中世史へのアプローチ~福山市千田地区の場合~
「備陽史探訪:52号」より
出内 博都
深安郡千田村は元禄検地帳によれば五一七石六斗八升八合の村であるが、福山市街から峠一つこえた神辺平野の一角にあるので現在は勿論、近世以降めまぐるしく変貌をとげた地域の一つである。古代においてはいわゆる穴の海の入江の一つで良港と市で栄えた蔵王の深津市と山陽道の宿駅神辺とを結ぶ幹線道の沿線として古くから開発された地域である。
千塚古墳群や、蔵王原遺跡については有名であるが、中世の村づくりのあとは必ずしも明らかでない。西備名区によれば、康正二年(一四五六)の造内裏段銭引付に「三貫三百甘文、大和弥九郎殿備後十田村段銭、案に十田村は千田村の誤りなるべし」という旨の記事と、天文十七年の神辺城攻の時、蔵王山の北麓に向い城を作って三年間在職した平賀氏(賀茂郡高屋の城主)の逸話を伝えている。
然しこの城については神辺の要害山麓の「安芸丸」との伝承もあり明らかでない。千田という自然村落がいつ成立し、どのような政治関係の中で近世の村になったかは判らない。古代については深津郡中海郷(なかつわだごう)に属しており文字通り穴の海の入江であったと思われる。検地帳によれば、①横ケ市谷、②大さこ谷、③岡谷、④ニツ川、⑤宇山谷、⑥中条坊谷、⑦猫ケ市谷、⑧井坂谷、⑨弓場谷、⑩たわ谷、⑪横尾谷、⑫本谷、⑬おさる谷、⑭池口谷などの地区に分かれ、幾百という固有地名を伝えている。番地制のない当時として個々の耕地をより具体的に表現しようとする努力がうかがえる。
それらの地名の中で、土井土(居)、小土井、弓場、かりば、刑部田、孫才などは、峠山(盈進高校のある山)の南東麓の現千田町の心臓部にまとまっており、どうみても中世土豪の村造りの中心をなした地域と思える。
この村がどんな政治関係の中で成長したかはわからないが、大まかにみて、備南の土豪として一時勢力をはった杉原氏の圏内であった事は考えられるが、具体的には前出の大和氏、平賀氏の断片的伝承記録の他に、宇治山城、宇治入道法圓の名が伝わっている。(西備名区)
宇治山城は千田と神辺の境にあり、現在は全山とり崩して天理教会の建っている小さな山城で、福山城の古文書館の高田文庫の中にある某氏の見取図から復原すると東西に二十米程の小城である。
福山市古文書館所蔵 高田文庫にある某氏の鳥敵図をもとに復元(昭和24年12月24日踏査)
方形プランの団郭式山城土居を兼ねた居住性も考えられる。
これは村造りの中心であり、いざという時の詰の城とも思えないものである。宇治入道なる人物も不明であるが、おそらく附近の城主又はそれに連なる者が宇治山に築いた隠居城であったものと思える。(附近の勢力圏からみておそらく杉原氏の一族と思える)
そうであるとすると峠山(たおやま)(おそらく山城跡であったと推定される)の東南麓の諸施設は誰のものかということになる。(前出の地名の中で孫才(まごさい)は馬子宰ではないか、おそらく軍事的に重要な馬の飼育管理の施設と思える)
千田の古地名で〇〇免という免田が少ない事、弥次郎門(かど)、惣市郎前、みつもと、孫七分、治助分、久蔵分、与五郎谷など人名の地名が多いことなどの特色がある。(これをどう考えるか一つの課題である)
自然条件での地形の変化が著しく又人的開発の進展の多い地域なので古地名が失われた事は否めないが、山城と土居と垣内(かいと)(がーち)がセットになった自然村落と考えられる。
この観点からみると蓮池の西方で然も国道三一三号と一八二号バイパスの交叉点につき出た山が検地帳で池口谷の「城山」として出ている。
城山を背にして、土居、小土居、弓場、かり場、猫が市、横が市、孫才と見事な設定をしている。この城山にはたしかに郭状の平坦地が数段あるが詳細は未調査である。
こうした現地の状況の中で歴史の主役となる人物は果して誰か、入江の寒村中海郷から千田村になるのはいつか、これを語る史料はないが、長禄三年(一四五七)六月二日付、足利義政御判御教書(越佐史料三=角川地名辞典)の大和梅茶法師所領安堵状の中に「吉津荘内千田村」と出ている。
この吉津荘は「経俊卿記」正嘉元年(一二五七)九月十一日の条や、正安三年(一三〇一)九月十一日付前勘解由次官頼経奉書(壬生家文書)に「備後国吉津庄、貞応以後新立庄候」とあるが、貞応は一二二二年~一二二三年でかなり古い荘園といえる。
