鞆地蔵院の大般若経(羽柴秀吉の医師・竹田法印奉納)

備陽史探訪:148号」より

小林 定市

日本史や福山の歴史から、歴史的には大変重要な役割を果たした会談であったが、無評価のまま長年見過ごされてきた会談があった。その会談とは天正十五年(一五八七)三月十二日の夕刻、関白羽柴秀吉と将軍足利義昭が十五年の抗争に終止符を打った講和会談である。

場所は備後の赤坂と記録されているが、当時の地名は慶長検地で変更されたらしく、津之郷町小学校の後方にある御殿山(別称下三嶋山)、足利十五代将軍義昭の御座所があったため御殿山と呼称されてきた。その御殿山の南方にある真言宗田辺寺と地誌は伝えている。

此の講和会談を側面から援助したのが毛利輝元で、田辺寺周辺地域を拡大して宿陣設備を整えている。古代からの山陽官道は沼隈郡を通過していなかったが、田辺寺の宿で秀吉と義昭が対面し会談が出来るよう、新中国道を建設して対応した可能性が出てきた。

旧来の山陽官道は備中高屋から、備後上御領・国分寺・府中市から芦田川本流沿いに御調郡を通っていた。しかし、新道は国分寺から分岐し神辺に入り、中津原・山手・津之郷の公儀御座所の前を通り、今津から三原に至り安藝の真良の山陽官道に到達する新道であった。

元亀四年(一五七三)七月十八日、足利義昭は織田信長と宇治市槇嶋城での戦いに敗れ、信長と和睦したのち信長の家臣秀吉等に護送され河内の若江城に直行したという。義昭は若江城から堺・堺から紀州に移り天正四年鞆に来住した。

天正十年六月二日、明智光秀が本能寺の信長を襲撃した後、上洛を希求していた義昭ではあったが、その都度条件が整わず秀吉より上洛を拒否されていた。

会談は秀吉が九州の島津征伐下向の途次、公方御座所近辺に設けられた秀吉宿所の田辺寺に義昭が出向いて行われた。会談に至る数ケ月以前から義昭はかなり重症の病気に罹っていたらしく、義昭の病気を伝え聞いた秀吉は医師の竹田法印定加を備後に派遣したのである。

一方義昭は秀吉の国内統一西国平定促進に協力し、薩摩の島津義久に家臣を早くから派遣し降伏するよう勧告していた。特に天正十三年からは連年、家臣等を薩摩に下向させ和睦をする様勧告している。

相手の立場を尊重した両者の好意の配慮が判明し、会談は最初から和やかに盛上ったようである。秀吉方の赤坂会見記録は

此の所へ公方様(義昭)御出にて、御太刀折紙にて御程を仰せられ候、御酒上互いの銘作の御腰物を参らさせられ候

と記録している。備後の伝承では

秀吉公と、義昭公営寺(田辺寺)にて御封顔あり、御餞として太刀を進められし

『備陽六郡志』

と約百八十六年後に記載している。詳しい内容は不詳となっているが、武家社会において太刀を進上することは相手に敬意を表明する最上の方法であった。両者の永年に亘るわだかまりも、太刀交換によって氷解したことであろう。

田辺寺の会談は周到な準備に依り進められたもので、秀吉は義昭に足を運ばせ御礼の感謝の言葉を述べさせている。義昭の秀吉に対する御礼の内容は不詳であるが、竹田法印を派遣された事に依る病気回復であった可能性は高く、苦労人秀吉の巧妙な人心収攬術の一端を垣間見ることが出来る。

会談から五十日後の五月三日、秀吉軍は薩摩國川内に進出し真言宗泰平寺に本陣を据えていた。その泰平寺に島津義久降伏の一報が伝えられると、秀吉は即座に「義昭の御上り(大阪行)の委細」を連絡役の安國寺恵瑣に命じ、小早川隆景と吉川元長の許に黒田孝高を派遣し上船の手配を命じた。

田辺寺での対面の効果は五十日で結実し、義昭が悲願としていた京都・大阪入りを、秀吉が承諾した書状が津之郷の御殿山に齎された筈である。しかし、何らかの理由で大阪上りは遅れたらしく、同年十月十五日大阪に帰着したとして義昭は隆景に悦喜の御内書を送っている。

