鞆大可島城と村上亮康(大内義隆の偽文書と村上水軍の鞆支配)

備陽史探訪:167号」より

田口 義之

村上亮康の拠った大可島城址
村上亮康の拠った大可島城址

鞆は古代以来、内海水運の要港として栄えてきた。沖合いで東西から満ちてきた潮がぶつかり、潮に乗って航海してきた船は鞆で「潮待ち」「風待ち」をし、再び東西に出航して行った。中世、この鞆港の押さえとして築かれ、出入りする船を監視していたのが大可島城である。

大可島は、現在陸地とつながり、鞆港の東に突き出た岬となっているが、かつてはその名の通り「島」で、近年まで陸側は砂州で繋がり、満潮の時だけ「島」になる「陸繋島(りくけいしま)」であった(道越の地名がそれを物語っている)。

この小島が一躍歴史の表舞台に登場したのは、南北朝時代の康永元年(一三四二)のことであった。幕府方の攻撃を受けた伊予土居城の救援に向かった南朝軍は、逆に備後の鞆を占領し、幕府の大軍を迎え撃った。南朝方は大可島を拠点とし、小松寺を本陣とした幕府軍と旬余の攻防の後、伊予に引き上げた(注1)。さらに、貞和五年(一三四九)四月には、室町幕府から中国探題に任命された足利直冬が備後国鞆浦に下向、大可島に拠って、政務を執った(注2)。

南北朝時代が終わり、世の中が安定すると、大可島はしばらく歴史の表舞台から消える。

室町幕府は、鞆に安国寺を置き、この地を準直轄領とした。今まで室町幕府は、軍事的経済的基盤が薄く、そのため内乱が絶えなかったといわれてきた。この考えは全く誤りではないが、最近では研究も進み、五山禅林の有した膨大な寺領群が幕府の準直轄領としての役割を果たしていたことが明らかとなった(注3)。鞆の安国寺も鞆の浦の三分の一を寺領としていたと言われ、幕府はこの安国寺を拠点として鞆を支配したと考えられる。

大可島が、再び歴史の表舞台に登場するのは、下って天文年間(一五三二~一五五五)のことであった。

天文一三年(一五四四)七月三日、大内義隆は「備後国安名郡鞆浦内十八貫」の地を因島の村上新蔵人吉充に与えた(注4)。吉充は大可島に弟亮康を置き、以後天正十九年(一五九一)まで、鞆浦は、海賊衆村上氏の支配するところとなった。

因島村上氏の鞆進出に関しては、謎も多い。

一つは、鞆支配の根拠とされる、天文十三年(一五四四)七月三日付の大内義隆下文だ(注5)。この文書では「備後国沼隈郡鞆浦内」とあるはずのところが「備後国安名郡鞆浦内」となっている。しかも安名郡は「安那郡」の誤りだ。内海屈指の要港として周知されていたはずの鞆浦の郡名を、大内氏の右筆、或いは義隆が間違えるだろうか。

さらに、この文書は義隆の花押が巧妙に写されているとはいえ、「写本」である(注6)。

鞆の支配者は、戦国時代の初頭には室町幕府から備後守護に移っていた。永正四年(一五〇七)十二月、備後守護山名致豊は、沼隈郡高須の杉原右馬助、世羅郡上山の上山加賀守に、上洛する前将軍足利義稙の為に鞆・尾道で宿所を設けるよう命じた(注7)。さらに、山名氏の後、実質的に備後を支配した尼子氏も鞆を支配した(注8)。

また、北に山越えした山田(熊野町)の領主渡辺氏も鞆に影響力を持った。天文末年(一五五三頃)には毛利氏の命で「鞆要害」の普請を行っている(注9)。若しこの時点で、村上亮康が大可島に在城していたとすれば、渡辺氏の「鞆要害(小林定市「鞆城跡」『福山の遺跡100選』)」と競合するはずで、あり得ないことではないが、不自然である。

