2014年06月01日

畝状竪堀群について

備陽史探訪:178号」より

田口 義之

昭和60年に当会で測量した朝山二子城の縄張図

昭和60年に当会で測量した朝山二子城の縄張図

 山城に興味を持つようになって、今年で既に四十五年。はじめて登った山城は新市町の相方城であった。なぜ、この山城に興味を持ったのか、すでに思い出せないが、その石垣は少年の心を魅了する迫力があった。

 縄張図を描くようになって、最初に興味を持ったのは曲輪の形と、配置である。仲間と巻尺を持って山に登り、曲輪の大きさを測り、野帳に位置を記入していく。家に帰って画用紙に清書すると、立派な縄張図になる。「日本城郭大系」や「広島県中世城館遺跡総合調査報告書」などが出ていない時期だけに、自分が書いた縄張図が、その城の最初の報告かと思うと嬉しさと自信がこみ上げてきたものである。

 山城の研究は、昭和50年代に入ると、それまでのアマチュアの学問から正式に考古学の分野でも取り上げられるようになった。そうした中で注目されるようになったのが「畝状竪堀群」の存在である。これは、山城の斜面にあたかも畑の「畝」のように竪堀を連続して掘ったもので、普通は5、6条から、多いものでは10数条に渡って設けられることがある。

 最初の頃、広島県ではこの施設は「毛利」系の山城にのみ見られるもので、畝状竪堀群がある山城は毛利氏と何らかの結びつきを持った山城と考えられていた。ところが、この畝状竪堀群、毛利氏の本拠吉田郡山城には、一ヶ所も見られないのである。これは一体全体どういうことか。

 調査が進むと、この畝状竪堀群は戦国時代の山城に特徴的に見られるもので、特にその後半に築かれた城に多いことが分った。毛利系でもなんでもない、築城術の進歩によって各地の山城に取りれられたもので、特に福山周辺の戦国山城にはその立派なものが多い。

 このように、山城の研究は日進月歩である。次にどんな新しい成果が披露されるか期待したい。