熊野町の山城跡 中世史研究の一方法(福山市沼隈町)
「備陽史探訪:79号」より
田口 義之
【はじめに】
沼隈半島中の小盆地である福山市沼隈町は中世には栄えたようで、戦国末期の「中書家久旅日記」には「山田の町」と記されている。さて同町の山城跡であるが江戸時代の地誌には黒森城、森田山城、山田城、一乗山城、高谷城等の名が記されている。しかし、これらの城名には各書によって異動があって一つの城を二つの城名で呼ぶといったような混乱があり、昭和四十六年以降行った実地調査では3城しか確認できなかった。
その3城とは、市史跡「一乗山城」、昭和四十七年春に調査した「甲谷城」、同五十三年三月に調査した「大城」である。その中で大城は備後古城址研究会の藤井高一郎氏と共に調査し、実測図は同氏が作成、所蔵されている。又、市史跡一乗山城については福山市文化財年報に詳しいが、ここでは私の作成した実測図に基づいて述べてみたい。
【一乗山城】
熊野盆地の南東奥部熊野町上山田字黒木に所在し、熊ヶ峯山系の一支峯同町花咲堂西方の標高321mの山から北に延びた尾根が福山市水源地に半島状に突出する部分を利用して築かれている。城の型式は主郭を中心にして同心円状に郭を配置した円郭式山城である。
城の縄張りは最高所を削平して20×21mの長楕円形の本丸とし、その周囲には東から北を廻って西側にかけて巾5~7mのはちまき状に二つの帯郭を築き、南方の尾根の続きは巾5~7mの4条にわたる空堀によって断ち切って背後の守りとしている。
城郭の施設としては本丸の南に一段高く石塁をめぐらした10×18mの台地を築いている。これは物見櫓か守護神を祭っていた場所と思われる。その他石塁は帯郭の各所にも残存している。以上がこの城の中心をなす部分であるが、他に帯郭北端から空堀を隔てて現在七面明神の祭ってある15×20mの平坦地、さらに北に50m下った所にある南北に細長い45×20mの平地、帯郭東下の二つの削平地等も城郭の一部を構成していたものと思われる。
その他水の手は2ヶ所の岩盤をくり抜いた井戸が帯郭東下に存在する。城の東西は絶壁状に水源地に落ち込み、登山道は北麓よりの七面明神参道と西側山麓よりの小径の二本のみである。
【大城】
熊ヶ峯から西に延びた標高272mの尾根を利用して築かれた山城で最高所の主郭を中心に北、南、西に各々削り出しによって郭を築き、背後には空堀を設けている。規模は熊の町内の山城の中では最も大きく各郭の面積も大きい。又、西方200mの所には「小城」と呼ばれる地があり、遺構は鉄塔の構築で壊されているが出郭があったものと思われる。
【甲谷城】
別名夕目城とも呼ばれ、六本堂から東に入った甲谷の最奥部に所在する。城は彦山西麓の比高50mの東北から南西に細長く延びた尾根を利用して築かれている。縄張りは尾根の東北と南西に空堀を設けてその間に4つの郭を直線上に連ねたもので、型式としては連郭式山城に類するものである。
主郭は最高所に築かれた33×35mのほぼ正方形をした平坦地で高低差0・5mで二段に分かれ、北から東には削り残しによる土塁を設けている。又、土塁の一部北側にあるものは、上部に140平方メートルの平坦面を有し櫓台と考えられる。主郭の東北尾根続きは先述のように3条の空堀を設け尾根続きよりの敵の侵入に備えている。他の郭は主郭から南西に削り出しによって2郭6(×13)、3郭(5×11)、4郭(15×19)と順次築かれ、この内3郭は4郭中央部に張り出すようになっている。4郭の南西下は前述の空堀で、2条設けられている。空堀から南西はだらだら坂で麓に続いている。尾根の両側は絶壁状をなし、登山は容易ではない。
【まとめ】
さて、以上の山城の特徴であるが構造からみると一番古いのは簡単な縄張りの大城で次に甲谷城、一乗山城が築かれたと思われる。甲谷、一乗山両城は規模はほぼ同じであるが石塁が利用されている点、一乗山の方が新しい城郭であると思われる。次に占地をみると大城が熊野盆地の中央にあって四周を眺望できる点優位を占め、他の城は盆地の周辺部にあって不利な位置にあるといえる。
最後にこれらの点から山城を中心として盆地の中世史を考察してみると、まず最初に大城が築かれ、この城の主は盆地全体を支配していた。その後ある者が甲谷辺りに勢力を持つようになり甲谷城が築かれた。
次にある者が一乗山城を築き盆地南部を支配するようになり、最後に大城、甲谷城は廃城となり一乗山城のみ残った。このことは一乗山城主が盆地を支配することになったことを意味する。
もちろん以上のことは山城のみを材料とした1つの仮説に過ぎない。しかし、今迄はただ文献によってのみ述べられていた中世の歴史を他の面から考えてみるのも歴史研究の一方法として面白いのではないだろうか。
今後は更に他の中世遺構、地名による研究、文献史料の分析を通じて熊野の中世にせまってみたいと思う
