福山藩における亨保の大飢饉

備陽史探訪:75号」より

出内 博都

歴史一口話

福山藩編年史料(土肥文庫)に次のような記録がある。

    浦上村      吉津村
   光福寺過去帳 法真寺過去帳
亨保
一五年  三五
一六年  三一     四二
一七年  三三     四八
一八年  八四    一一九
一九年  三一     四〇
二〇年  一八     三六
二一年  三二     二七

元文
二年   二七
三年   二三

これは右の二ヶ寺年間の死亡者の取扱数である。

徳兵衛餓死イタシ候由、使者ノ申候、使者ハ手城村七介卜申ス者也弥之子分之者也。此者口上ニテ戒号遣ハシ、引導ニハ不参候。補記ノ如キハ諸処ニ記セリ、或ハ他村ノ者ノ福山城下ニ乞食ニ出デ餓死セル者多ク記載アリ、コノ年ノ死亡者取扱数一一九人」

亨保一八年の死者の数は、光福寺の平均値二人・八人の二・九倍、法真寺は平均値三八・八人の三・一倍になっている。

この史料は、所謂「亨保の大飢饉(亨保一七年=一七三二)」の餓死者の反映である。当時の村の人口が何人いたか、村に寺がいくらあったか、死者の全てを寺が管理したのか(勿論、寺請制度だから大部分は取扱っていただろうが)どうかもわからない、実数はどうかと言うのでなく、近世の三大飢饉の一つと言われる歴史上の史実がこんな身近な形で具体的に体験することができることは、史料あさりの楽しみの一つである。

亨保の大飢饉は亨保十七年(一七三二)に発生した。日本歴史大辞典(河出書房)によれば、伊勢・近江以西の西国一帯にわたり、特に西海道(九州)が最もひどく、南海(四国)・山陽・山陰がこれについだ。前年の冬気候不順で五、六月にいたるまで昼夜の別なく暴雨が続き、気温また寒冷をきわめた。そして先ず西国表の諸国に「大きさ黄金虫の如く、形、甲冑を帯したるに似」た蝗虫が群生一夜のうちに稲数万石を喰い尽くす勢いで次第に隣国に移り畿内にまで及んだ。・・とある。この虫をイナゴといったり、ウンカといったり諸書区々であるが、天候不順よりくる害虫発生による天災型の大飢饉であった。各藩から幕府に出した払下米の申請書「虫付損耗留書」によれば、物成(年貢)半減以下の諸藩は鹿児島藩を除く西海道二七藩紀伊藩を除く南海道一〇藩、山陽道四藩、山陰道四藩、機内一藩で、その合計本高四九一万石、過去五ヶ年平均収穫高二三六万石であるのに、この年の収穫高は僅かに六二万八〇〇〇石にすぎず、幕府は大阪から二一万七五二五石を被害地へ向けて発送した。なお、「徳川実記」によれば「すべて山陽・西国・四国等にて餓死するもの九十六万九千九百人とぞ聞こえし」とある。

飢餓数は幕府・旗本領合わせて六七万人と言うから、当時の中・四国・九州の人口七三三万四千三百(亨保六年、国史大辞典による)の約三六パーセントにあたり、餓死者九十六万九千九百人は全人口の一三・二パーセントにあたる。全地域を平均で見るとは一三・二パーセントと実感をともなわないが、各藩や地域差によってはかなり悲惨な状態があったと思われる。この飢饉にまつわるエピソードとして、巷間に伝わるものとして

①麦種を枕に餓死した義民、作兵衛という伊予藩の農民、麦種はどうしても次の生産のために残さなくてはと餓死して節を守った義民として後世からあがめられた。ちなみに伊予藩に餓死者が多かったということで、藩主松平定英は将軍から出仕を止められた藩である。

②西国のお大尽、百両握ったまま空腹死、この年西国では行き倒れてそのまま餓死する者が続出したが、なかに一人の立派な男が哀れにも餓死していた。役人が調べてみると、手付かずの百両という大金を首にかけたままだった。お金があっても茶碗一杯の飯さえ入手できず、哀れな死をとげた象徴的なエピソードである。

③「土之助」という奇名の由来・・西国のさる大家の女中と下男の夫婦は貧乏と飢饉のため可愛い坊やが育てられずやむなく泣きながら此の子をうめた、その主筋にあたる家の子供が、ある日遊びにふけりながら、ふとその土を掘ってみると、そこにまだ息のある赤ン坊が可愛い顔をのぞかせたのでビックリ仰天、母親にそのことを告げた、母も驚きさっそく赤チャンを掘り出した。お湯にいれ薬など与え、乳を呑ませるなどしてやっと生き返った。成長した赤ン坊は二、三才の頃、耳から土が出たことがあった。この子はすくすくと成長し、たくましい男になった。主人はこの子に「土之助」という名をつけた。この子の外にも同様に死の深淵から甦った子供の名は、それが女の子なら「蘇(そ)め」とか「甦(そ)や」と名つけられたし、男なら「飢助(きすけ)」とか、「蘇助(そすけ)」など異様でおかしな名をつけた(整政豊年記)。