こうした様々な状況証拠からして、因島村上家文書の天文十三年七月三日付の大内義隆下文は「偽文書」と断定せざるを得ない。

村上亮康の鞆支配が確認されるのは、天正四年(一五七六)六月の「伊勢参宮海陸之記」(注10)からである。この記録は伊予の戦国大名西園寺宣久の旅日記で、六月十四日に鞆に寄港し、二十一日まで滞在、宣久は「鞆助安」に「一礼」した。従来この「鞆助安」は鞆の有力商人と考えられてきたが、島根大学の長谷川博史氏が考察されているように、村上亮康に比定するほうが妥当である(注11)。

大可島に居城した亮康は、在名を取って「鞆氏」を称したようである。亮康が「鞆」を名字としたことは、先に紹介した西園寺宣久の「伊勢参宮海陸之記」の他に、天正一三年(一五八五)の「小早川家座配書立」(注12)がある。この文書は、小早川家における正月の着座順を記したもので、「上」に向かって左側の六番目に「鞆殿」すなわち、亮康の名がある。因島から鞆に分家した亮康は鞆氏を称したと見ていいだろう。

亮康が鞆を領有したきっかけは今となっては不明だが、水軍を必要とした毛利氏が、因島村上氏を味方に着けるため、同氏が鞆領有の証拠とした偽文書をあえて正文書と認め、亮康に鞆の支配を任せたのではなかろうか。その時期としては、毛利氏が因島村上氏に大きな「借り」を作った弘治元年(一五五五)九月の厳島合戦後、とするのが良いと思う。

鞆大可島城の伝えは混乱している。多くの「備後古城記」の写本では、村上亮康の代わりに村上河内守を載せ、「永禄年中」の居城としている(注13)。「西備名区」は河内守の実名を「吉継」とし、元伊予河野氏の旗下で、後に毛利氏に属し、船手の将として厳島の合戦で手柄を立てたという(注14)。

鞆は内海の要港であっただけに、海賊衆の勢力が早くから及んでいたはずだ。海賊は何も村上氏の専売特許ではない。塩飽や伊予河野氏の流れを組む者も、備後沿岸部には存在した。「備後古城記」によると、引野や野々濱の古城主に「塩飽」氏が見られ、一帯は当時沿岸部であったことから、塩飽海賊衆の一族と見られる。また、大門の古城主藤間氏は伊予河野氏の一族と伝わり、後、出家して光円寺の開基となったという(注15)。

実際に、記録に姿を現さない海賊衆も多かった。尾道市向島の「宇賀島衆」もそのひとつだ。彼等の正体は杳として知れないが、その最後だけははっきりしている。

「宇賀島」は向島の北岸に浮かぶ「岡島」のことと考えられ、小さいながらも尾道港の喉元を押さえる絶好の位置を占めていた。宇賀島海賊衆が史上に姿を見せたのは天文二三年(一五五四)十一月のこと。同年五月、陶氏と断交した毛利氏は、備後安芸の陶方一掃を図り、陶氏に味方していた宇賀島海賊衆を攻撃した。安芸備後の国人衆や因島村上氏の包囲攻撃を受けた宇賀島衆は全滅した。彼等は全く痕跡を残さず姿を消したため、今もってその素性はは明らかでない(注16)。

大可島に居城したという村上河内守もそうした海賊の一人だったと考えられる。村上氏といえば能島・来島・因島の「三島村上氏」が有名だが、備後南部には、それとは別の村上氏が存在した痕跡は幾らでも残っている(注17)。大内義隆を滅ぼし、西国の覇者たらんとした陶晴賢が鞆を見逃すはずはなく、亮康の大可島在城の前に「陶方」の海賊衆が鞆を押さえていたとしても何ら不思議は無い。

