦神を祀ったという。今では正殿一間四方、拝殿桁行二間、梁一間半の弁財天と俗称している。
『芸藩通志』『芸備古跡志』『六郡志』『芸備叢書』などなど、みな村上治部少輔とその子又三郎吉満二代の城であるというも『御調郡史』には、村上治部少輔勘安、同又三郎吉満、同又次郎吉秋、河村摂津守影秀(明徳二年伯州より来たりて居城す)の居城趾であり、永い問居城したものと考えられる。この推定によると小歌島城の創始は明徳辛未年(一三九一)で河村影秀が伯耆国から来てから築城したものとみられるも当時の記録は見当たらない。その後久しく廃城となっていたが天文二二年丑年(一五五三)秋、村上又三郎義満の海城として居城したに始まり文禄年間(一五九四頃)防州に去るまで約四〇余年間村上氏の居城であった。もともと村上氏は義弘のころから因島中庄青影城に居城し、その全盛時代には海賊の大将軍として朝鮮、中国などをたびたびおそったことは衆知のことであるが、正長のころから能島、来島の二族と共に瀬戸内海の三村上として倭魁の巨星として勢力をふるっていた。
この全盛時代に小歌島・余崎の各城に兵を配し尾道水道は小歌島城、和布刈瀬戸(メカリセト)を余崎城に見張りをさせていた。
弘治元年(一五五五)毛利元就に属して船舶数百隻を引き連れ一夜の内に毛利勢を本土から厳島に渡し水軍としてもよく奮戦し、元就から天下の義軍として褒賞されたという。この時代小歌島城、余崎城の兵士も戦いに臨み船手として大いに活躍したものであろう。
弘治元年卯月七日附村上吉充は小早川隆景より向島一円を所領地として与えられて書状次の通り
向島一円之事任承旨致同心候以宇賀島一着之上可有御進退候神も御照覧候へ不可有相違候、弥御入魂此節候恐々謹言、
(弘治元年)卯月十日
小歌島の北の歌島(向島)で最高峰高見山(三〇〇M)の南東に突出た峰といおうか岬がある。現在は古木のうつ蒼として原始林のようにみえるが、この山頂に一社あり国常大明神を祠り国津神社と称するという。
天文年代村上氏が因島・能島。来島の三島に拠り、小早川隆景を統帥として威を瀬戸内海に振るった。村上新左衛門尉義光は、ますます東西交通の盛んな布刈瀬戸航路の見張所として天文年中にこの余崎の地に城を築かせた。小歌島城は尾道水道の見張り所として天文二二年に築いたというから余崎城はこれより以前天文初年の頃だと思われる。
この城の菩提寺として金蓮寺を建立したと伝えられているが、後に因島中庄に移されたという。これが今因島中庄青景城の下にある金蓮寺である。
つまり、村上新左衛門尉義光は因島重井の青木城に移るが木頃石見守経兼に不意討せられ、元尾道吉和の鳴滝山城主、宮地兵部少輔恒躬の子・大炊亮明光の次男家長・因島村上氏にたより、氏名村上を名乗り、後に鳥居家を継ぎ、島居次郎資長と改めたあとこの余崎城城主となった(現在尾道光明寺にある県重文、波切り観音像は船の舶(へさき)に祀られていたものを鳥居家が寄進したものである。)
その後、毛利氏が長州に去ったので廃城されたが、浅野氏が国主になってからこの地を遠見御番所として受け継がれた。
余崎城趾より海岸線ぞいに約四km東に行くと西ヶ丸城趾に辿りつく、西ヶ丸城趾(別名古原城、大町城)は尾道市向東町字大町にあり、元弘元年未年の秋(一三三一)京都加茂斎院次官藤原親章の祖がこの地方を荘園地としていたため杉原氏を頼って大町山に隠城をつくらせたという。田村、秋長の輩士に命じ翌申年五月に出来上がったが藤原親章、大塔宮内窓隠謀により捕えられるを恐れ入道親行と称してこの城に隠棲し、康永二未年六月二一日七四才を以って死去したと伝えられている。
