尾道酢と酢徳利について(業者の盛衰と流通の範囲)

備陽史探訪:177号」より

岡田 宏一郎

江戸中期の尾道町には酢醸造業者がかなり存在していた。

尾道酢の醸造のきっかけは、堺にいた朝鮮からの工人を尾道に誘ったことから
という。(尾道造酢の資料より)

食酢には「醸造酢、果実酢、合成酒、加工酢」などがあるが、明治期の尾道では醸造酢が生産されていて「米酢」(よねす)が高級品であった。尾道酢の原料は秋田米が使われていたが、これは寛文年中に西回り航路が開通し、北前船によって北陸や東北から米が移入されてきたことから尾道酢の原料として秋田米が使われるようになったという。

これについて

秋田米は品質はよろしいが、小粒なのと砂が混っているので食料としての商品価値が低い。しかし安価なのでそこに目をつけた商人が造酢に力を入れたものらしい

(新修 尾道市史 第四巻)

正徳二年(一七一二)町奉行が藩に報告した文書の中に

当所の酢、宜敷御座候に付、他所へも商売仕候

とある。だが「橋本年誌」の中には造酢業者に関する資料が全くないという。

尾道造酢起源となる橋本治郎右衛門(口に「●」印)は天正十年に創業している。大正七年に明治期の尾道酢醸造業者「野間直兵衛(口に「の」印)、高垣松右衛門衛漸し、橋本陽三郎(西灰屋)、岡田金造(○に「八」印)、三益商会・田辺誠」(いずれも明治期の酢蔵醸造業者)と東灰屋の「橋本治郎右衛門」の六軒が合併して「尾道造酢株式会社」を設立した。初代社長には本家の東灰屋の血筋を引く橋本太吉が就任している。

その他に明治17年創業の「杉田与次兵衛」、大正元年創業の「恵谷卯太郎」商店(昭和61年に廃業)「津川酢造場」(大正8年)、明治16年創業? 昭和初年に廃業した「稲田伊兵衛」などの酢醸造業者があった。

尾道には造酢業者が明治期には8軒、大正初期は9軒の酢醸造業者が存在していて、広島県内の業者は434戸あり、生産量は33、000石、生産額は231、000円であったが、その中で尾道市が最大で約60%を占め、第二位の沼隈郡は約30%、生産額は約20%であった。(大正5年 広島県統計書)

生産額の約77%は県外に移出され、海外では「満州、朝鮮、台湾」に輸出され、国内では「四国、中国、九州、北海道」などの各地に送られていた。

さて北海道に渡った「酢徳利」であるが北海道各地で見つかっている。その分布は圧倒的に尾道酢が多くを占めて全道内で販売されていた痕跡が見つかっている。また「新潟などの北陸や東北の日本海側の町」でも見つかっている。

また福山市鞆町の「桑田富五郎商店」の酢徳利も北海道の道南で見つかっている。なお桑田酢商店は明治20年ごろから大正3年頃まで造酢業を営んでいた。

尾道の酢徳利は遠方の丹波の窯元に発注されていたとある。明治40年前後の丹波製「五升徳利」は20銭弱であったという。徳利の口栓は桐製の木栓を使い針金で巻きカマスに入れ荒縄で締めて動かないようにして包装されていた。酢徳利は明治中期以前には北前船で、それ以降は西洋型帆船や蒸気船で海上輸送されていた。

酢徳利は中味の酢がなくなっても大型で丈夫な容器であるため醤油を買いに行く容器に使われていたり、イカの塩辛の貯蔵用や農作業の飲料水入れや油を入れる容器に利用、また湯たんぽの代用、北海道らしく牛乳入れにも使われていたため、大事な容器としてすべてが廃棄されなかったために今まで残っていたと思われる。

尾道造酢はマヨネーズの「キューピー」との関係が生まれているが、これは「昭和25年に広島銀行頭取であった橋本龍一氏がアヲハタ缶詰社長兼キューピーの役員であった廿日出要之進氏と出会ったことから造酢の話題がかわされた。ここから尾道造酢とキューピーとの取引関係が出来た」だがマヨネーズ用の酢は「西洋酢」のため、製品開発は試行錯誤している。

