2010年08月10日

古文書を読み解く楽しみ(毛利氏の杉原盛重抜擢の謎)

備陽史探訪:155号」より

木下 和司

杉原盛重関連の史料から

ここ六年くらい杉原盛重について調べている。盛重関係の史料を調べるなかで一点、古文書を読み解く上で面白い史料を見付けたので以下に紹介したい。その史料は、『萩藩閥閲録』巻八九・久芳小兵衛書出しに残されている「毛利元就・同隆元連署書状」である。全文を以下に載せる。

「毛利元就・同隆元連署書状」

彼間の儀、両人として久 兵(久芳賢直)に対し申し分けられ候哉、敵味方半とは申しながら、杉原そ忽の申事にも候歟、しかれども既に引分半ば候条、此分別候はば、身に於いて祝着と為すべく候、此の由久 兵に演説肝要候、謹言、
 六月十五日    元就 御判
          隆元 御判
  左衛門大夫殿(桂元忠)
  三郎右衛門尉殿(児玉就忠)

何が面白いのかと言うと、杉原盛重が久芳賢直との間で何らかのトラブルを引起して、その対応を元就から「そ忽者」と呼ばれていることである。何となく盛重に対する元就の親近感が伝わってくるように思えるのが興味深い。

では、この書状の発給年次はいつ頃なのであろうか。この文書を見たとき、一瞬、これって天文十五(一五四六)年以前の発給じゃないのかと喜んだ。従来、弘治三(一五五七)年以降と考えられている盛重・毛利氏間の直接の主従関係が、天文十五年以前に遡れるという新発見ではと糠喜びをしたのである。そう思った理由は、発給者の署名の順番にある。この書状では日付の下に元就が署名し、その後に隆元が署名している。毛利氏の当主の発給する文書には、元就と隆元の連署書状や元就と輝元の連署書状が多数認められるが、責任者が日付の下に署名し、サブの責任者がその後に署名する形式がとられている(①)。この規則を当てはめると、前記の書状は、元就が責任者、即ち元就から隆元への家督相続以前の文書だったことになる。元就は、天文十五年に隆元に家督を譲っていることから、この書状の発給年次は天文十五年以前だったことになり、盛重と毛利氏の関係をそれ以前に遡れると糠喜びしたのである。しかし、その解釈の間違いにすぐに気づいた。この書状には、発給年次を絞り込める文言が書かれているのである。

古文書に於いては、「感状」、「所領宛行状」、「契約状」等のような権利文書以外には、発給の年次が書かれないため、その文書の内容から発給年次を読み解く必要がある。この書状の発給年次を読み解くヒントは、「引分半ば候条」という言葉にある。「引分」とは、毛利氏と大内・陶氏との手切れ、いわゆる「芸防引分」を指している。芸防引分は、天文二十三(一五五四)年五月に始まり、弘治三年末に毛利氏の勝利に終わる。この書状のニュアンスでは、久芳賢直は「敵味方半ば」の状態にあると考えられる。久芳氏は、毛利氏の本領・吉田と大内氏の安芸における根拠地。東西条に挟まれた久芳郷を本領とする国人であり、その久芳氏が「敵味方半ば」の状態にあるということは、毛利氏による防長征服戦の初期の段階ではないかと想定される。但し、毛利氏は、大内氏との手切れ直後には、はっきりと「去月十五日現形の時」と「裏切り」という言葉を使っている(②)。「芸防引分」という言葉を使っている史料が確認できるのは、弘治二年になってからである(③)。したがって、この書状の発給時期も、弘治二年ころではないかと推測される。備後地域での盛重の初見史料は、弘治三年二月の神辺城麓の平野衆に属した屋葺氏への宛行状であるから、弘治三年以前から毛利元就と盛重には親しい関係にあったことになる。

ここで一点、問題となるのは、発給年次が弘治二年頃であるのに、なぜ日付の下の署名者が元就になっているかということである。可能性として考えられるのは、久芳氏が『萩藩閥閲録』の編集者である永田政純に書状の写を提出するときに写し誤ったか、久芳氏が提出した写しは正しかったが、政純が『萩藩閥閲録』に誤って編集したかである。この場合はどちらにも当て嵌まらなくて、理由があって元就が日付の下に署名をしている。その理由は、この書状の宛先となっている人物にある。書状の宛先は桂元忠と児玉就忠の二人であるが、二人とも毛利氏の「五奉行」に属している。但し、この二人は「五奉行」の中でも、他の三名(赤川元保・国司元相・粟屋元親)とは異なり、元就に直属している奉行人であったために、主人である元就が日付の下に署名をしたのである。他に同様の史料がないか探してみたが、見付けられなかったので、非常に珍しい史料ということになる。