その後正平八年(一三五二)十一月廿四日、足利直冬が吉津庄内木庄を周防阿弥陀寺に寄進している。これらからみて吉津荘の成立は鎌倉初期でその中に千田も含まれるとすればこのへんが千田村という村の最古の歴史といえよう。
然もその吉津荘が延徳五年(一四九三)に「吉津保上分」この場合保は荘園とみてよいが在地の武士(杉原氏か)によって押領されている記録もある(室町幕府奉行人連署奉書案=北野社家日記)
又福山志料には吉津の永徳寺開基寂室和尚の語録の中に「建武元年備後州吉津平居士雅響師道其室竹居…」とあり、この平居士が杉原氏とすれば早くから杉原氏と吉津荘従って荘内の千田村とも杉原氏は関係あったと思える。然し千田に残る人物伝承は前出の大和弥九郎である。
この大和氏は杉原氏と同族で、垣平の子宗平が大和系を名のり弟光平が杉原系を名のっている。この大和氏は幕府の奉公衆で、三河国や丹後国にも所領を持っているがその一族が杉原氏を頼って早くからこの地に勢力をはったものと思える。
前出の大和梅茶法師は大和氏がこの地を代官支配していた証といえよう。大和氏がその本拠を丹後国河守郷(段銭九貫五百九十文)におき、奉公衆として京に住み、代官支配をした千田村であるし、又、いざというとき同族杉原氏の勢力圏内にあることから山城には重きをおかず初期のまゝで荒廃したのではないかと思える。
吉津の荘との関連で千田の中世史へのアプローチを試みたが、当然附近の奈良津、薮路、坂田との関連を考えねばならないと思う。大和弥九郎と同時期の大和氏は大和々々守、同佐渡守、同彦三郎、同坂田次郎左衛門尉(千田坂田村と関係あるか?)同兵庫助(芦品郡杵磨領主)同三重左京亮などが常徳院御動座当時在陣衆着到「東山時代大名外様附」(群書類従)に出ている。
こうした一族が中国路に所領をもち奉公衆を勤めていたと思われる。
https://bingo-history.net/archives/13735https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/ca05f1acadc4556ff49ce5427e363259.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/ca05f1acadc4556ff49ce5427e363259-150x100.jpg中世史「備陽史探訪:52号」より 出内 博都 深安郡千田村は元禄検地帳によれば五一七石六斗八升八合の村であるが、福山市街から峠一つこえた神辺平野の一角にあるので現在は勿論、近世以降めまぐるしく変貌をとげた地域の一つである。古代においてはいわゆる穴の海の入江の一つで良港と市で栄えた蔵王の深津市と山陽道の宿駅神辺とを結ぶ幹線道の沿線として古くから開発された地域である。 千塚古墳群や、蔵王原遺跡については有名であるが、中世の村づくりのあとは必ずしも明らかでない。西備名区によれば、康正二年(一四五六)の造内裏段銭引付に「三貫三百甘文、大和弥九郎殿備後十田村段銭、案に十田村は千田村の誤りなるべし」という旨の記事と、天文十七年の神辺城攻の時、蔵王山の北麓に向い城を作って三年間在職した平賀氏(賀茂郡高屋の城主)の逸話を伝えている。 然しこの城については神辺の要害山麓の「安芸丸」との伝承もあり明らかでない。千田という自然村落がいつ成立し、どのような政治関係の中で近世の村になったかは判らない。古代については深津郡中海郷(なかつわだごう)に属しており文字通り穴の海の入江であったと思われる。検地帳によれば、①横ケ市谷、②大さこ谷、③岡谷、④ニツ川、⑤宇山谷、⑥中条坊谷、⑦猫ケ市谷、⑧井坂谷、⑨弓場谷、⑩たわ谷、⑪横尾谷、⑫本谷、⑬おさる谷、⑭池口谷などの地区に分かれ、幾百という固有地名を伝えている。番地制のない当時として個々の耕地をより具体的に表現しようとする努力がうかがえる。 それらの地名の中で、土井土(居)、小土井、弓場、かりば、刑部田、孫才などは、峠山(盈進高校のある山)の南東麓の現千田町の心臓部にまとまっており、どうみても中世土豪の村造りの中心をなした地域と思える。 この村がどんな政治関係の中で成長したかはわからないが、大まかにみて、備南の土豪として一時勢力をはった杉原氏の圏内であった事は考えられるが、具体的には前出の大和氏、平賀氏の断片的伝承記録の他に、宇治山城、宇治入道法圓の名が伝わっている。