https://bingo-history.net/archives/14165https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/01-1.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/01-1-150x150.jpg中世史「備陽史探訪:79号」より 田口 義之 【はじめに】 沼隈半島中の小盆地である福山市沼隈町は中世には栄えたようで、戦国末期の「中書家久旅日記」には「山田の町」と記されている。さて同町の山城跡であるが江戸時代の地誌には黒森城、森田山城、山田城、一乗山城、高谷城等の名が記されている。しかし、これらの城名には各書によって異動があって一つの城を二つの城名で呼ぶといったような混乱があり、昭和四十六年以降行った実地調査では3城しか確認できなかった。 その3城とは、市史跡「一乗山城」、昭和四十七年春に調査した「甲谷城」、同五十三年三月に調査した「大城」である。その中で大城は備後古城址研究会の藤井高一郎氏と共に調査し、実測図は同氏が作成、所蔵されている。又、市史跡一乗山城については福山市文化財年報に詳しいが、ここでは私の作成した実測図に基づいて述べてみたい。 【一乗山城】 熊野盆地の南東奥部熊野町上山田字黒木に所在し、熊ヶ峯山系の一支峯同町花咲堂西方の標高321mの山から北に延びた尾根が福山市水源地に半島状に突出する部分を利用して築かれている。城の型式は主郭を中心にして同心円状に郭を配置した円郭式山城である。 城の縄張りは最高所を削平して20×21mの長楕円形の本丸とし、その周囲には東から北を廻って西側にかけて巾5~7mのはちまき状に二つの帯郭を築き、南方の尾根の続きは巾5~7mの4条にわたる空堀によって断ち切って背後の守りとしている。 城郭の施設としては本丸の南に一段高く石塁をめぐらした10×18mの台地を築いている。これは物見櫓か守護神を祭っていた場所と思われる。その他石塁は帯郭の各所にも残存している。以上がこの城の中心をなす部分であるが、他に帯郭北端から空堀を隔てて現在七面明神の祭ってある15×20mの平坦地、さらに北に50m下った所にある南北に細長い45×20mの平地、帯郭東下の二つの削平地等も城郭の一部を構成していたものと思われる。 その他水の手は2ヶ所の岩盤をくり抜いた井戸が帯郭東下に存在する。城の東西は絶壁状に水源地に落ち込み、登山道は北麓よりの七面明神参道と西側山麓よりの小径の二本のみである。 【大城】 熊ヶ峯から西に延びた標高272mの尾根を利用して築かれた山城で最高所の主郭を中心に北、南、西に各々削り出しによって郭を築き、背後には空堀を設けている。規模は熊の町内の山城の中では最も大きく各郭の面積も大きい。又、西方200mの所には「小城」と呼ばれる地があり、遺構は鉄塔の構築で壊されているが出郭があったものと思われる。 【甲谷城】 別名夕目城とも呼ばれ、六本堂から東に入った甲谷の最奥部に所在する。城は彦山西麓の比高50mの東北から南西に細長く延びた尾根を利用して築かれている。縄張りは尾根の東北と南西に空堀を設けてその間に4つの郭を直線上に連ねたもので、型式としては連郭式山城に類するものである。 主郭は最高所に築かれた33×35mのほぼ正方形をした平坦地で高低差0・5mで二段に分かれ、北から東には削り残しによる土塁を設けている。又、土塁の一部北側にあるものは、上部に140平方メートルの平坦面を有し櫓台と考えられる。主郭の東北尾根続きは先述のように3条の空堀を設け尾根続きよりの敵の侵入に備えている。他の郭は主郭から南西に削り出しによって2郭6(×13)、3郭(5×11)、4郭(15×19)と順次築かれ、この内3郭は4郭中央部に張り出すようになっている。4郭の南西下は前述の空堀で、2条設けられている。空堀から南西はだらだら坂で麓に続いている。尾根の両側は絶壁状をなし、登山は容易ではない。 【まとめ】 さて、以上の山城の特徴であるが構造からみると一番古いのは簡単な縄張りの大城で次に甲谷城、一乗山城が築かれたと思われる。甲谷、一乗山両城は規模はほぼ同じであるが石塁が利用されている点、一乗山の方が新しい城郭であると思われる。次に占地をみると大城が熊野盆地の中央にあって四周を眺望できる点優位を占め、他の城は盆地の周辺部にあって不利な位置にあるといえる。 最後にこれらの点から山城を中心として盆地の中世史を考察してみると、まず最初に大城が築かれ、この城の主は盆地全体を支配していた。その後ある者が甲谷辺りに勢力を持つようになり甲谷城が築かれた。 次にある者が一乗山城を築き盆地南部を支配するようになり、最後に大城、甲谷城は廃城となり一乗山城のみ残った。このことは一乗山城主が盆地を支配することになったことを意味する。 もちろん以上のことは山城のみを材料とした1つの仮説に過ぎない。しかし、今迄はただ文献によってのみ述べられていた中世の歴史を他の面から考えてみるのも歴史研究の一方法として面白いのではないだろうか。 今後は更に他の中世遺構、地名による研究、文献史料の分析を通じて熊野の中世にせまってみたいと思う管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
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