「福山の遺跡一〇〇選」より
篠原 芳秀
福山市草戸町に所在する。福山城から西方に見える山塊の小高いところに明王院があり、遺跡はその眼下に位置している。自家用車で行く場合は、芦田川に架かる国道二号線の神島橋の西詰め交差点から南へ約一km下ると、明王院と草戸稲荷神社の駐車場があるので、ここに駐車させていただき、これらに参拝してから遺跡を訪ねよう。明王院には草戸千軒町遺跡が栄えたころに建てられた国宝の本堂や五重塔があり、後述する芦田川改修工事で発見された石製塔婆類も移し置かれている。また、すぐ北側の草戸稲荷神社も草戸千軒町遺跡と深い関わりをもっている。なお、JR福山駅前からは鞆鉄バスの鞆行きがあり、草戸大橋バス停で下車する。この草戸大橋の下あたりでもかつて木製の井戸枠が確認されており、遺跡は北約一kmにある明王院の門前からこの付近まで広がっていたものと考えられている。
大正一五(一九二六)年から始められたこの周辺の芦田川改修工事では、石製塔婆類や古銭塊、陶磁器類などが多量に発見され、中世の町が、埋もれていることが知られるようになった。その後、遺跡のうち、川底となった区域は流水や潮の干満によって掘り下げられ、ところどころに上流からの砂が堆積して中州ができた。
発掘調査は、この中州を中心に昭和三六(一九六一)年から平成六(一九九四)年まで実施され、その後も河川敷や土手において橋脚を造る際に、確認調査が行われている。これらによって、建物、塀、柵、井戸、土坑、道、溝、堀、墓などの道構が検出されるとともに、椀・皿などの土器、碗・鉢・甕などの陶磁器、土錘・ふいごの羽口などの土製品、砥石・塔婆などの石製品、鋸・古銭などの金属製品、箸・木簡・漆器などの木製品、さいころ・双六の駒などの骨角製品、魚骨・種子などの動植物遺体が多量に掘り出された。
そして、検出した遺構や出土した遺物、古文書などの研究から、この遺跡が鎌倉時代の一三世紀中ごろから室町時代の一六世紀初頭まで続いていた港町・市場町であったこととともに、町の構造や、町が幾度か作り変えられていたこと、さらに、人々の生活の様子や、商人・漆職人・鍛冶職人・番匠・漁師などが生業を営んでいたこと、国内はもとより東アジアまで広がる流通のことなどがしだいに明らかにされてきた。これらの成果については、JR福山駅の北側にある広島県立歴史博物館において、実物大復原やテーマごとの遺物群としてわかりやすく展示されている。
発掘調査された中州は、その後掘削され、ごく一部しか残されていない。しかし、この中州を横切るように架けられた法音寺橋の北側歩道の中ほどには、遺跡の説明板があり、発掘調査されているときの中州や池の跡、出土遺物の写真も添えられている。
【草戸千軒町遺跡】
https://bingo-history.net/archives/15504https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/247b63da51b884bd46e107b13551b8cf.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/247b63da51b884bd46e107b13551b8cf-150x100.jpg管理人中世史「福山の遺跡一〇〇選」より
篠原 芳秀 福山市草戸町に所在する。福山城から西方に見える山塊の小高いところに明王院があり、遺跡はその眼下に位置している。自家用車で行く場合は、芦田川に架かる国道二号線の神島橋の西詰め交差点から南へ約一km下ると、明王院と草戸稲荷神社の駐車場があるので、ここに駐車させていただき、これらに参拝してから遺跡を訪ねよう。明王院には草戸千軒町遺跡が栄えたころに建てられた国宝の本堂や五重塔があり、後述する芦田川改修工事で発見された石製塔婆類も移し置かれている。また、すぐ北側の草戸稲荷神社も草戸千軒町遺跡と深い関わりをもっている。なお、JR福山駅前からは鞆鉄バスの鞆行きがあり、草戸大橋バス停で下車する。この草戸大橋の下あたりでもかつて木製の井戸枠が確認されており、遺跡は北約一kmにある明王院の門前からこの付近まで広がっていたものと考えられている。 大正一五(一九二六)年から始められたこの周辺の芦田川改修工事では、石製塔婆類や古銭塊、陶磁器類などが多量に発見され、中世の町が、埋もれていることが知られるようになった。その後、遺跡のうち、川底となった区域は流水や潮の干満によって掘り下げられ、ところどころに上流からの砂が堆積して中州ができた。 発掘調査は、この中州を中心に昭和三六(一九六一)年から平成六(一九九四)年まで実施され、その後も河川敷や土手において橋脚を造る際に、確認調査が行われている。これらによって、建物、塀、柵、井戸、土坑、道、溝、堀、墓などの道構が検出されるとともに、椀・皿などの土器、碗・鉢・甕などの陶磁器、土錘・ふいごの羽口などの土製品、砥石・塔婆などの石製品、鋸・古銭などの金属製品、箸・木簡・漆器などの木製品、さいころ・双六の駒などの骨角製品、魚骨・種子などの動植物遺体が多量に掘り出された。 そして、検出した遺構や出土した遺物、古文書などの研究から、この遺跡が鎌倉時代の一三世紀中ごろから室町時代の一六世紀初頭まで続いていた港町・市場町であったこととともに、町の構造や、町が幾度か作り変えられていたこと、さらに、人々の生活の様子や、商人・漆職人・鍛冶職人・番匠・漁師などが生業を営んでいたこと、国内はもとより東アジアまで広がる流通のことなどがしだいに明らかにされてきた。これらの成果については、JR福山駅の北側にある広島県立歴史博物館において、実物大復原やテーマごとの遺物群としてわかりやすく展示されている。 発掘調査された中州は、その後掘削され、ごく一部しか残されていない。しかし、この中州を横切るように架けられた法音寺橋の北側歩道の中ほどには、遺跡の説明板があり、発掘調査されているときの中州や池の跡、出土遺物の写真も添えられている。 【草戸千軒町遺跡】管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
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