神石の人、武島種一さん

創立32年を迎えた備陽史探訪の会

いろんな人々に支えられてここまで来た

中でも神石郡神石高原町相度の人、武島種一さんにはお世話になった。

昭和63年5月例会での武島さん(右端の人)

西城町大富山城址本丸にて

西城町大富山城址本丸にて

同氏が備陽史探訪の会に入られたのははっきりしないが、会報10号の「例会寸評」によると、昭和58年1月の「歴史談話会」に始めて参加されて(多分入会)。以後、会の行事のたびに参加され、同年の4月3日には早くも例会を担当され、バスで神石町(当時)の史跡を案内されている。因みに、この神石例会が備陽史探訪の会のバス例会の始となったのは知る人ぞ知る事実である。

昭和62年4月、田口現会長の出版記念パーティーにて

右手前の席で、手帳を手にメモされている方が武島氏

田口現会長の出版記念パーティーにて

以後

昭和59年6月24日、バス例会「帝釈の史跡めぐり」

昭和60年11月24日、バス例会「備北宮氏を訪ねて」

昭和62年6月21日、バス例会「甲奴郡の史跡めぐり」

昭和63年5月15日、バス例会「備北の宮氏を訪ねてⅡ」

平成元年5月21日、バス例会「高野町の史跡めぐり」

と次々に例会を担当された。

だが、その後武島さんのお声を会でお聞きすることはなくなった。

 平成元年11月15日、70歳を一期として急逝されたのであった。

広大によって発掘される辰口古墳

広大によって発掘される辰口古墳

武島さんのご功績として特筆したいのは現在広島県第2位の前方後円墳として有名な辰口古墳(神石高原町高光)を「発見」されたことである。

同古墳はそれまでも知られていたが、単なる小さな横穴式石室と思われていた。その石室が実は竪穴式石室の小口部が破壊されたものであることを見抜き、広大の古瀬助手(当時)に通報されたのが武島さんであった。その慧眼が磨かれたのは備陽史探訪の会での活動であったことは言うまでもない。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/03/img_0-40.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/03/img_0-40-150x100.jpg管理人事務局だより創立32年を迎えた備陽史探訪の会 いろんな人々に支えられてここまで来た 中でも神石郡神石高原町相度の人、武島種一さんにはお世話になった。 昭和63年5月例会での武島さん(右端の人) 西城町大富山城址本丸にて 同氏が備陽史探訪の会に入られたのははっきりしないが、会報10号の「例会寸評」によると、昭和58年1月の「歴史談話会」に始めて参加されて(多分入会)。以後、会の行事のたびに参加され、同年の4月3日には早くも例会を担当され、バスで神石町(当時)の史跡を案内されている。因みに、この神石例会が備陽史探訪の会のバス例会の始となったのは知る人ぞ知る事実である。 昭和62年4月、田口現会長の出版記念パーティーにて 右手前の席で、手帳を手にメモされている方が武島氏 以後 昭和59年6月24日、バス例会「帝釈の史跡めぐり」 昭和60年11月24日、バス例会「備北宮氏を訪ねて」 昭和62年6月21日、バス例会「甲奴郡の史跡めぐり」 昭和63年5月15日、バス例会「備北の宮氏を訪ねてⅡ」 平成元年5月21日、バス例会「高野町の史跡めぐり」 と次々に例会を担当された。 だが、その後武島さんのお声を会でお聞きすることはなくなった。  平成元年11月15日、70歳を一期として急逝されたのであった。 広大によって発掘される辰口古墳 武島さんのご功績として特筆したいのは現在広島県第2位の前方後円墳として有名な辰口古墳(神石高原町高光)を「発見」されたことである。 同古墳はそれまでも知られていたが、単なる小さな横穴式石室と思われていた。その石室が実は竪穴式石室の小口部が破壊されたものであることを見抜き、広大の古瀬助手(当時)に通報されたのが武島さんであった。その慧眼が磨かれたのは備陽史探訪の会での活動であったことは言うまでもない。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い