竹田法印の先祖は、室町時代から足利将軍家の医師・薬師として活躍しており、『皇朝医史』は竹田姓の医師名十余名を伝えている。竹田法印は最初将軍義昭の医師であったが、義昭が京都を追放された後は京都に残り、天下人の織田信長・豊臣秀吉の医薬師として重用されていたようである。

福山では竹田法印の出自について、『福山市史』の朝廷が派遣した医師説が有力視されてきた。その他義昭の研究者によると鞆幕府の医師との説もある。しかし、東京国立博物館所蔵の「文禄二年(一五九三)五月廿日の『秀吉のお伽衆』三十二名連署起請文」に、竹田法印の名前に花押を据えており秀吉の医師であったことが判明している。

竹田法印の備後の初見史料は、真木嶋昭光の天正十五年二月六日の奉書「法印(竹田)今に御座所(御殿山)に聢と相詰められ候」に記している。その次は長岡幽斎の『九州道の記』の同年七月十八日朝、「鞆まで越し侍り竹田法印の仮初の宿なれども亭などあり」の兩書の記録から、竹田法印は福山に五カ月以上滞在していたことは確実である。しかし、備後に下向した時期と帰國した年月は定かでない。

水野家の家臣吉田彦兵衛は享保の頃、鞆真言宗地蔵院の伝承を次のように記している。

義昭将軍此の地に渡御の時竹田法印供奉なり、大般若経を此の寺に寄進、則ち經に竹田かすいの名ありとぞ、又此の寺の下涸水(かすい)井の辺を久保と云う、将軍公方義昭公のしばしがほど住み給う所なるを、民ゆいあやまりてくぼというとぞ、個水井を民今かすりという、持明院の前地蔵院の下にあり、此の井は早にも洪水にも四季とも水渇く也、されども常に水のつくことなし、人皆すりかすりて汲むゆえにかすり井と云う也、地蔵院古来此の地に有るべからず、

要約すると、義昭に供奉して来た竹田法印が、地蔵院に大般若経を寄進した。地蔵院の下にある個水井がある場所を久保と云う、久保の語源は公方様が住んだ所から生まれ、百数十年後に至ると久保と変化し伝えられていた。

私は昔年、鞆で久保の地名が付けられている場所を尋ねたところ、久保は鞆町平の後方の山中にあると教えられた。そこで四月十七日に久保と聞いた平の谷筋を調査したところ、何の生活痕跡を見出すことができず空しく帰途についた。

期待していた調査が徒労に終わり残念だったので、二日後地蔵院さんに竹田法印の大般若経の有無を問い合わせたところ、住職の山川龍舟住職より「大般若経六百巻」が寺に所蔵されている。とのご返事を頂いたので直ぐに駆け付け拝見させて頂いた。

地蔵院は福山市鞆町後地一三二三―一の地にあり、本尊を地蔵菩薩とする寺である。鶴林山十輪寺地蔵院と号し、鞆城内の西方の一郭に立地している。江戸時代は草戸明王院の末寺であったが、大正時代になると高野山金剛峰寺の末寺であった記録が残されている。応永十五年(一四〇八)の前は記録が無く、其の時の住持は真宥法師であった。将軍義昭の病気平癒の祈願を行ったこともあるらしく、『沼隈郡誌』は「将軍家より祈祷を申付けられたる古文書あり」と記載している。

実はこの大般若経は平成十二年八月、鞆の浦歴史民俗資料館から出された「資料館だより」の二十五号に、「鞆の寺院調査新発見資料」として公表されていたことを後日自宅で資料整理中に見出した。