こうして昭和37年に「西府産業」を設立し、技術面は尾道造酢が担当していてキューピーマヨネーズの原料ビネガーを製造販売するようになる。昭和45年には西府産業からキューピー醸造へ改称された。

尾道造酢は、平成2年に新製品「そのまんま酢のもの」を開発して平成6年ごろからブームになった「りんご酢、黒酢」によって需要が増し代表的な商品に成長した。

来る五月には、「ぶら探訪 尾道歩き パート2」を開催しますが、「パート1」でカクホシ印の「尾道造酢会社」を観ましたので「尾道酢と酢徳利について」あらためて、少し詳しく報告してみました。

ついでに酢に関連して「雑喉鮮」(ざこすし)について一言。

尾道あたりでは小魚のことを「雑喉」(ざこ)と呼び「めばる、あぶらめ、小鯛、きすご、せいご、その他の小魚」をいうが、これを薄酢につけた副食物をいい、「夏に酒の肴などによろしい」とある。また「握りずし」にもしている。

北海道、新潟など東北各地で見つかった酢徳利

  1. 「○に住」印は「高垣松右衛門」店の酢徳利
  2. 尾道町と書かれ「ヤマヲ」印「稲田伊兵衛」店の酢徳利
  3. 尾道とコバルト絵具で筆書きされ「□に・」印の「灰屋次郎右兵衛門」店の酢徳利
  4. 「備後尾道」と「□にの」印の「野間直兵衛」店の酢徳利
  5. わかりにくいが、福山市鞆町の酢製造業者「桑田富五郎」店の酢徳利。上に「生酢」、縦書きで右側に「備后 鞆港」左側に「桑田製品」とあり中央に「〼」印がいずれも線刻されている。

