2010年09月01日

相方城跡(福山市新市町大字相方)

福山の遺跡一〇〇選」より

田口 義之

相方城跡

相方城跡

北山麓の登り口から、胸を突くような急坂を約二〇分、汗を流しながら登ると突然視界が開け、白い自動車道にぶつかる。この道をさらに約一〇分、行きつく所に相方城跡がある。現在は城跡西方に住宅団地と工業団地が造成され、突き当たったところにこの道がある。テレビ塔の林立する山頂に近づくと木々の間に白い石垣が見え隠れし、山頂に立てば府中から神辺まで一望のもとである。

芦田川を天然の濠として標高二〇〇mの山頂に、当時の築城術の枠を集めて築城されたのが相方城であった。丁度、東ではあの織田信長が安土城を築いていたころだ。

戦国百年の間に、築城術は目覚しい発達を見せた。初め土と丸太で築かれていた山城も、このころになると石垣を築き、白壁瓦茸の櫓をあげた本格的な城郭ヘと変わっていった。

この当時最新といえる山城を築いたのは、芦田町一帯を本拠とした豪族有地氏の三代目有地民部少輔元盛であった。彼は数ある戦国武将の中でも知勇兼備の勇将として知られ、播州合戦では毛利の旗下として後の豊臣秀吉と槍を合わせ、備前八浜の合戦では宇喜多の勇将宇喜多与太郎を討ち取った(現に首塚が相方に残っている)。しかし、時代は大きく動き、天下を統一した太閤秀吉の”山城廃止令”によって、せっかく築いた相方城を自ら破壊し、さらには慶長五(一六〇〇)年の関が原合戦後、毛利に従った元盛は剃髪して日栄と号し、山口の本圀寺に静かな余生を送った。いわば、相方城は戦国最後を飾った”あだ花”といえる。

なお、相方城の石垣に関しては、周辺に類例が無いことから、在地豪族の手になるよりも、毛利氏による築造とする見解がある。だが、有地氏が知行替によって在地を去った天正一九(一五九一)年から、毛利氏が芸備を去る慶長五(一六〇〇)年までの間、同氏がこの城を修築したという記録も無ければ、その理由も見出せない。石垣を「権威の象徴」とすれば、毛利氏は当然街道側、すなわち北面に石垣を築くはずだが、相方城の北面にはほとんど石垣は築かれていない。その南面が総石垣なのは、城主有地氏が本領である芦田町の人々に領主の権威を示すために石垣を築いたとするほうが理解しやすい。また、天正一九年、毛利元就の八男元康が神辺城主となっており、毛利氏は神辺城を修築すれば十分であって、わざわざ相方城を修築する必要は無いのである。

【相方城跡】