本堂に入室し經函に入っている、折畳み式の大般若波羅蜜多経数巻を出して頂き奥書を拝観させて頂いた。何れの經巻の奥書にも

伊与國新居郡角村佛國山瑞應寺御経也文安四年(一四四七)丁卯十一月日大願主山城守越智通顕

と同文の奥書が記載されており、大きさは縦二十六・七cm・横一〇・六cmであった。大般若経が書かれた年代は室町時代で、応仁の乱が始まる二十年以前に書かれていた

。奥書の上には新しい貼紙が貼られその貼紙に、

鞆地蔵院之御経竹田兵部寄進也主願宥恰也天正十八年(一五九〇)庚司(寅)六月吉日

と、新寄進者竹田兵部と願主の住持宥恰に年月日が記されていた。

古い奥書と貼紙の奥書を考慮に入れ移動の経緯を推定すると、最初越智通顕が文安四年十一月瑞應寺に大般若経六百巻を寄進した。その後百四十三年経過して、竹田兵部が地蔵院に寄進するのであるが、時の地蔵院住持宥恰が竹田兵部に対し熱心に寄進を勧めたようである。

伊与國新居郡角村とは、現在の愛媛県新居浜市角野町や山根町等の周辺一帯を包含していた町で、古くからの大きな村で江戸時代になると二ヶ村に分けられていた。佛國山瑞應寺は同市の山根町にある寺院で、釈迦如来を本尊とする曹洞宗の修業道場である。

瑞應寺の寺伝に依ると、正和五年(一三一六)鎌倉建長寺の清嶽を講じ開山。天正十三年(一五八五)七月、小早川隆景勢の生子山城(同市角野町)の攻撃に依り同城は落城、其の時瑞應寺も戦火に遭い炎上したが、万治三年(一六六〇)に至り再興した。

隆景勢は秀吉の先手として伊予遠征に参戦しており,大般若経は瑞應寺が炎上する以前に運び出されたのであろう。その際何かの経緯で大般若経は戦勝軍側に移り、秀吉・隆景・義昭の誰かから竹田兵部に渡ったらしいが、その経緯を明らかにする史料は見当たらない。

大般若経は古い御経であるのに拘らず、転読される機会が少なかったのであろうか保存状況も良好の様に見受けられた。鞆は古い町だけに知られていない貴重な文化財が未だに眠っていたとは驚きである。

大般若波羅蜜多経は指定文化財の美術工芸品と比較しても、遜色の無い優れた優品であると断定できることから、文化遺産として顕彰し末永く後世に伝えたいものである。
鞆地蔵院の大般若経

