備陽史探訪:79号」より

出内 博都

はじめに

油木鶴亀山八幡は、所伝によれば、延喜二年(九〇二)、豊前宇佐より勧請した古社で、千年にわたる歴史をもっている。神域の広さも三万余坪で、おそらく県下の八幡社のうちで最大のものと思われる。

ここに伝来する大般若経は、応安年間の筆写による折本形のもので、おそらく神石郡に現存する文書としては最古のものと思われ、かつ南北朝対立の動乱期のものとして、備北における南北朝対立史の解明の点からも多くの興味ある問題を含んでいると思われるので、以下その概要を述べ、各方面のご指導とご批判を仰ぎたい。

一、現況

(1)箱書

大唐櫃三個に二〇巻を一帙として入れている。箱書には、永徳二年(一三八二)に尾道浦より当八幡に寄進したことが朱筆で書かれている。

(2)遺存状況

経巻は著しく散逸、破損していたが、整理の結果は次の通りである。

①首尾一貫して完全に現存するもの 三〇八巻
②経巻の一部が散逸しているが、巻数番号の判明したもの 二〇四巻

以上計五一二巻

残り八八巻は散逸して巻数不明のものであるが、これも断片がおびただしく現存しているので、これを整理したら大部分は復元可能と思われ、元は六〇〇巻の完本であったと考えられる。

(3)書写年代

第一巻は紙質も他のものと異なり、奥書の一部によると(損傷のため完全な判読は不能)、応仁年間の写本であることがわかる。二巻以下は紙質も一定しているので、年代を明記したものと大体同一のものと判定してよい。また、書写年代を明記した巻は以下の通りである。

①応安六年(一三七三)七巻
②応安七年(一三七四)一六巻
③永和元年(一三七五)三九巻
④永和三年(一三七七)一巻

(4)勧主

頼喜(三一巻まで阿閣梨、以下権少僧都と称している)

(5)願主及びその寄進巻数

(下表参照▼は沙爾、▽は尼を表わす)
表の他に、勧主頼喜の名のみあり、願主欄が空白になったままのものが一六〇巻ある。

願主名 署名
巻数
筆跡推定
数を含む
総数
▼寿阿 一〇 二〇
▼党成 一〇
▼持道 二八 六〇
▼道慶 一二 二〇
▼道喜 一〇
▼浄喜 一〇
大江朝乗 一〇 一〇
▼光喜 一〇
六郎二郎
小輔
仙阿
光寿
▽彌阿 一〇
▼道一 一〇
▼道念 一〇
則光 一五 二〇
福千代丸 一〇
▼念心 一〇
朝氏朝広 一〇
重一
玉光
大江朝尚 二五 三〇
道法 一〇
▼道性 一一
大江朝連 二〇
▼道忽 一〇
▽相喜 一〇
▼道拓 一〇
▼道寿
▼党乗 一〇
大江幸朝 一五 二〇
多聞丸 一〇
重康 一〇
三島
▼道妙
朝長
大弐
孫三郎
▼康心 一〇
不明  

(6)書写名

写経者の記名は表、紙と経文の貼付部分の下隅に小さくメモしたものと、末尾に明記したものとの二様式ある(次表参照。★は末尾に署名を明記したもの他、は表紙裏のメモ)。

筆者名 判明し
た巻数
★良盛 六三
★本慶
明党坊 一〇
少納言
★慶潤 四二
★玄斉 七五
★金剛仏子正慶
今高野西福院
教性
円空 二一
宗舜
了仙
舜智
★範乗
梅蔡
真教
□坊□
金□
慶晋
江湖非人楳窗
良忍
円新
★良保
党順
三木
★快尊
仏極寺
了真
義智
大輔
茲舟
旨歴
重融

表の三二人は明瞭なもので、この他判読不能のものも若干ある。以上のうち特殊な肩書き、あるいは署名方法のものは左の通りである。

玄斉…豊州人□玄斉、または豊州円生庄人□玄斉、または林岳玄斉
良保…土州良保
重融…近江国□岳住侶重融
楳窗…江湖非人楳窗
旨歴…加州旨歴
茲舟・・・豊州茲舟
正慶…金剛仏子正慶

