備陽史探訪:146号」より

田口 義之

大元山古墳の謎

先日二十四日、備後遺族会館で備陽史探訪の会の総会が開催された。総会に先立ち恒例の総会記念講演会が開催され、岡山大学大学院の准教授松木武彦さんの「備後の古墳時代」の講演が多数の聴衆を集めて盛大に開催された。

松木さんのお話は、各地の首長系列墳の盛衰から時代を読み取ろうとするもので、納得されて方も多かったことと重う。

話の中で、松木さんは昼食をご一緒したときに私がお話した、尾道市高須町の「大元山古墳」の存在に触れ、大元山古墳が私が主張する「全長一五〇メートル」の前方後円墳であっても少しも可笑しくないと話された。

大元山古墳は、尾道市の旧浄水場の丘にかつて存在した古墳で、「巨大な前方後円墳」であったと言われながら、報告書に「五〇メートルの前方後円墳」と「誤植」されて報告されたため、今まで注目を集めなかった古墳である。松木先生が、この古墳に触れてくださったことは、「一五〇メートル説」を主張する私にとって大変うれしい出来事であった。

会員のみなさんは、ほとんどの方が大元山古墳のことをご存じないことと思う。以下の短文は、筆者がかつて某業界紙に発表したものである。ご参考にしていただきたい。

◇    ◇

古墳時代を前・中・後期の三期に分ける区分法によると、それまで古墳文化の中心として栄えた神辺平野周辺には目立った古墳が見られない、なぜだろうか……。

二通りの解釈がある。一つは、この時期、備後南部は吉備の勢力下にあって、強大な吉備政権に統合されていたとする考えだ。古墳時代中期といえば、吉備の中枢では「造山」「作山」という畿内の天皇陵に匹敵する巨大古墳が築かれた時代である。造山古墳は全長三六〇メートルと全国第4位の規模を誇り、一説によると五世紀半ばでは日本最大の古墳であったという。同時期、畿内にはこの古墳に匹敵する古墳は築かれなかったというのだから、その被葬者の権力のほどが想像される。ある学者は造山古墳の主は「倭王」に違いないという。

しかし、別の見方もある。この時期、備後南部の支配者は、自己の墳墓を神辺平野ではなく、松永湾岸に築いたとする考えだ。事実、松永湾岸には五世紀代の大型古墳が連続的に築かれている。神村町の松本古墳は全長五〇メートルの帆立貝式古墳で、後円部のみでも径四〇メートルに達する大古墳である。また、尾道市高須町の黒崎山古墳は、形の整った前方後円墳で、破壊前の測量では七〇メートルの規模を持っていた。

だが、五〇メートルや七〇メートルではやや説得力に欠ける。相手は三〇〇メートルを越える大古墳なのだ。

ところが、この説を補強する有力な証拠が現れた。黒崎山古墳の北東側に存在した「大元山古墳」の全長は一五〇メートルあったとする証言だ。この古墳は今まで全長五〇メートルの小型の前方後円墳であったと紹介されてきた。広大の潮見浩教授が『日本考古学年報』十七号で発表された「広島県尾道市黒崎山古墳」の中で、大元山古墳の規模を全長五〇メートルの前方後円墳と記されたからだ。

尾道市旧浄水場より

この古墳の跡である尾道市の旧浄水場に立って見ると、地形から五〇メートルの前方後円墳とはとても思えない。麓からの観察では相当な大古墳に思える。有力な証言がある。実際にこの古墳の破壊に立ち会われた故村上正名先生は、筆者に大元山の古墳の方が黒崎山古墳よりはるかに大きかったと証言された。また、尾道市の考古学者森重彰文氏も筆者の質問に、五〇メートルは一五〇メートルの誤植だと答えられた。

大元山古墳が全長一五〇メートルの大前方後円墳であったとすると、これは立派な地域の大首長墓である。この時期、備後南部は吉備中枢の支配下にあったのではなく、吉備中枢と並んで大和朝廷の構成員であったことになる。なぜ、古墳を松永湾岸に築いたのかの謎は残るが……。