赤坂における秀吉、義昭の対面(備後國・福山市)

備陽史探訪:59号」より

出内 博都

元亀四年(一五七三)七月、流浪の将軍となった足利義昭は、紀伊を経て天正四年(一五七六)鞆に到着しい毛利氏の庇護のもとに日をおくる事になった。その間、先の将軍としての権威は、田舎の大小名に対してはかなりの効果があったらしく、あれこれ対信長戦略を練ったが、結局信長の死後、秀吉の天下になって天下への野心をすて、将軍としての衿持を捨て、かつての宿敵信長の武将だった秀吉の前に頭を下げることになった。それが天正十五年(一五八七)三月の秀吉、義昭の赤坂対面である。

この事について『沼隈郡誌』には、朝鮮の役の時(天正十九年)九州下向途中の秀吉は、津之郷の田辺寺によって義昭と対面し、太刀一口を進ぜるとしているが、これは明らかにまちがいである。朝鮮の役の時に義昭は、足利昌山として名護屋城留守居役を命ぜられている。秀吉、義昭の対面は『九州御動座記』によれば、天正十五年三月十二日のことである。

九州御動座記

大坂より
(天正十五年)
三月朔日、九州表へ御動座道之次第
三月朔日      舟付
一津國兵庫迄   十里
二日        舟付
一播磨明石迄   五里
三日(路)     舟付へ一里
一同國姫地迄   九里
四日
一同國あかふ郡迄 七里
五日        舟付
一備前片上迄   六里
          舟入
一同國岡山迄   八里
  但此所に中四日御休息也、
十一日
一備中なか山迄  八里
(十二日着)
一備後赤坂迄   八里
但此所へ公方様(足利義昭)御出にて、御太刀折帋にて御禮を被仰候、御酒上に互に銘作の御腰物被為参侯、則公方様御座所も赤坂之近所也、備後のとも(鞆)の浦へ三里在之、

右の資料にある如く、大坂よりの各地は只地名と里数のみの簡単な記録なのに、赤坂については、義昭が宿舎(津之郷)から赤坂に至り文書で礼を述べ、酒宴を催し、更に名刀の交換をなすという具体的な記録がある。その場所がどこであるか伝承が失われた為に前記の『郡誌』のような記事になったのではないだろうか。徳川氏の天下になり、豊臣ゆかりの史跡が変造されたり、消滅したのは多いと思うが、これも一つの例であろう。

秀吉の赤坂滞在について毛利氏は気をつかい、赤坂になった事でかなりあわてている様が、閥閲録などに見えている。天正十四年(一五八六)十二月の輝元の書状には次のようにある。

関自様御下ならハ神邊にて御宿調候事、其外御座所なとにてのあてかひ彼是可入候条、細□(衆?)ニ可申付候   謹言
極月十九日     てる元御判
  二太

これによれば、宿舎の整った神辺あたりに宿所を考えていたようであるが、御動座記にみる如く、殆ど六~八里という行程表からは神辺はあまりに近く、判で押した様に八里をとって赤坂になったのではないかと思える。

二太は近従の二宮就辰の事で、細衆は伝令の事であろう。結局、宿所は赤坂ということになり、急遽天正十五年正月二日に赤坂の宿所造営について動員を指示している。

   関自様 御座所 赤坂
一、御宿いへそのほか普請領村付別紙に在之
一、百貫之地二つき夫拾人あての事
一、番匠・鍛治そのほか諸細工人、領内ニあり次第ニきり用へき事
一、竹木ハ寺社又ハ人の土居まはり、用次第ニきり用へき事
一、なわ、かつら郡役たるへし
一、たゝミのいゝとこも同前
一、すみ・たき木同前
右法度として相さたむ所也、然を領主としていろこひさまたけは、届に及ハす領地押へをき、用所相調之若又、地下人と相むかハ、掟の旨にまかせ、はた物ニかけ堅固可申付者也、
 仍下知如件
 正月二日
 桂左衛門大夫(就宣)殿
 小方兵部丞(元信)殿
 佐々部又右衛門尉殿