その子藤原親清は足利尊氏に追われ山県の南方城に入り観應二卯年五月猿喰城合戦にて討死する。その子安親は本郷城を築き数代栄えたが明応八未年三月芸州銀山城の城主武田氏と隙を生じ追われて再び権現山城主杉原広盛を頼ってこの西ヶ丸城に入り、その子親冬は各地に転戦、その軍功はおびただしかったが、杉原氏の衰運、渋川氏が尾道吉和の鳴滝城にあってこの歌島を領すると、西ヶ丸城は杉原氏と縁故であるを知ってことごとに圧迫を受けた。しかし、その子豊後守元親、小早川氏を通じて大内氏の助けを得て、世羅郡内に杉山城を築いて移りこの地に一族を留めたと伝えられ、この城趾を中心に吉原氏を名乗るものが多い。なお藤原親章はこの西ヶ丸城を築城すると共にこの地に小祠を建て鉾を献納故事にならって祀り、この神をもって城の守護神とした。
社殿を大いに修築し、神領まで附し現在は艮神社と称してこの地(大町)を吉原氏は崇拝している。また西ヶ丸城(大町城)の出城として向島干汐に旧御台場の地としてあてられていた所もある。
西ヶ丸城(大町城)趾から海岸沿いに四kmほど東に行くと尾道市古江浜という所につく、この古江浜の南東端に如法崎城趾がある。
毛利氏の旗下、小田小次郎景盛が築城したもので、天正二年景盛は伊予松山城攻めに参加し、その後讃州にも出陣するなど出陣するといつも戦功ありて小早川隆景より感謝状八通も受けたという。その後この地を去ったが一族の者どもをこの地に止めた後に小田原の氏を名乗らせたという、この地区には小田原を称するものが多い。
このほかにも、向東町の三石城趾、九山城趾、伝馬ヶ岡(向東町字矢立荒神山の西方の丘陵)で、近海を通航する船に対し通行税を徴収するためにこの地より伝馬船が出たという。
瀬戸内海や北九州の豪族達は「八幡大菩薩」の旗をかかげていたので「ばはん船」ともいわれ「倭冦」とよばれていた。倭冦の略奪は、一三世紀末から一四世紀(鎌倉時代末〜南北朝争乱期)を前期倭冦といい一五世紀末より一六世紀(戦国時代)の倭冦を後期倭冦といった。
はじめは朝鮮半島の南部沿岸をあらし、しだいに中国大陸に移った。規模二~三隻から多いときには二〇〇隻、五〇〇隻にもおよんだという。かれらは馬の代わりに船に乗った武士であると誇っていたという。
因島の村上水軍もこの向島だけでもこのくらい城を造って運行税の徴収をしていたので「八幡大菩薩」の旗をひるがえしながら海外でも活躍したことであろう。
https://bingo-history.net/archives/13087https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/661b58aede7e331e2693cc313a36aeb6.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/661b58aede7e331e2693cc313a36aeb6-150x100.jpg中世史「備陽史探訪:83号」より 柿本 光明 城郭を築くとき山岳を利用したときを山城といい、平野に臨む丘陵を利用したときも平山城と呼ばれる。山城は大化改新のころから、平安・鎌倉時代を通じてよくみられた。このころは平常の居館とは別に天険を利用した戦時の山城が築かれていたが、平城系統の居館と高い山城とは次第に接近し、近世初頭にいたると大規模な平山城の出現をみるようになった。 (日本史小辞典より) 向島古跡めぐり 一、玉の浦わの向島 廻れば七里七の浦 神武のみかどのむかしより ゆきかう船も真帆片帆 鏡の海に浮かび出て ゆかりも遠し三千年 四、白砂老松うつろえる 浦浜明神岩子島 旭将軍義仲の 忘れ形身の義重が 覚明どのに連れられて 隠住居の川尻郷 五、大町、余崎、小歌島城 とりでも多き浮島の いにしえ事をしのばるる 加島、海物両園は 世にも聞こえし庭という 今は昔の名残のみ (二、三、六を略す) この「向島古蹟めぐり」にも、うたわれているように古城の趾やとりでなども沢山ある。 尾道駅前のフェリー乗場より海を隔てこんもりと樹々におおわれた小島が見える。これが小歌島(オカジマ)である。一衣帯水の小島といおうか、昔向島を歌島と称したのに対しこの島を小歌島といい通称岡島とも書く。昭和初期までは周囲六〇〇Mで全島樹木うつ蒼としていたが、明治初年伐採し、桜、梨、桃などを植え、春は百花欄慢、尾道港に入港する船の案内に自亜の灯台も設けられていたこともある。 戦国の時代この島も村上氏の領域の内にあったので当時、城の守護神として宇迦神を祀ったという。今では正殿一間四方、拝殿桁行二間、梁一間半の弁財天と俗称している。 『芸藩通志』『芸備古跡志』『六郡志』『芸備叢書』などなど、みな村上治部少輔とその子又三郎吉満二代の城であるというも『御調郡史』には、村上治部少輔勘安、同又三郎吉満、同又次郎吉秋、河村摂津守影秀(明徳二年伯州より来たりて居城す)の居城趾であり、永い問居城したものと考えられる。この推定によると小歌島城の創始は明徳辛未年(一三九一)で河村影秀が伯耆国から来てから築城したものとみられるも当時の記録は見当たらない。その後久しく廃城となっていたが天文二二年丑年(一五五三)秋、村上又三郎義満の海城として居城したに始まり文禄年間(一五九四頃)防州に去るまで約四〇余年間村上氏の居城であった。もともと村上氏は義弘のころから因島中庄青影城に居城し、その全盛時代には海賊の大将軍として朝鮮、中国などをたびたびおそったことは衆知のことであるが、正長のころから能島、来島の二族と共に瀬戸内海の三村上として倭魁の巨星として勢力をふるっていた。 この全盛時代に小歌島・余崎の各城に兵を配し尾道水道は小歌島城、和布刈瀬戸(メカリセト)を余崎城に見張りをさせていた。 弘治元年(一五五五)毛利元就に属して船舶数百隻を引き連れ一夜の内に毛利勢を本土から厳島に渡し水軍としてもよく奮戦し、元就から天下の義軍として褒賞されたという。この時代小歌島城、余崎城の兵士も戦いに臨み船手として大いに活躍したものであろう。 弘治元年卯月七日附村上吉充は小早川隆景より向島一円を所領地として与えられて書状次の通り 向島一円之事任承旨致同心候以宇賀島一着之上可有御進退候神も御照覧候へ不可有相違候、弥御入魂此節候恐々謹言、 (弘治元年)卯月十日 小歌島の北の歌島(向島)で最高峰高見山(三〇〇M)の南東に突出た峰といおうか岬がある。現在は古木のうつ蒼として原始林のようにみえるが、この山頂に一社あり国常大明神を祠り国津神社と称するという。 天文年代村上氏が因島・能島。来島の三島に拠り、小早川隆景を統帥として威を瀬戸内海に振るった。村上新左衛門尉義光は、ますます東西交通の盛んな布刈瀬戸航路の見張所として天文年中にこの余崎の地に城を築かせた。小歌島城は尾道水道の見張り所として天文二二年に築いたというから余崎城はこれより以前天文初年の頃だと思われる。 この城の菩提寺として金蓮寺を建立したと伝えられているが、後に因島中庄に移されたという。これが今因島中庄青景城の下にある金蓮寺である。 