2012年02月01日

街歩きが好き!「頌徳碑・記念碑」に目が点になる!(向島の除虫菊)

備陽史探訪:164号」より

岡田 宏一郎

除虫菊発祥之碑

知らない町並みを歩きたい!初めて通る裏通りや小路歩きはワクワクした気持ちになり気分が高揚してくる。ゆったり気ままに散策・徘徊することで路上観察が楽しくなり、歩くことが気にならない。こうした動きが石碑を見つけることにつながり、楽しみが倍増するのである。

さて会員のみなさん!街歩きや散歩・散策は好きですか? 小生は好きだし、ゆったり歩きは悪くないと思っている。こうした気持ちで知らない町や古い町並みを散策すると興味あるものを時々見つけることがある。だから街歩きは止められないのである。

こうして様々な「頌徳碑や記念碑」を発見することで、ここに地域の歴史の一コマを感じ取ることが出来るのがたまらないのである。だから見つけたらじつくりと観察することにしている。

そこで観察した石碑の中で『除虫菊発祥之碑』と刻まれた頌徳碑について紹介したい。

みなさんはこの石碑についてご存知でしょうか。

除虫菊発祥之碑

除虫菊発祥之碑

除虫菊は初夏になると瀬戸の島々の段々畑を一面真っ白に彩り、その風景が詩心を描きたててくれていました。だが今は観光用に一部の場所で栽培されているに過ぎなく、さみしい限りです。

この除虫菊は、昭和十年代には広島県や愛媛県の島々の段々畑で植えられていた。この除虫菊の原産地はクロアチアである。この菊が持っている「ピレトリン」という殺虫成分が蚊取線香に使われていたのである。除虫菊が、わが国にもたらされたのは明治十年代であり、和歌山県出身の「上山英一郎」が明治十九年に和歌山で栽培し、商品化に努めた。これによって明治二十三年には棒状蚊取線香を製造・販売している。

上山は明治二十三年に向島を訪れており、瀬戸内海の気候が除虫菊栽培に適していることを地元の人々に説き、栽培指導を行った。こうして向島西村(現尾道市向島町)の村上庄平によって栽培が行われた。明治二十八年・九年頃には、その有利性により藤田蔵太郎によって栽培され島々に広がっていった。栽培が急増したのは日露戦争の時で、各師団から注文が相次ぎ、除虫菊の価格が高騰した。

上山は明治三十五年に「渦巻き状の蚊取線香」を商品化した。この渦巻状蚊取線香は夏の風物詩となり印象に残っている人も多いと思う。上山が起こした会社が赤いにわとリマークの金鳥で知られている「大日本除虫菊株式会社」である。

大正六年には向島・因島・高根島を中心に栽培面積が拡大して、広島県は全国一の産地となった。昭和十五年頃には除虫菊生産は世界の90%を占めているのに驚かされた。

昭和五年、除虫菊を伝えた上山英一郎を祭る神社と頌徳碑の建立を動きが起きた。向島の亀森八幡神社の境内には上山を祭る『除虫菊神社』があり、除虫菊祭りが開かれている。

『頌徳碑』は千光寺の毘沙門堂そばに設置されているので、見たことがある人もいると思う。碑の正面上部に上山翁の胸像が彫られており、碑文の題字は「除虫菊発祥之碑」とある。

これは「東郷平八郎」によるものである。碑文と文字は読みにくいが、撰文は「徳富蘇峰」が、書は「中山黄山」によるものである。背面には全国各地の賛同者の名前が刻まれていて向島の村上庄平・藤田蔵太郎の名前もある。

除虫菊は昭和十六年以降、食糧増産のために衰退する。しかも昭和三十六年頃に天然成分ピレトリンに代わり化学合成品の「ピレスロイド」が開発されると除虫菊を必要としなくなり、昭和四十五年には姿を消していった。

西御所本通りに「大日本除虫菊」の出張所の建物があったことを懐かしく思い出すのであるがさて今はどうなっているだろうか?

(引用及び参考文献。図書)
『しまなみ海道近代化遺産』(大成経凡 創風社)
『備後向嶋岩子島史』(菅原 守編纂 復刻版)
『郷土の石ぶみ』(山陽日日新聞社)