10月7日【ぶら探訪】「穴の海の故地穴済、中世芦田川・山陽道を探る」開催
神辺平野にあったと言われ、日本武尊の伝説の残る穴の海。
そしてそこから水が流れ出ていた「穴わたり」のあった中津原周辺を歩きました。
地形、高低差、段差をたどっていくと当時の姿が見えてきました。
横尾駅前に集合し、篠原副会長の挨拶で開始。
今日の案内者は8月に穴の海について発表された瀬良さんです。まず概要の説明があり
狭い横尾の道を通って鶴ヶ橋の下へ。
穴の海にたまった水がここから流れ出ていました。説明を聞きながら想像をめぐらす参加者。
ここが穴の海の跡で、神辺平野で最も低い場所です。ここの土地の低いことは、
高屋川の対岸に渡りると実感できます。中津原で堰き止められて淡水湖ができていたのです。
江戸時代芦田川増水時に逃がし流路であった所に掛かっていた江渡橋跡で。ここから高屋川の対岸までが
中世の芦田川でした。
片山病撲滅の功労者の頌徳日碑の前で。
江戸時代芦田川増水時の逃がし乗り越え堤(ドンドン)とその水が小山地区に流れ込まないように
造られた小山樋門の跡で説明を聞く参加者。
正善寺の横で由緒(元は中世芦田川の中州であった下組地区に有った)を聞く参加者。
その近くには江戸時代義倉田が有り石碑も立っていました。
中世芦田川の南を画し、中州であった下組地区を守っていた堤の跡を説明。
その後江戸時代の山陽道の一里塚が有った場所を確認しました。
最後に横尾駅前で解散となりました。
https://bingo-history.net/archives/18696https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/10/IMG_5153-1024x768.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/10/IMG_5153-150x100.jpg活動報告神辺平野にあったと言われ、日本武尊の伝説の残る穴の海。 そしてそこから水が流れ出ていた「穴わたり」のあった中津原周辺を歩きました。 地形、高低差、段差をたどっていくと当時の姿が見えてきました。 横尾駅前に集合し、篠原副会長の挨拶で開始。 今日の案内者は8月に穴の海について発表された瀬良さんです。まず概要の説明があり 狭い横尾の道を通って鶴ヶ橋の下へ。 穴の海にたまった水がここから流れ出ていました。説明を聞きながら想像をめぐらす参加者。 ここが穴の海の跡で、神辺平野で最も低い場所です。ここの土地の低いことは、 高屋川の対岸に渡りると実感できます。中津原で堰き止められて淡水湖ができていたのです。 江戸時代芦田川増水時に逃がし流路であった所に掛かっていた江渡橋跡で。ここから高屋川の対岸までが 中世の芦田川でした。 片山病撲滅の功労者の頌徳日碑の前で。 江戸時代芦田川増水時の逃がし乗り越え堤(ドンドン)とその水が小山地区に流れ込まないように 造られた小山樋門の跡で説明を聞く参加者。 正善寺の横で由緒(元は中世芦田川の中州であった下組地区に有った)を聞く参加者。 その近くには江戸時代義倉田が有り石碑も立っていました。 中世芦田川の南を画し、中州であった下組地区を守っていた堤の跡を説明。 その後江戸時代の山陽道の一里塚が有った場所を確認しました。 最後に横尾駅前で解散となりました。Sera taisera@pluto.dti.ne.jpEditor備陽史探訪の会