因島村上氏が大可島在城の根拠とした「大内義隆下文」の「鞆浦内十八貫文地」は、所領の規模としてははなはだ狭小である。「貫文」は貫高制と云って、石高制の前に用いられていた土地の広狭を示す単位で、その土地からの年貢を貨幣価値で表したものである。一般的に田一反に付き五百文が標準とされ、十八貫文は「田」にすると三町六反となる。土地の狭い鞆浦からすると、広い土地のように見えるが、鞆全体を示す貫高とは思えない。大可島と鞆港の一部で、村上亮康は鞆港に出入りする船からの入港料(当時帆別銭とか駄別銭と呼んだ)や、警固料(航行する船の安全を保障する代わりに徴収したお金)を主な収入源としていたと見ていいだろう(注18)。

海賊衆の中でも、最大の勢力を誇ったのが能島・来島・因島の三島村上氏であった。海賊衆の中では別格の存在で、戦国時代には「沖家」と敬称され、陸の大名と対等に近い関係を持った(注19)。

三島村上氏の内、最強の勢力を誇ったのは、惣領家である能島村上氏で、伊予大島と伯方島の間の宮窪瀬戸に浮かぶ能島を本拠として、「海賊大将軍」として瀬戸内海を支配した。

大可島城に拠った村上亮康の本家因島村上氏は、三島村上氏の中では最も大きな島である因島を本拠としたため、山陽側の山名、大内、毛利氏などの陸上の大名との関係が深く、海の武士でありながら、陸上に所領を持つ国衆としての性格を持っていた(注20)。

大可島の村上亮康も、三島村上氏の一翼を担い、鞆沖の備後灘を支配したが、統一政権の誕生によってその支配も幕を閉じることとなった。関白となった豊臣秀吉は、天正十六年(一五八八)「海賊停止令」を発し、村上氏が持っていた海賊としての権益を一切認めない政策をとった。能島の村上武吉はこれに強く抵抗したが、遂には能島を奪われ、毛利氏の元に逃れた。大可島の村上亮康も、天正十九年(一五九一)、鞆を没収され、長門大津郡に移され、海賊としての活動に終止符を打った(注21)。

村上氏の旗印と能島村上景親画像

(宮窪水軍資料館蔵)

【補注】
(1)「太平記」巻二四予州河江合戦事
(2)「太平記」巻二七直冬西国下向事
(3)桑山浩然『室町幕府の政治と経済』吉川弘文館二〇〇六年
(4)因島村上家文書
(5)同
(6)県史古代中世資料編Ⅳ「因島村上家文書」では正文としているが長谷川博史氏は写本で「若干疑問なしとしない」としている(鞆の浦の歴史―福山市鞆町の伝統的町並みに関する調査研究報告書Ⅰ 福山市教育委員会)
(7)「萩藩閥閲録」巻四〇上山庄左衛門・同巻六七高須惣左衛門
(8)「福山志料」巻三二所収文書
(9)県史古代中世資料編Ⅴ所収萩藩譜録渡辺三郎左衛門
(10)『愛媛県史』資料編文学所収
(11)鞆の浦の歴史―福山市鞆町の伝統的町並みに関する調査研究報告書Ⅰ 福山市教育委員会
(12)大日本古文書家わけ十一『小早川家文書』四七五号
(13)代表として備後郷土史会編「備後叢書」所収本
(14)歴史図書社刊『備後叢書』第3巻「西備名区」備後国沼隈郡鞆浦
(15)同 備後国深津郡大門村の条など
(16)「向島町史」通史編
(17)「萩藩閥閲録」巻六七高須惣左衛門、年不詳七月六日付山名祐豊書状など
(18)宇田川武久『瀬戸内水軍』(歴史新書65、教育社、一九八一)
(19)注18参照
(20)『広島県史』通史編中世
(21)『毛利家八カ国時代分限帳』(マツノ書店刊)によれば天正十九年の「惣国検地」の結果村上亮康は鞆を没収され、長門大津郡に四〇二石余の給地を与えられた。