福山藩では亨保十七年十二月幕府の御触書きをその都度伝えているが特に藩独自のものはみあたらない。御触書きの内容は

・・・凶年之手当ハ、国主・領主兼て可申付は勿論に候。然共今年の虫損亡は夥敷儀にて、地頭之精力計にては難叶相聞候、百姓、町人之内にても、身上相応に助力致、来春麦作、出来迄之内、飢をつなぎ候様に勘弁候て、いか様に成共いたし、餓死、多無之様に、心之及候程は、作略致し可申事に候・・

と国を挙げての協力を説き、しかる上で

・・多飢人等も有之候ハバ、可為越度候、面々、無油断可申付儀には候得共・・

とにらみをきかし藩を督励している、松山藩主・松平定英の出仕停止処分もこうした背景のなかで行われたものである。

福山藩では浦上村光福寺の過去帳に

・・亨保十七年壬子歳七月・・此頃うんか発生狸獗ス、各村ノ寺院ニ於イテ百萬遍ノ回向ヲシテ退散ノ祈祷ヲ行ウ・・

とあるように、領内の神社・仏閣に祈念・祈祷を命じている(福山市史)。幕府の御触書きは何回かでているが、それに応じて町人も協力した。編年史料に「小早河家古記録・弥治兵衛代」として

亨保十八年丑歳正月、御代官様より御触有之飢人施行之為、持米可差出之由被仰候ニ付正月廿三日、去亥歳之貯へ米之内、壱石、差出申候事

の史料もある。この史料の(註)として

亨保十七年九月、幕府ヨリ福山藩ヘハ、救米買入代金、壱萬両ノ拝借金ヲ許サレタル

の記事があるが、如何なる史料に基づいたものかは不明である。

記録史料の少ない当時として生々しい実態はわからないが、前出の浦上村光福寺の過去帳の八四人という死者は当時の人口八六〇人(便宜上、福山志料による)の九・七パーセント、吉津村の場合の一一九人は当時の人口一〇一六人の一一・七パーセントである。この死亡率の高さ、ちなみに現在の福山市になおせば年間四万人に近い死者をだしたことになる。この小さな過去帳が何より雄弁にこの大飢饉の惨状を物語っていると言えよう。