(西備名区) 宇治山城は千田と神辺の境にあり、現在は全山とり崩して天理教会の建っている小さな山城で、福山城の古文書館の高田文庫の中にある某氏の見取図から復原すると東西に二十米程の小城である。 福山市古文書館所蔵 高田文庫にある某氏の鳥敵図をもとに復元(昭和24年12月24日踏査)方形プランの団郭式山城土居を兼ねた居住性も考えられる。 これは村造りの中心であり、いざという時の詰の城とも思えないものである。宇治入道なる人物も不明であるが、おそらく附近の城主又はそれに連なる者が宇治山に築いた隠居城であったものと思える。(附近の勢力圏からみておそらく杉原氏の一族と思える) そうであるとすると峠山(たおやま)(おそらく山城跡であったと推定される)の東南麓の諸施設は誰のものかということになる。(前出の地名の中で孫才(まごさい)は馬子宰ではないか、おそらく軍事的に重要な馬の飼育管理の施設と思える) 千田の古地名で〇〇免という免田が少ない事、弥次郎門(かど)、惣市郎前、みつもと、孫七分、治助分、久蔵分、与五郎谷など人名の地名が多いことなどの特色がある。(これをどう考えるか一つの課題である) 自然条件での地形の変化が著しく又人的開発の進展の多い地域なので古地名が失われた事は否めないが、山城と土居と垣内(かいと)(がーち)がセットになった自然村落と考えられる。 この観点からみると蓮池の西方で然も国道三一三号と一八二号バイパスの交叉点につき出た山が検地帳で池口谷の「城山」として出ている。 城山を背にして、土居、小土居、弓場、かり場、猫が市、横が市、孫才と見事な設定をしている。この城山にはたしかに郭状の平坦地が数段あるが詳細は未調査である。 こうした現地の状況の中で歴史の主役となる人物は果して誰か、入江の寒村中海郷から千田村になるのはいつか、これを語る史料はないが、長禄三年(一四五七)六月二日付、足利義政御判御教書(越佐史料三=角川地名辞典)の大和梅茶法師所領安堵状の中に「吉津荘内千田村」と出ている。 この吉津荘は「経俊卿記」正嘉元年(一二五七)九月十一日の条や、正安三年(一三〇一)九月十一日付前勘解由次官頼経奉書(壬生家文書)に「備後国吉津庄、貞応以後新立庄候」とあるが、貞応は一二二二年~一二二三年でかなり古い荘園といえる。 その後正平八年(一三五二)十一月廿四日、足利直冬が吉津庄内木庄を周防阿弥陀寺に寄進している。これらからみて吉津荘の成立は鎌倉初期でその中に千田も含まれるとすればこのへんが千田村という村の最古の歴史といえよう。 然もその吉津荘が延徳五年(一四九三)に「吉津保上分」この場合保は荘園とみてよいが在地の武士(杉原氏か)によって押領されている記録もある(室町幕府奉行人連署奉書案=北野社家日記) 又福山志料には吉津の永徳寺開基寂室和尚の語録の中に「建武元年備後州吉津平居士雅響師道其室竹居…」とあり、この平居士が杉原氏とすれば早くから杉原氏と吉津荘従って荘内の千田村とも杉原氏は関係あったと思える。然し千田に残る人物伝承は前出の大和弥九郎である。 この大和氏は杉原氏と同族で、垣平の子宗平が大和系を名のり弟光平が杉原系を名のっている。この大和氏は幕府の奉公衆で、三河国や丹後国にも所領を持っているがその一族が杉原氏を頼って早くからこの地に勢力をはったものと思える。 前出の大和梅茶法師は大和氏がこの地を代官支配していた証といえよう。大和氏がその本拠を丹後国河守郷(段銭九貫五百九十文)におき、奉公衆として京に住み、代官支配をした千田村であるし、又、いざというとき同族杉原氏の勢力圏内にあることから山城には重きをおかず初期のまゝで荒廃したのではないかと思える。 吉津の荘との関連で千田の中世史へのアプローチを試みたが、当然附近の奈良津、薮路、坂田との関連を考えねばならないと思う。大和弥九郎と同時期の大和氏は大和々々守、同佐渡守、同彦三郎、同坂田次郎左衛門尉(千田坂田村と関係あるか?)同兵庫助(芦品郡杵磨領主)同三重左京亮などが常徳院御動座当時在陣衆着到「東山時代大名外様附」(群書類従)に出ている。 こうした一族が中国路に所領をもち奉公衆を勤めていたと思われる。管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
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