鞆大可島城と村上亮康https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/08/7462c7c829a4252255957b2f067bd278.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/08/7462c7c829a4252255957b2f067bd278-150x100.jpg管理人中世史城郭,論考「備陽史探訪:167号」より 田口 義之 鞆は古代以来、内海水運の要港として栄えてきた。沖合いで東西から満ちてきた潮がぶつかり、潮に乗って航海してきた船は鞆で「潮待ち」「風待ち」をし、再び東西に出航して行った。中世、この鞆港の押さえとして築かれ、出入りする船を監視していたのが大可島城である。 大可島は、現在陸地とつながり、鞆港の東に突き出た岬となっているが、かつてはその名の通り「島」で、近年まで陸側は砂州で繋がり、満潮の時だけ「島」になる「陸繋島(りくけいしま)」であった(道越の地名がそれを物語っている)。 この小島が一躍歴史の表舞台に登場したのは、南北朝時代の康永元年(一三四二)のことであった。幕府方の攻撃を受けた伊予土居城の救援に向かった南朝軍は、逆に備後の鞆を占領し、幕府の大軍を迎え撃った。南朝方は大可島を拠点とし、小松寺を本陣とした幕府軍と旬余の攻防の後、伊予に引き上げた(注1)。さらに、貞和五年(一三四九)四月には、室町幕府から中国探題に任命された足利直冬が備後国鞆浦に下向、大可島に拠って、政務を執った(注2)。 南北朝時代が終わり、世の中が安定すると、大可島はしばらく歴史の表舞台から消える。 室町幕府は、鞆に安国寺を置き、この地を準直轄領とした。今まで室町幕府は、軍事的経済的基盤が薄く、そのため内乱が絶えなかったといわれてきた。この考えは全く誤りではないが、最近では研究も進み、五山禅林の有した膨大な寺領群が幕府の準直轄領としての役割を果たしていたことが明らかとなった(注3)。鞆の安国寺も鞆の浦の三分の一を寺領としていたと言われ、幕府はこの安国寺を拠点として鞆を支配したと考えられる。 大可島が、再び歴史の表舞台に登場するのは、下って天文年間(一五三二~一五五五)のことであった。 天文一三年(一五四四)七月三日、大内義隆は「備後国安名郡鞆浦内十八貫」の地を因島の村上新蔵人吉充に与えた(注4)。吉充は大可島に弟亮康を置き、以後天正十九年(一五九一)まで、鞆浦は、海賊衆村上氏の支配するところとなった。 因島村上氏の鞆進出に関しては、謎も多い。 一つは、鞆支配の根拠とされる、天文十三年(一五四四)七月三日付の大内義隆下文だ(注5)。この文書では「備後国沼隈郡鞆浦内」とあるはずのところが「備後国安名郡鞆浦内」となっている。しかも安名郡は「安那郡」の誤りだ。内海屈指の要港として周知されていたはずの鞆浦の郡名を、大内氏の右筆、或いは義隆が間違えるだろうか。 さらに、この文書は義隆の花押が巧妙に写されているとはいえ、「写本」である(注6)。 鞆の支配者は、戦国時代の初頭には室町幕府から備後守護に移っていた。永正四年(一五〇七)十二月、備後守護山名致豊は、沼隈郡高須の杉原右馬助、世羅郡上山の上山加賀守に、上洛する前将軍足利義稙の為に鞆・尾道で宿所を設けるよう命じた(注7)。さらに、山名氏の後、実質的に備後を支配した尼子氏も鞆を支配した(注8)。 また、北に山越えした山田(熊野町)の領主渡辺氏も鞆に影響力を持った。天文末年(一五五三頃)には毛利氏の命で「鞆要害」の普請を行っている(注9)。