管理人近世近代史「備陽史探訪:75号」より 出内 博都 歴史一口話 福山藩編年史料(土肥文庫)に次のような記録がある。     浦上村      吉津村    光福寺過去帳 法真寺過去帳 亨保 一五年  三五 一六年  三一     四二 一七年  三三     四八 一八年  八四    一一九 一九年  三一     四〇 二〇年  一八     三六 二一年  三二     二七 元文 二年   二七 三年   二三 これは右の二ヶ寺年間の死亡者の取扱数である。 徳兵衛餓死イタシ候由、使者ノ申候、使者ハ手城村七介卜申ス者也弥之子分之者也。此者口上ニテ戒号遣ハシ、引導ニハ不参候。補記ノ如キハ諸処ニ記セリ、或ハ他村ノ者ノ福山城下ニ乞食ニ出デ餓死セル者多ク記載アリ、コノ年ノ死亡者取扱数一一九人」 亨保一八年の死者の数は、光福寺の平均値二人・八人の二・九倍、法真寺は平均値三八・八人の三・一倍になっている。 この史料は、所謂「亨保の大飢饉(亨保一七年=一七三二)」の餓死者の反映である。当時の村の人口が何人いたか、村に寺がいくらあったか、死者の全てを寺が管理したのか(勿論、寺請制度だから大部分は取扱っていただろうが)どうかもわからない、実数はどうかと言うのでなく、近世の三大飢饉の一つと言われる歴史上の史実がこんな身近な形で具体的に体験することができることは、史料あさりの楽しみの一つである。 亨保の大飢饉は亨保十七年(一七三二)に発生した。日本歴史大辞典(河出書房)によれば、伊勢・近江以西の西国一帯にわたり、特に西海道(九州)が最もひどく、南海(四国)・山陽・山陰がこれについだ。前年の冬気候不順で五、六月にいたるまで昼夜の別なく暴雨が続き、気温また寒冷をきわめた。そして先ず西国表の諸国に「大きさ黄金虫の如く、形、甲冑を帯したるに似」た蝗虫が群生一夜のうちに稲数万石を喰い尽くす勢いで次第に隣国に移り畿内にまで及んだ。・・とある。この虫をイナゴといったり、ウンカといったり諸書区々であるが、天候不順よりくる害虫発生による天災型の大飢饉であった。各藩から幕府に出した払下米の申請書「虫付損耗留書」によれば、物成(年貢)半減以下の諸藩は鹿児島藩を除く西海道二七藩紀伊藩を除く南海道一〇藩、山陽道四藩、山陰道四藩、機内一藩で、その合計本高四九一万石、過去五ヶ年平均収穫高二三六万石であるのに、この年の収穫高は僅かに六二万八〇〇〇石にすぎず、幕府は大阪から二一万七五二五石を被害地へ向けて発送した。なお、「徳川実記」によれば「すべて山陽・西国・四国等にて餓死するもの九十六万九千九百人とぞ聞こえし」とある。 飢餓数は幕府・旗本領合わせて六七万人と言うから、当時の中・四国・九州の人口七三三万四千三百(亨保六年、国史大辞典による)の約三六パーセントにあたり、餓死者九十六万九千九百人は全人口の一三・二パーセントにあたる。全地域を平均で見るとは一三・二パーセントと実感をともなわないが、各藩や地域差によってはかなり悲惨な状態があったと思われる。この飢饉にまつわるエピソードとして、巷間に伝わるものとして ①麦種を枕に餓死した義民、作兵衛という伊予藩の農民、麦種はどうしても次の生産のために残さなくてはと餓死して節を守った義民として後世からあがめられた。ちなみに伊予藩に餓死者が多かったということで、藩主松平定英は将軍から出仕を止められた藩である。 ②西国のお大尽、百両握ったまま空腹死、この年西国では行き倒れてそのまま餓死する者が続出したが、なかに一人の立派な男が哀れにも餓死していた。役人が調べてみると、手付かずの百両という大金を首にかけたままだった。お金があっても茶碗一杯の飯さえ入手できず、哀れな死をとげた象徴的なエピソードである。 ③「土之助」という奇名の由来・・西国のさる大家の女中と下男の夫婦は貧乏と飢饉のため可愛い坊やが育てられずやむなく泣きながら此の子をうめた、その主筋にあたる家の子供が、ある日遊びにふけりながら、ふとその土を掘ってみると、そこにまだ息のある赤ン坊が可愛い顔をのぞかせたのでビックリ仰天、母親にそのことを告げた、母も驚きさっそく赤チャンを掘り出した。お湯にいれ薬など与え、乳を呑ませるなどしてやっと生き返った。成長した赤ン坊は二、三才の頃、耳から土が出たことがあった。この子はすくすくと成長し、たくましい男になった。主人はこの子に「土之助」という名をつけた。この子の外にも同様に死の深淵から甦った子供の名は、それが女の子なら「蘇(そ)め」とか「甦(そ)や」と名つけられたし、男なら「飢助(きすけ)」とか、「蘇助(そすけ)」など異様でおかしな名をつけた(整政豊年記)。 福山藩では亨保十七年十二月幕府の御触書きをその都度伝えているが特に藩独自のものはみあたらない。御触書きの内容は ・・・凶年之手当ハ、国主・領主兼て可申付は勿論に候。然共今年の虫損亡は夥敷儀にて、地頭之精力計にては難叶相聞候、百姓、町人之内にても、身上相応に助力致、来春麦作、出来迄之内、飢をつなぎ候様に勘弁候て、いか様に成共いたし、餓死、多無之様に、心之及候程は、作略致し可申事に候・・ と国を挙げての協力を説き、しかる上で ・・多飢人等も有之候ハバ、可為越度候、面々、無油断可申付儀には候得共・・ とにらみをきかし藩を督励している、松山藩主・松平定英の出仕停止処分もこうした背景のなかで行われたものである。 福山藩では浦上村光福寺の過去帳に ・・亨保十七年壬子歳七月・・此頃うんか発生狸獗ス、各村ノ寺院ニ於イテ百萬遍ノ回向ヲシテ退散ノ祈祷ヲ行ウ・・ とあるように、領内の神社・仏閣に祈念・祈祷を命じている(福山市史)。幕府の御触書きは何回かでているが、それに応じて町人も協力した。編年史料に「小早河家古記録・弥治兵衛代」として 亨保十八年丑歳正月、御代官様より御触有之飢人施行之為、持米可差出之由被仰候ニ付正月廿三日、去亥歳之貯へ米之内、壱石、差出申候事 の史料もある。この史料の(註)として 亨保十七年九月、幕府ヨリ福山藩ヘハ、救米買入代金、壱萬両ノ拝借金ヲ許サレタル の記事があるが、如何なる史料に基づいたものかは不明である。 記録史料の少ない当時として生々しい実態はわからないが、前出の浦上村光福寺の過去帳の八四人という死者は当時の人口八六〇人(便宜上、福山志料による)の九・七パーセント、吉津村の場合の一一九人は当時の人口一〇一六人の一一・七パーセントである。この死亡率の高さ、ちなみに現在の福山市になおせば年間四万人に近い死者をだしたことになる。この小さな過去帳が何より雄弁にこの大飢饉の惨状を物語っていると言えよう。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
詳しくは以下のリンクをご覧ください。 近世福山の歴史を学ぶ