2011年10月01日

備後国神村庄について(御調郡説と沼隈郡説を比較する)

備陽史探訪:162号」より

田口 義之

最近、松永で2度ほど講演した。一つは某銀行松永支店の依頼、一つは神村の歴史を探訪している地元の皆さんの依頼によるものであった。

松永地域の中世史をひも解く場合、避けて通れない課題の一つに石清水八幡宮宝塔院領「神村庄」の存在がある。何が問題かというと、松永に「神村」というそのものずばりの地名があるにも関わらず、『広島県史』そのほか権威ある史書はみな、これを御調郡の「神」(現尾道市御調町大字神)に比定していることだ。

この淵源を遡っていくと清水正健編『荘園志料』にたどり着く。同書は神村庄について次のように述べている。

神村(かみむら《原書振り仮名》)荘、承安宣旨に出で、石清水八幡宮寺宝塔院領十二所の一なり今郡中牛皮組に神村存す

同書が神村庄を御調郡に比定したのは石清水の別宮(杉原別宮・御調別官)が御調郡内に存在したと判断されていたことによる。『広島県史』や『福山市史』はこの権威ある書を根拠に神村庄を御調郡の「神」に比定したと見て誤りあるまい。

だが、現在この前提になった杉原別宮、及び「杉原保」が御調郡ではなく、深津郡に存在したことが明白になった今、神村庄を御調に比定する根拠は崩れたといって良い。

そもそも、御調郡の神は「かみ」であって庄号は「神村」である。もし御調の神が荘園に立庄されたなら、「神庄」になるはず。庄号からも神村庄は沼隈の神村に比定すべきだ。

福山市神村町が神村庄の故地であったことは、近世の文献からも裏付けられる。『水野記』は、その寛永寺社記沼隈郡で「神村庄」として今伊勢、八幡宮の由緒を書上げ、『備陽六郡志』外編でも神村今伊勢の縁起末尾に「在所神村庄末吉鏡山龍庭方」として神村を庄号で紹介している。

神村庄を沼隈郡の神村に比定する方が万事好都合である。寛正三年(一四六一)の備後守護山名持豊判物に「石清水八幡宮領備後国藁江神村新庄杉原」(石清水文書)とあるそれぞれの荘園はみな隣接して存在することとなり、位置関係を理解しやすい。また、今まで新庄(現福山市本郷町)の本庄は不明とされてきたが、神村庄を現神村町に比定することによって神村庄から分立したことが容易に推測できる。

実際現地に立ってみれば『荘園志料』以来の、神村庄を御調郡の「神」に比定する説が如何に机上の空論に過ぎないか実感できる。御調町大字神は旧御調町の中心市村から御調川を挟んで北に位置する小さな地域である。『広島県の地名』も述べているようにそもそも牛の皮村に含まれていた小地域で寛永一五年(一六三八)の地詰帳でやっと村として確認される小村である。しかもその鎮守は祇園社であって八幡社ではない。神村八幡宮を鎮守とする沼隈郡の神村とは比べものにならない。

ただ、『広島県の地名』が紹介する宮實信書状(閥閲録遺漏高須直衛書出)に「神村の内徳永分」とあるのは注意を要する。同書の執筆者はこの徳永を御調郡の徳永(現御調町大字徳永)に比定し神村庄の庄域がこの辺りまで及んでいた証拠としている。が、素直に読む限り、徳永分とは神村庄の内徳永氏の知行分と解釈すべきである。現に福山市の神村町には徳永姓の家が何軒もある。わざわざ御調の徳永村に比定する理由はないのである。