若しこの時点で、村上亮康が大可島に在城していたとすれば、渡辺氏の「鞆要害(小林定市「鞆城跡」『福山の遺跡100選』)」と競合するはずで、あり得ないことではないが、不自然である。 こうした様々な状況証拠からして、因島村上家文書の天文十三年七月三日付の大内義隆下文は「偽文書」と断定せざるを得ない。 村上亮康の鞆支配が確認されるのは、天正四年(一五七六)六月の「伊勢参宮海陸之記」(注10)からである。この記録は伊予の戦国大名西園寺宣久の旅日記で、六月十四日に鞆に寄港し、二十一日まで滞在、宣久は「鞆助安」に「一礼」した。従来この「鞆助安」は鞆の有力商人と考えられてきたが、島根大学の長谷川博史氏が考察されているように、村上亮康に比定するほうが妥当である(注11)。 大可島に居城した亮康は、在名を取って「鞆氏」を称したようである。亮康が「鞆」を名字としたことは、先に紹介した西園寺宣久の「伊勢参宮海陸之記」の他に、天正一三年(一五八五)の「小早川家座配書立」(注12)がある。この文書は、小早川家における正月の着座順を記したもので、「上」に向かって左側の六番目に「鞆殿」すなわち、亮康の名がある。因島から鞆に分家した亮康は鞆氏を称したと見ていいだろう。 亮康が鞆を領有したきっかけは今となっては不明だが、水軍を必要とした毛利氏が、因島村上氏を味方に着けるため、同氏が鞆領有の証拠とした偽文書をあえて正文書と認め、亮康に鞆の支配を任せたのではなかろうか。その時期としては、毛利氏が因島村上氏に大きな「借り」を作った弘治元年(一五五五)九月の厳島合戦後、とするのが良いと思う。 鞆大可島城の伝えは混乱している。多くの「備後古城記」の写本では、村上亮康の代わりに村上河内守を載せ、「永禄年中」の居城としている(注13)。「西備名区」は河内守の実名を「吉継」とし、元伊予河野氏の旗下で、後に毛利氏に属し、船手の将として厳島の合戦で手柄を立てたという(注14)。 鞆は内海の要港であっただけに、海賊衆の勢力が早くから及んでいたはずだ。海賊は何も村上氏の専売特許ではない。塩飽や伊予河野氏の流れを組む者も、備後沿岸部には存在した。「備後古城記」によると、引野や野々濱の古城主に「塩飽」氏が見られ、一帯は当時沿岸部であったことから、塩飽海賊衆の一族と見られる。また、大門の古城主藤間氏は伊予河野氏の一族と伝わり、後、出家して光円寺の開基となったという(注15)。 実際に、記録に姿を現さない海賊衆も多かった。尾道市向島の「宇賀島衆」もそのひとつだ。彼等の正体は杳として知れないが、その最後だけははっきりしている。 「宇賀島」は向島の北岸に浮かぶ「岡島」のことと考えられ、小さいながらも尾道港の喉元を押さえる絶好の位置を占めていた。宇賀島海賊衆が史上に姿を見せたのは天文二三年(一五五四)十一月のこと。同年五月、陶氏と断交した毛利氏は、備後安芸の陶方一掃を図り、陶氏に味方していた宇賀島海賊衆を攻撃した。安芸備後の国人衆や因島村上氏の包囲攻撃を受けた宇賀島衆は全滅した。彼等は全く痕跡を残さず姿を消したため、今もってその素性はは明らかでない(注16)。 大可島に居城したという村上河内守もそうした海賊の一人だったと考えられる。村上氏といえば能島・来島・因島の「三島村上氏」が有名だが、備後南部には、それとは別の村上氏が存在した痕跡は幾らでも残っている(注17)。大内義隆を滅ぼし、西国の覇者たらんとした陶晴賢が鞆を見逃すはずはなく、亮康の大可島在城の前に「陶方」の海賊衆が鞆を押さえていたとしても何ら不思議は無い。 因島村上氏が大可島在城の根拠とした「大内義隆下文」の「鞆浦内十八貫文地」は、所領の規模としてははなはだ狭小である。