つまり、村上新左衛門尉義光は因島重井の青木城に移るが木頃石見守経兼に不意討せられ、元尾道吉和の鳴滝山城主、宮地兵部少輔恒躬の子・大炊亮明光の次男家長・因島村上氏にたより、氏名村上を名乗り、後に鳥居家を継ぎ、島居次郎資長と改めたあとこの余崎城城主となった(現在尾道光明寺にある県重文、波切り観音像は船の舶(へさき)に祀られていたものを鳥居家が寄進したものである。) その後、毛利氏が長州に去ったので廃城されたが、浅野氏が国主になってからこの地を遠見御番所として受け継がれた。 余崎城趾より海岸線ぞいに約四km東に行くと西ヶ丸城趾に辿りつく、西ヶ丸城趾(別名古原城、大町城)は尾道市向東町字大町にあり、元弘元年未年の秋(一三三一)京都加茂斎院次官藤原親章の祖がこの地方を荘園地としていたため杉原氏を頼って大町山に隠城をつくらせたという。田村、秋長の輩士に命じ翌申年五月に出来上がったが藤原親章、大塔宮内窓隠謀により捕えられるを恐れ入道親行と称してこの城に隠棲し、康永二未年六月二一日七四才を以って死去したと伝えられている。 その子藤原親清は足利尊氏に追われ山県の南方城に入り観應二卯年五月猿喰城合戦にて討死する。その子安親は本郷城を築き数代栄えたが明応八未年三月芸州銀山城の城主武田氏と隙を生じ追われて再び権現山城主杉原広盛を頼ってこの西ヶ丸城に入り、その子親冬は各地に転戦、その軍功はおびただしかったが、杉原氏の衰運、渋川氏が尾道吉和の鳴滝城にあってこの歌島を領すると、西ヶ丸城は杉原氏と縁故であるを知ってことごとに圧迫を受けた。しかし、その子豊後守元親、小早川氏を通じて大内氏の助けを得て、世羅郡内に杉山城を築いて移りこの地に一族を留めたと伝えられ、この城趾を中心に吉原氏を名乗るものが多い。なお藤原親章はこの西ヶ丸城を築城すると共にこの地に小祠を建て鉾を献納故事にならって祀り、この神をもって城の守護神とした。 社殿を大いに修築し、神領まで附し現在は艮神社と称してこの地(大町)を吉原氏は崇拝している。また西ヶ丸城(大町城)の出城として向島干汐に旧御台場の地としてあてられていた所もある。 西ヶ丸城(大町城)趾から海岸沿いに四kmほど東に行くと尾道市古江浜という所につく、この古江浜の南東端に如法崎城趾がある。 毛利氏の旗下、小田小次郎景盛が築城したもので、天正二年景盛は伊予松山城攻めに参加し、その後讃州にも出陣するなど出陣するといつも戦功ありて小早川隆景より感謝状八通も受けたという。その後この地を去ったが一族の者どもをこの地に止めた後に小田原の氏を名乗らせたという、この地区には小田原を称するものが多い。 このほかにも、向東町の三石城趾、九山城趾、伝馬ヶ岡(向東町字矢立荒神山の西方の丘陵)で、近海を通航する船に対し通行税を徴収するためにこの地より伝馬船が出たという。 瀬戸内海や北九州の豪族達は「八幡大菩薩」の旗をかかげていたので「ばはん船」ともいわれ「倭冦」とよばれていた。倭冦の略奪は、一三世紀末から一四世紀(鎌倉時代末〜南北朝争乱期)を前期倭冦といい一五世紀末より一六世紀(戦国時代)の倭冦を後期倭冦といった。 はじめは朝鮮半島の南部沿岸をあらし、しだいに中国大陸に移った。規模二~三隻から多いときには二〇〇隻、五〇〇隻にもおよんだという。かれらは馬の代わりに船に乗った武士であると誇っていたという。 因島の村上水軍もこの向島だけでもこのくらい城を造って運行税の徴収をしていたので「八幡大菩薩」の旗をひるがえしながら海外でも活躍したことであろう。管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
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