桜山城跡(福山市新市町大字宮内)

福山の遺跡一〇〇選」より

杉原 道彦

手前横に広がる桜山城跡
手前横に広がる桜山城跡

福塩線の新市駅前を北へ、備後一宮の吉備津神社に向けて行くと新市中央中学校に入る信号を左折し、中興寺の境内に入る。この寺の背後の山一帯が、桜山城跡である。

城跡は、吉備津神社の西に位置し、別名一宮城という。中興寺は、桜山城ゆかりの桜山慈俊の本像を残す宮氏の菩提寺である。寺の西に平坦地があり、土師質土器が出土している。ここが、城主の平時の住いの居館跡である。今の本堂は、この一部を掘り下げて造られている。寺の墓地の尾根筋に上がると、地山を削った平坦地を確認できる。頂上は、長さ五Omの主郭と、北に櫓台の跡が残る。そして一段下げて東西と北に曲輪を設けている。要所には、空堀を設け比高は五〇mを数え、容易に攻め上ることはできない。

桜山城の谷を隔て、備後一宮の背後には、鳶尾(とびのお)城跡が、一際高くそびえている。府中市広谷町と新市町宮内の尾根上に城は、築かれている。広谷観音から北に延びた、だらだら道に所々平坦な部分が四〇〇mほど続いている。比高は、一二〇mで眺望は開け、神石郡や府中の八尾城など東西南北すべてを見通すことができる。高所にあり、加工の跡が少ないことから南北朝期の山城に見られる特徴を残している。元弘の変の合戦にある桜山城は、この鳶尾城を指しているのかも知れない。

正中の変(一三二四年)は、後醍醐天皇が鎌倉幕府の北条氏討伐を企てたが失敗におわり、元弘の変(一三三一)でも二回目の挙兵は失敗した。後醍醐天皇は、元弘二(一三三二)年に隠岐に流された。河内国の楠木正成とともに備後国の桜山四郎入道慈俊は、天皇方として挙兵している。この桜山氏は、備後一宮を中心に桜山城や鳶尾城と南に拡がる亀寿山城を本拠とした宮一族と考えられている。

『太平記』によると、一時は備後半国を従え、安芸や備中にも進出する勢いであったが、楠木正成の赤坂城が落城したことが伝えられると味方の多くが離散し、元弘二年に備後一宮の社殿に火を放ち一族郎党二〇数名が自刃している。

『桜山朝臣詳伝』には、桜山慈俊は、備後北部の北条党討伐のため嫡子平太郎盛重を大将に、家老で常の日隈城主の日隈若狭守元政とともに、神石郡の御殿山城を拠点に備中平川辺りの北条党を攻めている。その後、形勢が変わり日隈城では、神石郡から敗退した椙原筑前守高平らと城に立てこもり防戦した。北条党の山内奴可等は、安井村の本陣に兵三千、戸手の天王社に兵八百を置き夜明けから桜山城に攻め込んでいる。桜山城の慈俊は少しも騒がず六百の城兵で敵が城に近づくのを待って一度に狭間を開き、仰いで攻める敵兵の頭上に大木や大石を雨あられと落とし、遠くは射落とし、激戦は午の刻(午後一時ころ)まで続いた。寄せ手の死傷者は夥しく、城兵は打って出て乱戦となった。寄せ手は神谷川を渡り一旦退いており、この当時の激戦を物語っている。

【桜山城跡】

 

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/04/62a6dfa114c23bef7ec9558b342dbae6.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/04/62a6dfa114c23bef7ec9558b342dbae6-150x100.jpg管理人中世史「福山の遺跡一〇〇選」より 杉原 道彦 福塩線の新市駅前を北へ、備後一宮の吉備津神社に向けて行くと新市中央中学校に入る信号を左折し、中興寺の境内に入る。この寺の背後の山一帯が、桜山城跡である。 城跡は、吉備津神社の西に位置し、別名一宮城という。中興寺は、桜山城ゆかりの桜山慈俊の本像を残す宮氏の菩提寺である。寺の西に平坦地があり、土師質土器が出土している。ここが、城主の平時の住いの居館跡である。今の本堂は、この一部を掘り下げて造られている。寺の墓地の尾根筋に上がると、地山を削った平坦地を確認できる。頂上は、長さ五Omの主郭と、北に櫓台の跡が残る。そして一段下げて東西と北に曲輪を設けている。要所には、空堀を設け比高は五〇mを数え、容易に攻め上ることはできない。 桜山城の谷を隔て、備後一宮の背後には、鳶尾(とびのお)城跡が、一際高くそびえている。府中市広谷町と新市町宮内の尾根上に城は、築かれている。広谷観音から北に延びた、だらだら道に所々平坦な部分が四〇〇mほど続いている。比高は、一二〇mで眺望は開け、神石郡や府中の八尾城など東西南北すべてを見通すことができる。高所にあり、加工の跡が少ないことから南北朝期の山城に見られる特徴を残している。元弘の変の合戦にある桜山城は、この鳶尾城を指しているのかも知れない。 正中の変(一三二四年)は、後醍醐天皇が鎌倉幕府の北条氏討伐を企てたが失敗におわり、元弘の変(一三三一)でも二回目の挙兵は失敗した。後醍醐天皇は、元弘二(一三三二)年に隠岐に流された。河内国の楠木正成とともに備後国の桜山四郎入道慈俊は、天皇方として挙兵している。この桜山氏は、備後一宮を中心に桜山城や鳶尾城と南に拡がる亀寿山城を本拠とした宮一族と考えられている。 『太平記』によると、一時は備後半国を従え、安芸や備中にも進出する勢いであったが、楠木正成の赤坂城が落城したことが伝えられると味方の多くが離散し、元弘二年に備後一宮の社殿に火を放ち一族郎党二〇数名が自刃している。 『桜山朝臣詳伝』には、桜山慈俊は、備後北部の北条党討伐のため嫡子平太郎盛重を大将に、家老で常の日隈城主の日隈若狭守元政とともに、神石郡の御殿山城を拠点に備中平川辺りの北条党を攻めている。その後、形勢が変わり日隈城では、神石郡から敗退した椙原筑前守高平らと城に立てこもり防戦した。北条党の山内奴可等は、安井村の本陣に兵三千、戸手の天王社に兵八百を置き夜明けから桜山城に攻め込んでいる。桜山城の慈俊は少しも騒がず六百の城兵で敵が城に近づくのを待って一度に狭間を開き、仰いで攻める敵兵の頭上に大木や大石を雨あられと落とし、遠くは射落とし、激戦は午の刻(午後一時ころ)まで続いた。寄せ手の死傷者は夥しく、城兵は打って出て乱戦となった。寄せ手は神谷川を渡り一旦退いており、この当時の激戦を物語っている。 【桜山城跡】  備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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