「貫文」は貫高制と云って、石高制の前に用いられていた土地の広狭を示す単位で、その土地からの年貢を貨幣価値で表したものである。一般的に田一反に付き五百文が標準とされ、十八貫文は「田」にすると三町六反となる。土地の狭い鞆浦からすると、広い土地のように見えるが、鞆全体を示す貫高とは思えない。大可島と鞆港の一部で、村上亮康は鞆港に出入りする船からの入港料(当時帆別銭とか駄別銭と呼んだ)や、警固料(航行する船の安全を保障する代わりに徴収したお金)を主な収入源としていたと見ていいだろう(注18)。 海賊衆の中でも、最大の勢力を誇ったのが能島・来島・因島の三島村上氏であった。海賊衆の中では別格の存在で、戦国時代には「沖家」と敬称され、陸の大名と対等に近い関係を持った(注19)。 三島村上氏の内、最強の勢力を誇ったのは、惣領家である能島村上氏で、伊予大島と伯方島の間の宮窪瀬戸に浮かぶ能島を本拠として、「海賊大将軍」として瀬戸内海を支配した。 大可島城に拠った村上亮康の本家因島村上氏は、三島村上氏の中では最も大きな島である因島を本拠としたため、山陽側の山名、大内、毛利氏などの陸上の大名との関係が深く、海の武士でありながら、陸上に所領を持つ国衆としての性格を持っていた(注20)。 大可島の村上亮康も、三島村上氏の一翼を担い、鞆沖の備後灘を支配したが、統一政権の誕生によってその支配も幕を閉じることとなった。関白となった豊臣秀吉は、天正十六年(一五八八)「海賊停止令」を発し、村上氏が持っていた海賊としての権益を一切認めない政策をとった。能島の村上武吉はこれに強く抵抗したが、遂には能島を奪われ、毛利氏の元に逃れた。大可島の村上亮康も、天正十九年(一五九一)、鞆を没収され、長門大津郡に移され、海賊としての活動に終止符を打った(注21)。 (宮窪水軍資料館蔵) 【補注】 (1)「太平記」巻二四予州河江合戦事 (2)「太平記」巻二七直冬西国下向事 (3)桑山浩然『室町幕府の政治と経済』吉川弘文館二〇〇六年 (4)因島村上家文書 (5)同 (6)県史古代中世資料編Ⅳ「因島村上家文書」では正文としているが長谷川博史氏は写本で「若干疑問なしとしない」としている(鞆の浦の歴史―福山市鞆町の伝統的町並みに関する調査研究報告書Ⅰ 福山市教育委員会) (7)「萩藩閥閲録」巻四〇上山庄左衛門・同巻六七高須惣左衛門 (8)「福山志料」巻三二所収文書 (9)県史古代中世資料編Ⅴ所収萩藩譜録渡辺三郎左衛門 (10)『愛媛県史』資料編文学所収 (11)鞆の浦の歴史―福山市鞆町の伝統的町並みに関する調査研究報告書Ⅰ 福山市教育委員会 (12)大日本古文書家わけ十一『小早川家文書』四七五号 (13)代表として備後郷土史会編「備後叢書」所収本 (14)歴史図書社刊『備後叢書』第3巻「西備名区」備後国沼隈郡鞆浦 (15)同 備後国深津郡大門村の条など (16)「向島町史」通史編 (17)「萩藩閥閲録」巻六七高須惣左衛門、年不詳七月六日付山名祐豊書状など (18)宇田川武久『瀬戸内水軍』(歴史新書65、教育社、一九八一) (19)注18参照 (20)『広島県史』通史編中世 (21)『毛利家八カ国時代分限帳』(マツノ書店刊)によれば天正十九年の「惣国検地」の結果村上亮康は鞆を没収され、長門大津郡に四〇二石余の給地を与えられた。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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