北海道、新潟など東北各地で見つかった尾道酢の酢徳利

【引用及び参考文献】

  • 『新修尾道市史 第四巻』
  • 『尾道大学経済情報論集』第9巻第1号
  • 『北海道開拓記念館研究年報』第5号
  • 『尾道案内』(大正四年)
  • 『尾道学研究会第35回例会北前船湊に残る尾道の記録を求めて』樫本慶彦氏の写真より
https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/20c33f2328e0e2d2e42957785c979276.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/20c33f2328e0e2d2e42957785c979276-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:177号」より 岡田 宏一郎 江戸中期の尾道町には酢醸造業者がかなり存在していた。尾道酢の醸造のきっかけは、堺にいた朝鮮からの工人を尾道に誘ったことからという。(尾道造酢の資料より) 食酢には「醸造酢、果実酢、合成酒、加工酢」などがあるが、明治期の尾道では醸造酢が生産されていて「米酢」(よねす)が高級品であった。尾道酢の原料は秋田米が使われていたが、これは寛文年中に西回り航路が開通し、北前船によって北陸や東北から米が移入されてきたことから尾道酢の原料として秋田米が使われるようになったという。 これについて 秋田米は品質はよろしいが、小粒なのと砂が混っているので食料としての商品価値が低い。しかし安価なのでそこに目をつけた商人が造酢に力を入れたものらしい (新修 尾道市史 第四巻) 正徳二年(一七一二)町奉行が藩に報告した文書の中に 当所の酢、宜敷御座候に付、他所へも商売仕候 とある。だが「橋本年誌」の中には造酢業者に関する資料が全くないという。 尾道造酢起源となる橋本治郎右衛門(口に「●」印)は天正十年に創業している。大正七年に明治期の尾道酢醸造業者「野間直兵衛(口に「の」印)、高垣松右衛門衛漸し、橋本陽三郎(西灰屋)、岡田金造(○に「八」印)、三益商会・田辺誠」(いずれも明治期の酢蔵醸造業者)と東灰屋の「橋本治郎右衛門」の六軒が合併して「尾道造酢株式会社」を設立した。初代社長には本家の東灰屋の血筋を引く橋本太吉が就任している。 その他に明治17年創業の「杉田与次兵衛」、大正元年創業の「恵谷卯太郎」商店(昭和61年に廃業)「津川酢造場」(大正8年)、明治16年創業? 昭和初年に廃業した「稲田伊兵衛」などの酢醸造業者があった。 尾道には造酢業者が明治期には8軒、大正初期は9軒の酢醸造業者が存在していて、広島県内の業者は434戸あり、生産量は33、000石、生産額は231、000円であったが、その中で尾道市が最大で約60%を占め、第二位の沼隈郡は約30%、生産額は約20%であった。(大正5年 広島県統計書) 生産額の約77%は県外に移出され、海外では「満州、朝鮮、台湾」に輸出され、国内では「四国、中国、九州、北海道」などの各地に送られていた。 さて北海道に渡った「酢徳利」であるが北海道各地で見つかっている。その分布は圧倒的に尾道酢が多くを占めて全道内で販売されていた痕跡が見つかっている。また「新潟などの北陸や東北の日本海側の町」でも見つかっている。 また福山市鞆町の「桑田富五郎商店」の酢徳利も北海道の道南で見つかっている。なお桑田酢商店は明治20年ごろから大正3年頃まで造酢業を営んでいた。 尾道の酢徳利は遠方の丹波の窯元に発注されていたとある。明治40年前後の丹波製「五升徳利」は20銭弱であったという。徳利の口栓は桐製の木栓を使い針金で巻きカマスに入れ荒縄で締めて動かないようにして包装されていた。酢徳利は明治中期以前には北前船で、それ以降は西洋型帆船や蒸気船で海上輸送されていた。 酢徳利は中味の酢がなくなっても大型で丈夫な容器であるため醤油を買いに行く容器に使われていたり、イカの塩辛の貯蔵用や農作業の飲料水入れや油を入れる容器に利用、また湯たんぽの代用、北海道らしく牛乳入れにも使われていたため、大事な容器としてすべてが廃棄されなかったために今まで残っていたと思われる。 尾道造酢はマヨネーズの「キューピー」との関係が生まれているが、これは「昭和25年に広島銀行頭取であった橋本龍一氏がアヲハタ缶詰社長兼キューピーの役員であった廿日出要之進氏と出会ったことから造酢の話題がかわされた。ここから尾道造酢とキューピーとの取引関係が出来た」だがマヨネーズ用の酢は「西洋酢」のため、製品開発は試行錯誤している。 こうして昭和37年に「西府産業」を設立し、技術面は尾道造酢が担当していてキューピーマヨネーズの原料ビネガーを製造販売するようになる。昭和45年には西府産業からキューピー醸造へ改称された。 尾道造酢は、平成2年に新製品「そのまんま酢のもの」を開発して平成6年ごろからブームになった「りんご酢、黒酢」によって需要が増し代表的な商品に成長した。 来る五月には、「ぶら探訪 尾道歩き パート2」を開催しますが、「パート1」でカクホシ印の「尾道造酢会社」を観ましたので「尾道酢と酢徳利について」あらためて、少し詳しく報告してみました。 ついでに酢に関連して「雑喉鮮」(ざこすし)について一言。 尾道あたりでは小魚のことを「雑喉」(ざこ)と呼び「めばる、あぶらめ、小鯛、きすご、せいご、その他の小魚」をいうが、これを薄酢につけた副食物をいい、「夏に酒の肴などによろしい」とある。また「握りずし」にもしている。 北海道、新潟など東北各地で見つかった酢徳利 「○に住」印は「高垣松右衛門」店の酢徳利 尾道町と書かれ「ヤマヲ」印「稲田伊兵衛」店の酢徳利 尾道とコバルト絵具で筆書きされ「□に・」印の「灰屋次郎右兵衛門」店の酢徳利 「備後尾道」と「□にの」印の「野間直兵衛」店の酢徳利 わかりにくいが、福山市鞆町の酢製造業者「桑田富五郎」店の酢徳利。上に「生酢」、縦書きで右側に「備后 鞆港」左側に「桑田製品」とあり中央に「〼」印がいずれも線刻されている。 【引用及び参考文献】 『新修尾道市史 第四巻』 『尾道大学経済情報論集』第9巻第1号 『北海道開拓記念館研究年報』第5号 『尾道案内』(大正四年) 『尾道学研究会第35回例会北前船湊に残る尾道の記録を求めて』樫本慶彦氏の写真より備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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