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/2a0d8ba902851af05a187bae5a898bdc.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/2a0d8ba902851af05a187bae5a898bdc-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:148号」より 小林 定市 日本史や福山の歴史から、歴史的には大変重要な役割を果たした会談であったが、無評価のまま長年見過ごされてきた会談があった。その会談とは天正十五年(一五八七)三月十二日の夕刻、関白羽柴秀吉と将軍足利義昭が十五年の抗争に終止符を打った講和会談である。 場所は備後の赤坂と記録されているが、当時の地名は慶長検地で変更されたらしく、津之郷町小学校の後方にある御殿山(別称下三嶋山)、足利十五代将軍義昭の御座所があったため御殿山と呼称されてきた。その御殿山の南方にある真言宗田辺寺と地誌は伝えている。 此の講和会談を側面から援助したのが毛利輝元で、田辺寺周辺地域を拡大して宿陣設備を整えている。古代からの山陽官道は沼隈郡を通過していなかったが、田辺寺の宿で秀吉と義昭が対面し会談が出来るよう、新中国道を建設して対応した可能性が出てきた。 旧来の山陽官道は備中高屋から、備後上御領・国分寺・府中市から芦田川本流沿いに御調郡を通っていた。しかし、新道は国分寺から分岐し神辺に入り、中津原・山手・津之郷の公儀御座所の前を通り、今津から三原に至り安藝の真良の山陽官道に到達する新道であった。 元亀四年(一五七三)七月十八日、足利義昭は織田信長と宇治市槇嶋城での戦いに敗れ、信長と和睦したのち信長の家臣秀吉等に護送され河内の若江城に直行したという。義昭は若江城から堺・堺から紀州に移り天正四年鞆に来住した。 天正十年六月二日、明智光秀が本能寺の信長を襲撃した後、上洛を希求していた義昭ではあったが、その都度条件が整わず秀吉より上洛を拒否されていた。 会談は秀吉が九州の島津征伐下向の途次、公方御座所近辺に設けられた秀吉宿所の田辺寺に義昭が出向いて行われた。会談に至る数ケ月以前から義昭はかなり重症の病気に罹っていたらしく、義昭の病気を伝え聞いた秀吉は医師の竹田法印定加を備後に派遣したのである。 一方義昭は秀吉の国内統一西国平定促進に協力し、薩摩の島津義久に家臣を早くから派遣し降伏するよう勧告していた。特に天正十三年からは連年、家臣等を薩摩に下向させ和睦をする様勧告している。 相手の立場を尊重した両者の好意の配慮が判明し、会談は最初から和やかに盛上ったようである。秀吉方の赤坂会見記録は 此の所へ公方様(義昭)御出にて、御太刀折紙にて御程を仰せられ候、御酒上互いの銘作の御腰物を参らさせられ候 と記録している。備後の伝承では 秀吉公と、義昭公営寺(田辺寺)にて御封顔あり、御餞として太刀を進められし 『備陽六郡志』 と約百八十六年後に記載している。詳しい内容は不詳となっているが、武家社会において太刀を進上することは相手に敬意を表明する最上の方法であった。両者の永年に亘るわだかまりも、太刀交換によって氷解したことであろう。 田辺寺の会談は周到な準備に依り進められたもので、秀吉は義昭に足を運ばせ御礼の感謝の言葉を述べさせている。義昭の秀吉に対する御礼の内容は不詳であるが、竹田法印を派遣された事に依る病気回復であった可能性は高く、苦労人秀吉の巧妙な人心収攬術の一端を垣間見ることが出来る。 会談から五十日後の五月三日、秀吉軍は薩摩國川内に進出し真言宗泰平寺に本陣を据えていた。その泰平寺に島津義久降伏の一報が伝えられると、秀吉は即座に「義昭の御上り(大阪行)の委細」を連絡役の安國寺恵瑣に命じ、小早川隆景と吉川元長の許に黒田孝高を派遣し上船の手配を命じた。 田辺寺での対面の効果は五十日で結実し、義昭が悲願としていた京都・大阪入りを、秀吉が承諾した書状が津之郷の御殿山に齎された筈である。しかし、何らかの理由で大阪上りは遅れたらしく、同年十月十五日大阪に帰着したとして義昭は隆景に悦喜の御内書を送っている。 竹田法印の先祖は、室町時代から足利将軍家の医師・薬師として活躍しており、『皇朝医史』は竹田姓の医師名十余名を伝えている。竹田法印は最初将軍義昭の医師であったが、義昭が京都を追放された後は京都に残り、天下人の織田信長・豊臣秀吉の医薬師として重用されていたようである。 福山では竹田法印の出自について、『福山市史』の朝廷が派遣した医師説が有力視されてきた。その他義昭の研究者によると鞆幕府の医師との説もある。しかし、東京国立博物館所蔵の「文禄二年(一五九三)五月廿日の『秀吉のお伽衆』三十二名連署起請文」に、竹田法印の名前に花押を据えており秀吉の医師であったことが判明している。 