右の資料によれば、緊急の大事業として百貫之地で十人ずつの人夫といい、大工など職人の動員、竹木、なわ、かずら、たゝみ表、炭、薪など人と物についての総動員をかけ、これに叛くものはきびしく処分することを奉行に申しつけている。

どれだけのものを、どこに作ったか、今となっては知る由もないが、街道村赤坂にとっては有史以来の出来事だったと思える。更に『萩藩賦録』によれば、翌正月三日近習の二宮就辰に対して、次のような書状を出している。

 (沼隈郡)中山赤坂御宿入目之儀、以注文申聞候、其上宿かへの奉行共ニ奉書遣之候、其旨ニ引合候て可相調候、米方心持是又両人所より内意可申遣候条、其調肝要候ゝゝかしく、
 正月三日     てる元御判
  二太右

宿所のしつらえは奉行に命じた通りであるが、おもてなしの入目の儀について特に近習に指示したもので、二重三重に念をいれている様がよくわかる。

この文書で重要なことは「沼隈郡中山赤坂」の語句である。赤坂のどのあたりに宿所をおいたかの謎がこの中山赤坂にあるのではなかろうか。

中山というのは各地にあるが、多くの場合村境、郡境などにある場合が多い。赤坂の旧い地形を考えると、済美中学からイコーカ山古墳に連なる尾根が、JRと国道によって削平されているが、このあたりに中山(峠)を考える事ができるのではないだろうか。古地図によれば、この尾根の西側、赤坂駅付近に旧い寺のあった事が知れる。こうしてみると中山赤坂は、加屋、山北方面からの入口附近にあったのではなかろうか。