弘治年間に於ける盛重と毛利氏の深い繋がりを示す古文書が他にも存在する。それは、石見銀山の北東にある久利郷を所領とした久利氏に伝来した古文書である。全文を以下に示す。

「毛利氏奉行人連署書状」

(④)

盛重事最前より無二の馳走の段、柳かも御忘却無く候、何様石州一着の上、別而思召与られるべくの由旨申べく候、恐々謹言、
弘治四年
 三月三日    元種(花押)
         元親(花押)
         就忠(花押)
 久利六郎殿

発給者は、栗屋元種・粟屋元親・児玉就忠の三名であり、いずれも毛利氏の奉行人に属している。特に、元親・就忠は毛利氏の領国支配の最高機関である「五奉行」に属していた。その奉行人達が盛重に対する久利六郎の軍事的な協力を感謝し、石見国の平定が完了したら所領を与えることを約束した書状となっている。盛重が、弘治三~四年頃、石見国で活動していたことは、弘治三年五月に備後国安那郡の土豪であった粟根氏に与えた感状に「今日石州日和要害に於いて」という記述があり確認がとれる(⑤)。毛利氏中枢の奉行人が久利氏の盛重に対する協力を感謝しているということは、盛重が石見の合戦において備後以外の国人を含む一軍を率いていたことを表しており、弘治三年段階で盛重には、毛利元就の厚い信頼があったことが確認される。

元就。隆元・元春という毛利氏一族の盛重に対する厚い信頼を示す史料は他にも現存している。例えば、永禄五・六年ころ隆元が栗屋元種に宛てた書状には「杉原(盛重)よりの情報が今日届いたら、今後の行動をきめるから」とあり、同じ頃、元就が元春に宛てた書状にも「伯耆のことが肝心であるから、盛重の返事が今日届いたらその上で今後の行動を決めよう」という言葉が残されている。

通説では、天文十三年から同十八年に渡って行われた神辺合戦での盛重の活躍を吉川元春が認めて、弘治三年に盛重を神辺城主に抜擢したといわれている。これは、芸備の戦国史に良い意味でも悪い意味でも大きな影響を与えている『陰徳太平記』の記述が基になっている。前に述べたように、弘治年間の初頭頃から毛利氏の中枢部が盛重に対して厚い信頼を持っていたとすると、元就という人の慎重なというか、猜疑心が強いという性格を考えた場合、僅か五、六年で盛重をそこまで信用するのかなという気持ちになる。やはりかなり以前から、毛利氏と杉原氏にはなんらかの関係があったとのではと考えたくなる。その関係は、「萩藩閥閲録」巻六八。「杉原与三右衛門書出」によって解くことができるが、詳細は次の機会に譲る。

【補注】

①『萩藩閥閲録』巻四六・小寺忠右衛門所収の天文十五年五月十二日付け井上元景・児玉就方・国司元保宛「毛利元就・同隆元連署書状」の署名は、日付の下が元就、その後に隆元となっている。また、天文十六年七月二日付け小寺元武宛「毛利元就・同隆元連署宛行状」の署名は、日付の下が隆元、その後に元就となっている。

②『萩藩譜録』(『広島県史・古代中世資料編』所収)「堀立家証文写」に残る天文二十三年六月十一日付け堀立九郎左衛門宛「毛利元就・同隆元連署感状」に、「去月十二日現形の時」とある。また、『萩藩閥閲録』巻一七〇・飯田彌兵衛に残る同年六月晦日付け飯田彌五郎宛「毛利元就・同隆元連署感状」にも同じ文言がある。

③『萩藩閥閲録』巻一三二・飯田七郎右衛門に残る「毛利隆元書状」に、「去々年天文廿三五月十二日防芸引分について」という文言がある。

④『山口県史・史料編 中世4』「久利家文書」所収。

⑤弘治三年五月二日付け粟根助十郎宛「杉原盛重感状」(『新修・広島市史」「知新集」所収文書)