竹田法印の備後の初見史料は、真木嶋昭光の天正十五年二月六日の奉書「法印(竹田)今に御座所(御殿山)に聢と相詰められ候」に記している。その次は長岡幽斎の『九州道の記』の同年七月十八日朝、「鞆まで越し侍り竹田法印の仮初の宿なれども亭などあり」の兩書の記録から、竹田法印は福山に五カ月以上滞在していたことは確実である。しかし、備後に下向した時期と帰國した年月は定かでない。 水野家の家臣吉田彦兵衛は享保の頃、鞆真言宗地蔵院の伝承を次のように記している。 義昭将軍此の地に渡御の時竹田法印供奉なり、大般若経を此の寺に寄進、則ち經に竹田かすいの名ありとぞ、又此の寺の下涸水(かすい)井の辺を久保と云う、将軍公方義昭公のしばしがほど住み給う所なるを、民ゆいあやまりてくぼというとぞ、個水井を民今かすりという、持明院の前地蔵院の下にあり、此の井は早にも洪水にも四季とも水渇く也、されども常に水のつくことなし、人皆すりかすりて汲むゆえにかすり井と云う也、地蔵院古来此の地に有るべからず、 要約すると、義昭に供奉して来た竹田法印が、地蔵院に大般若経を寄進した。地蔵院の下にある個水井がある場所を久保と云う、久保の語源は公方様が住んだ所から生まれ、百数十年後に至ると久保と変化し伝えられていた。 私は昔年、鞆で久保の地名が付けられている場所を尋ねたところ、久保は鞆町平の後方の山中にあると教えられた。そこで四月十七日に久保と聞いた平の谷筋を調査したところ、何の生活痕跡を見出すことができず空しく帰途についた。 期待していた調査が徒労に終わり残念だったので、二日後地蔵院さんに竹田法印の大般若経の有無を問い合わせたところ、住職の山川龍舟住職より「大般若経六百巻」が寺に所蔵されている。とのご返事を頂いたので直ぐに駆け付け拝見させて頂いた。 地蔵院は福山市鞆町後地一三二三―一の地にあり、本尊を地蔵菩薩とする寺である。鶴林山十輪寺地蔵院と号し、鞆城内の西方の一郭に立地している。江戸時代は草戸明王院の末寺であったが、大正時代になると高野山金剛峰寺の末寺であった記録が残されている。応永十五年(一四〇八)の前は記録が無く、其の時の住持は真宥法師であった。将軍義昭の病気平癒の祈願を行ったこともあるらしく、『沼隈郡誌』は「将軍家より祈祷を申付けられたる古文書あり」と記載している。 実はこの大般若経は平成十二年八月、鞆の浦歴史民俗資料館から出された「資料館だより」の二十五号に、「鞆の寺院調査新発見資料」として公表されていたことを後日自宅で資料整理中に見出した。 本堂に入室し經函に入っている、折畳み式の大般若波羅蜜多経数巻を出して頂き奥書を拝観させて頂いた。何れの經巻の奥書にも 伊与國新居郡角村佛國山瑞應寺御経也文安四年(一四四七)丁卯十一月日大願主山城守越智通顕 と同文の奥書が記載されており、大きさは縦二十六・七cm・横一〇・六cmであった。大般若経が書かれた年代は室町時代で、応仁の乱が始まる二十年以前に書かれていた 。奥書の上には新しい貼紙が貼られその貼紙に、 鞆地蔵院之御経竹田兵部寄進也主願宥恰也天正十八年(一五九〇)庚司(寅)六月吉日 と、新寄進者竹田兵部と願主の住持宥恰に年月日が記されていた。 古い奥書と貼紙の奥書を考慮に入れ移動の経緯を推定すると、最初越智通顕が文安四年十一月瑞應寺に大般若経六百巻を寄進した。その後百四十三年経過して、竹田兵部が地蔵院に寄進するのであるが、時の地蔵院住持宥恰が竹田兵部に対し熱心に寄進を勧めたようである。 伊与國新居郡角村とは、現在の愛媛県新居浜市角野町や山根町等の周辺一帯を包含していた町で、古くからの大きな村で江戸時代になると二ヶ村に分けられていた。佛國山瑞應寺は同市の山根町にある寺院で、釈迦如来を本尊とする曹洞宗の修業道場である。 瑞應寺の寺伝に依ると、正和五年(一三一六)鎌倉建長寺の清嶽を講じ開山。天正十三年(一五八五)七月、小早川隆景勢の生子山城(同市角野町)の攻撃に依り同城は落城、其の時瑞應寺も戦火に遭い炎上したが、万治三年(一六六〇)に至り再興した。 隆景勢は秀吉の先手として伊予遠征に参戦しており,大般若経は瑞應寺が炎上する以前に運び出されたのであろう。その際何かの経緯で大般若経は戦勝軍側に移り、秀吉・隆景・義昭の誰かから竹田兵部に渡ったらしいが、その経緯を明らかにする史料は見当たらない。 大般若経は古い御経であるのに拘らず、転読される機会が少なかったのであろうか保存状況も良好の様に見受けられた。鞆は古い町だけに知られていない貴重な文化財が未だに眠っていたとは驚きである。 大般若波羅蜜多経は指定文化財の美術工芸品と比較しても、遜色の無い優れた優品であると断定できることから、文化遺産として顕彰し末永く後世に伝えたいものである。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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