同一巻を二人で書写したと思われるもの五組ほどある。即ち「範乗―応智」「良忍―円親」「楳窗―慶晋」「重融―覚順」「金□一応智」であるが、これは前者が助力して後者が主体となって書写したもので、「○○助筆」の署名形式のものも見られる。

(7)その他の奥書

日付または筆者の願文などで寄進の経過などは不明であるが、左のものは一考に価すると思われる(数字は巻数を示す)。

巻第一には十数行の奥書きがあるが、判読不能である。「崇永聖人」「四十九才」「眼病…」などの字は見られるが、極めて悪筆である。ただ、昭和八年(一九三三)ころの調査では「之時応仁元年筆者安養寺住持崇永、星霜四十九才」とあったと『備後史談』第九巻十二号に見えている。この文意は不明だが、転読などで第一巻の損傷は甚だしいのが常であるので、補充のための後世の再書写と思われる。

巻二一〇~二二一、巻二七〇~二七一、巻二八〇、巻三〇三~三一七、巻三八九、巻三九〇にはいずれも後世加筆して抹消した跡が見られ、墨色・筆跡ともに経文とは異なっている。抹消不十分で部分的には判読できるものを綜合すると、「備後尾道持光寺常(当)住也」と判明した。

巻三三〇
備後国志摩利庄上保八幡常住
於備後国御調郡尾道西国寺尾崎坊書写畢
干時応安七天(甲刀)林鏡十二日右筆金剛仏子幸範
(波線部は抹消し、再加筆)
巻四一〇
備後国岩成庄於法成寺仏極住侶□□法師
応安七季昌大祓十三日採筆良盛
巻四二〇
右依此経書写功力師長兄弟六親等過去聖霊等成等正覚乃至法界平等利益又兼良盛法師現当二世所願成就資之備之而已
応安七季二月十六日採筆◇◇
(前の二字梵字)良盛
巻四四〇 右文と同一趣旨の願文
応安七季甲寅四月五日採筆良盛
巻四六〇
備後国御調郡尾道於西国寺尾崎坊書写之
右依…(以下略)
応安七年甲寅六月二十五日良盛
巻四六二
於備後国御調郡尾道西国寺尾崎坊書写畢
快尊
巻四八〇
備後国御調郡尾道於西国寺尾崎坊書写之
応安七季七月十八日良盛
巻五〇六
奉書写志者為天下太平四海安穏心中所願最旡難旡災也
弦舟謹書
巻五一七
志者信心施主二世所願望也
玄斉書
巻五三二
伏□試可謂宿殖深厚伏願般若経中十方諸仏十六善神福智加被見門或誦持癸最上心同入阿褥菩提重□祝延垂寿保国安民報答四恩三有者也
茲舟書
巻五三四
右志者四海太平順風揚帆今日到岸心中所願成就□□者也
玄斉書

奥書きについては、六〇〇巻のうち終巻の方に多く奥書きが見られる点、及び持光寺常住のある巻はおおむね勧主頼喜のみで、願主の項を欠いた巻であることが目立つ。

二、考察

(1)関係文書

この大般若経のことは、当八幡の文書はもちろん、既刊の郷土史関係史書には簡単な紹介記事しかないが、『高野山萱屋堂成仏坊上池院沿革の大要』(昭和五年[一九三〇]発行)という小冊子の中に次のような記載がある。