秀吉と義昭の会見、然もその時秀吉が義昭に対して伊予の国で一万石を与える契機となった会見の場所が、何の痕跡も残さないということに歴史の現実のきびしさを感じさせる。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/98d8fde72eae3a4ab574764a85ac2e8c.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/98d8fde72eae3a4ab574764a85ac2e8c-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:59号」より 出内 博都 元亀四年(一五七三)七月、流浪の将軍となった足利義昭は、紀伊を経て天正四年(一五七六)鞆に到着しい毛利氏の庇護のもとに日をおくる事になった。その間、先の将軍としての権威は、田舎の大小名に対してはかなりの効果があったらしく、あれこれ対信長戦略を練ったが、結局信長の死後、秀吉の天下になって天下への野心をすて、将軍としての衿持を捨て、かつての宿敵信長の武将だった秀吉の前に頭を下げることになった。それが天正十五年(一五八七)三月の秀吉、義昭の赤坂対面である。 この事について『沼隈郡誌』には、朝鮮の役の時(天正十九年)九州下向途中の秀吉は、津之郷の田辺寺によって義昭と対面し、太刀一口を進ぜるとしているが、これは明らかにまちがいである。朝鮮の役の時に義昭は、足利昌山として名護屋城留守居役を命ぜられている。秀吉、義昭の対面は『九州御動座記』によれば、天正十五年三月十二日のことである。 九州御動座記 大坂より (天正十五年) 三月朔日、九州表へ御動座道之次第 三月朔日      舟付 一津國兵庫迄   十里 二日        舟付 一播磨明石迄   五里 三日(路)     舟付へ一里 一同國姫地迄   九里 四日 一同國あかふ郡迄 七里 五日        舟付 一備前片上迄   六里           舟入 一同國岡山迄   八里   但此所に中四日御休息也、 十一日 一備中なか山迄  八里 (十二日着) 一備後赤坂迄   八里 但此所へ公方様(足利義昭)御出にて、御太刀折帋にて御禮を被仰候、御酒上に互に銘作の御腰物被為参侯、則公方様御座所も赤坂之近所也、備後のとも(鞆)の浦へ三里在之、 右の資料にある如く、大坂よりの各地は只地名と里数のみの簡単な記録なのに、赤坂については、義昭が宿舎(津之郷)から赤坂に至り文書で礼を述べ、酒宴を催し、更に名刀の交換をなすという具体的な記録がある。その場所がどこであるか伝承が失われた為に前記の『郡誌』のような記事になったのではないだろうか。徳川氏の天下になり、豊臣ゆかりの史跡が変造されたり、消滅したのは多いと思うが、これも一つの例であろう。 秀吉の赤坂滞在について毛利氏は気をつかい、赤坂になった事でかなりあわてている様が、閥閲録などに見えている。天正十四年(一五八六)十二月の輝元の書状には次のようにある。 関自様御下ならハ神邊にて御宿調候事、其外御座所なとにてのあてかひ彼是可入候条、細□(衆?)ニ可申付候   謹言 極月十九日     てる元御判   二太 これによれば、宿舎の整った神辺あたりに宿所を考えていたようであるが、御動座記にみる如く、殆ど六~八里という行程表からは神辺はあまりに近く、判で押した様に八里をとって赤坂になったのではないかと思える。 二太は近従の二宮就辰の事で、細衆は伝令の事であろう。結局、宿所は赤坂ということになり、急遽天正十五年正月二日に赤坂の宿所造営について動員を指示している。    関自様 御座所 赤坂 一、御宿いへそのほか普請領村付別紙に在之 一、百貫之地二つき夫拾人あての事 一、番匠・鍛治そのほか諸細工人、領内ニあり次第ニきり用へき事 一、竹木ハ寺社又ハ人の土居まはり、用次第ニきり用へき事 一、なわ、かつら郡役たるへし 一、たゝミのいゝとこも同前 一、すみ・たき木同前 右法度として相さたむ所也、然を領主としていろこひさまたけは、届に及ハす領地押へをき、用所相調之若又、地下人と相むかハ、掟の旨にまかせ、はた物ニかけ堅固可申付者也、  仍下知如件  正月二日  桂左衛門大夫(就宣)殿  小方兵部丞(元信)殿  佐々部又右衛門尉殿 右の資料によれば、緊急の大事業として百貫之地で十人ずつの人夫といい、大工など職人の動員、竹木、なわ、かずら、たゝみ表、炭、薪など人と物についての総動員をかけ、これに叛くものはきびしく処分することを奉行に申しつけている。 どれだけのものを、どこに作ったか、今となっては知る由もないが、街道村赤坂にとっては有史以来の出来事だったと思える。更に『萩藩賦録』によれば、翌正月三日近習の二宮就辰に対して、次のような書状を出している。  (沼隈郡)中山赤坂御宿入目之儀、以注文申聞候、其上宿かへの奉行共ニ奉書遣之候、其旨ニ引合候て可相調候、米方心持是又両人所より内意可申遣候条、其調肝要候ゝゝかしく、  正月三日     てる元御判   二太右 宿所のしつらえは奉行に命じた通りであるが、おもてなしの入目の儀について特に近習に指示したもので、二重三重に念をいれている様がよくわかる。 この文書で重要なことは「沼隈郡中山赤坂」の語句である。赤坂のどのあたりに宿所をおいたかの謎がこの中山赤坂にあるのではなかろうか。 中山というのは各地にあるが、多くの場合村境、郡境などにある場合が多い。赤坂の旧い地形を考えると、済美中学からイコーカ山古墳に連なる尾根が、JRと国道によって削平されているが、このあたりに中山(峠)を考える事ができるのではないだろうか。古地図によれば、この尾根の西側、赤坂駅付近に旧い寺のあった事が知れる。こうしてみると中山赤坂は、加屋、山北方面からの入口附近にあったのではなかろうか。 秀吉と義昭の会見、然もその時秀吉が義昭に対して伊予の国で一万石を与える契機となった会見の場所が、何の痕跡も残さないということに歴史の現実のきびしさを感じさせる。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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