2002年10月12日

吉備の地名に見る古代史

備陽史探訪:109号」より

種本 実

郷土史を学ぶ上で、古文書の解読、古墳や城郭、寺社など文化財の検証などと共に、地名の由来の探求も興味深いものがあります。

御名代部

御名(子)代部は、皇族の名秘後世の遺こすために、名を冠した部(私有民が置かれた地)のことです。大化改新後は廃止されました。今日でも各地に跡とされる地名が遺っていて、古代史を垣間見る思いがします。以下紹介してみます。

品治国

古事記によると、十一代垂仁天皇の皇子であった誉津(ほむつ)(品治)別皇子は三十歳になっても言葉を発することができなかったので、天皇は神に占ったところ、出雲の神の崇りだということであったので、品治別皇子を出雲に遣わして、出雲の神を盛大に奉ることにしました。

皇子が出雲に行く道中各地に御名代部として品治部が置かれその一つが後、備後の品治国となったようです。

鳥取

日本書紀は前述の古事記の内容とは異なり、品治別尊はある日、先署同く飛ぶ鳥を仰ぎ見て「あれは何という鳥か」と近臣に尋ねられました。皇子が口をきいたことに喜ばれた天皇は鳥を捕獲することを命じました。

鳥は、出雲または播磨で捕らえられたといわれ、鳥を捕獲する専門の部民集団としての鳥取部や誉津部が置かれました。秋の旅行で探訪する鳥取市もその名を継承したものですが、岡山県に多数遺こる御名代部の中に、赤磐郡赤坂町の鳥取があります。当地は後世、後白河法皇が各地に置いた長講堂という大規模な荘園の一つとなりました。

軽部

赤坂町には鳥取ともう一つ軽部が置かれました。第十九代允恭(いんぎょう)天皇の皇子、木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)の名を冠した部です。皇子は実の妹と関係を持ったため群臣が離反し、自ら命を絶ったといいます。そのようない淫らな皇子であっても御名代部が置かれたことには不可解な気もします。軽部の地名は高梁川下流の清音町にもありますが、やはり御名代部であったと思われます。

高梁

古代史からは逸脱しますが、松山城がそびえる高梁は鎌倉時代までは高橋でした。元弘年間に入部した高橋氏が自分の姓と地名が同じことを嫌い、松山と変えました。

明治初年、頼山陽の詩「高梁川に舟を浮かべる」との詩から高梁と改称し、川辺川と呼ばれていた高梁川もその際名を変えられました。

藤原

允恭天皇の皇后。衣通郎姫(そとおしのいちつめ)は天皇の情を受け、藤原宮に住んだといわれます。天皇は名を後世に遺こすために藤原部を置きましたが、岡山県吉備郡久代村に藤原の字があり部の跡とされます。

刑部

允恭天皇の皇后は忍坂大中姫(おしのさかおおなかひめ)といい、皇后は忍坂宮に住み宮の経営のために各地に設置されたのが刑部と呼ばれた御名代部でありました。その跡とされているのが賀陽町刑部といわれます。

八田部

仁徳天皇の後の皇后、八田皇女(やたのひめみこ)の名に因む部で九月例会を行った真備町の箭田、賀陽町の八田部村と伝えられます。

日下部

同じく仁徳天皇の皇子。大日下王の御名代部であり、矢掛町の草壁と伝わります。

以上、御名代部の一部についてご紹介しましたが、岡山県には日本武尊の伝承の地として、父である景行天皇が設置した建部があります。

建部

御津郡建部町がその跡の一つといわれます。朝廷の軍事的任務を負っていたという建部の実態は、地元に尋ねても今日では分からないとのことでした。他に、湯原町に建部神社があります。

渡来人にまつわる地名

児島半島が島であった頃、現在の倉敷市街地一帯は穴の海と呼ばれていました。それは漢(あや)の海が転じた名だそうです。倉敷の東に阿知という地がありますが、漢人の祖である阿知使主(あちのおみ)に因む地名と推測されます。新見もまた、新漢部(いまきのあやべ)が新部(にひべ)に更に新見へと転じたといいます。雑駁ですが吉備に遺こる古代の地名を、古代史と共に辿ってみました。