元弘三年北条氏滅びて漸く建武中興全からんとする時に当り足利尊氏の叛によって世は再び乱れ畏くも後醍醐天皇は吉野の行宮に崩ぜさせ給う。天皇の一番御末に当らせらるる御子は賊将足利の眼から逃れんとして潜かに高野山に向はせらる。(中略)随従して上池院へ志す人々は大江朝乗、大江南朝、大江朝代、大江朝広、大江朝尚、大江朝蓮、福千代丸、多聞丸、大式、小補等卅余人。(中略)その年達玄上人を師として御年八才にて剃髪し御名を曽眼、仮名を崇永と名けらる。(中略)上池院興隆と改築のため諸国に勧請し給う。彼の皇子に随従せる人々丹六人は何れも剃髪し当院の周囲に夫々草庵を建てた。(中略)崇永聖人は日夜王政復古を析り給ふに世は返つて賊将足利のみ有利に展開してゆくので備後に御赴錫中油木の八幡神社へ潜かに大般若経六百巻を書写して納むべく立願せらる。尾道西国寺尾崎を止宿所と定め夫々有志のもの交々書写して文中三年から永徳二年迄かかつて奉納せらる。聖人はこの頃お歳が四十九であった(後略)

この小冊子は参詣者に与える案内用のもので、引用史料も不明である。そこで、先般上池院へ書面にて照会したところ、文書は皆無で、詳細不明の旨回答があったが、いずれにしても、第一巻の奥書きをはじめ、年代、願主の氏名が符合する所が多く、本写経が高野山関係のものであり、かつ南朝方に志をもつ者の手になったことは大体明らかであろう。前記の引用文にしても、当八幡にこの写経の現存することを知って書いたものではないので、何らかの史料が高野山にあるものと思われる。

(2)写経に見られる人名

目下のところ勧主頼喜以下全く不明であるが、左の点に解明のカギが蔵されていると思われる。

①皇子に従った公家がそのまま聖人について西国に赴いたとは思われないので、この写経は既にその一部を高野山において着手されていたものを尾道に運んで付近の人々の協力により完成したのではないか。

②僧侶及び前記の公家は最低一〇巻とまとまったものを寄進しているが、その他の俗人は小数を寄進しているところから、この完成には寄進者をつのるのにかなり苦心し、かつ、勧主のみで願主名の欠けたもの一六〇巻に及んでいる点からもみて、寄進はすでに南風競わざる不遇の中、苦難に満ちた行事であったと思われる。

③したがって最初から当油木八幡を目的とした計画的なものではなく、聖人としてしかるべき大社を目的としていたが、時勢の赴くところ致し方なく油木八幡を次善の地として選んだのではないか。この事は完成から寄進までに数年の空白のあることからも偲ばれる。

④高野山にとって西国最大の拠点であった大田庄の西福院ですら、一筆者として労力提供者の地位にあることも、この写経の最初の目的の大きかったことを物語っている。

⑤全巻通じて崇永聖人の名は見当たらず(第一巻の奥書にはわずかに見られるが、文意不明)、また奥書の願文も形式的で、特別な意図の見えない点、及び年号は北朝年号を使用している点は不審に思われる。

③三三〇巻にある備「後国志摩利庄上保八幡常住」(波線部は抹消し、訂正)も前項に準じて頼喜をさすか判明しない。志摩利庄(現三和町小畠一帯)内に求めるとすれば、三和町字上旧(上村)さすのではないかと思われるが、推定の域を出ない。

以上問題点を列記したが、この大般若経は、単に中世における宗教的遺物としてみる以外に、鎌倉・室町の過渡期における後進辺境の農山村の政治史料としても何らかの価値をもっていると思われる。

ことに建武の中興に際して、いわゆる公家方として義旗をひるがえした土豪がこの神石一帯には集中的に出ている訳であるが、それらが如何なる具体的勢力をもっていたか、また、如何なる系譜に連なるものか伝承の域を出ないが、こうした点についても本写経を究明することにおいて何らかの解決が見出し得るものと思われる。

まとまった荘園史料を欠く辺境山村の中世史が大きな空白をもっている地方史研究の現況において、この写経は直接中世の雰囲気を伝えるものであり、全国をあげての封建再編成動乱の波が、こうした山村にまで波及した証となり、さらには神石地方の中世村落の成立の経緯をも物語るものと思われる。

《付記》史料中に現れる人名及び寺社名などについて、関係あると思われる史料をご存じの方はご一報くだされば幸甚です。