胎蔵寺本尊「釈迦如来坐像」胎内経の記載をめぐって

備陽史探訪:142号」より

出内 博都

本尊修理にあたってその胎内から写経・願文をはじめ多くの施入品が発見され、貴重な史料になることは多くある。このたびの解体修理にも多くの事柄が発見されたようである。胎内施入品があることは一応知っていたが、解体・取り出しの実演の映像を見るのは初めてで驚くばかりだった。

第一に三百点に近い数の多さである。特に仏頭部分に金鋼製五輪塔型舎利容器(写真①)及び法華経写本(杉原親光筆、約三八メートルの巻物状の妙法蓮華経)、胴体部分の観世音経(版本・写経)。願文及び梱包在などである。いかに多くの信者が祈りを込めたものかと、中世社会を垣間見る思いであった。胎蔵寺は備後宮氏や福島氏に関連を持つ名刹で、水野氏の福山築城に関連する寺で、城山にあった常興寺の本尊である釈迦三尊像を移して胎蔵寺の旧称を生かした伝承をもつ寺である。

写真① 金銅製五輪塔型舎利容器
写真① 金銅製五輪塔型舎利容器

したがってこの本尊が何時・誰によって作られたかは願主椙原親光の法華経写本の奥書によって分かる(写真②)。(四月二十日特別公開解説書口語訳によれば)

・・右の様に、ご本尊一体を造立し、八軸の法華経を書写しました、これは、今年が祖母の寂妙禅尼の十三回忌に相当たるので、祖母によって育てられた恩に報い徳に感謝するためです、微力ですが精一杯心をこめて、大功が成就するよう努力します(略)三宝が必ず私を哀れ思召し、祖母が成仏でき、又等しく仏のご利益(りやく)を得られますように、心からお願い申し上げます 敬白
貞和三年 丁亥 暮春下三日
        民部大丞平朝臣
        親光 敬白(平朝臣親光は浄土寺の他の文書によって椙原親光ということが判明している)

写真②
写真②

次にこのご本尊が何処の寺へ納められたのかは次の文書で判明できる。この寺が何処にあるかついては、同じ史料の「略法華経奥書」(写真③)に(口語訳)に

継宗上座が所持する略法華経一部を日本国備後州深津郡椙原保にある常興禅寺の大仏殿の本尊釈迦如来像の中に奉納する。この功徳を普く一切の人々に及ぼし、継宗とすべての人が悟りを開くことができますように、ひたすらこい願う 貞和三年三月十六日 住持である僧 曇雙心華が書く

写真③略法華経奥書
写真③略法華経奥書

とあり、更に別の版本観世音経の奥書(写真④)に、先妣(亡き母=尼)心蓮所持の晋門品奉納

日本国備後州深津郡椙原保常興禅寺大仏殿本尊釈迦牟尼如来像中・・・

写真④版本観世音経
写真④版本観世音経

(以下写真不鮮明で略す)と記した、近くの寺の住持の記入がある。これは、永仁六年五月一日に入手した経本で、奉納は貞和三年丁亥まで読める(以下は不鮮明で読めない)。

以上の史料で、本尊釈迦如来座像は貞和三年制作で、従来の説より約一〇〇年さかのぼるとみられ、県内の仏像群の作成年代の見直しおも迫るのではないかともみられている。

更に重要なのはこれらの奥書にでる「備後州深津郡椙原保」という地名である。伊勢平氏の系譜を持ち、幕府引付の諸役に任じ備後の国人土豪として備後各地に勢力を張った杉原氏の備後の基点となった「杉原保」は尾道の山間部の小原椙原(旧御調郡原田村)でなく海にひらけた旧深津郡の現地が中心拠点だったのではないだろうか、臨済宗本山永源寺(滋賀県)の開祖園応禅師寂室元光が中国留学から帰った後の行状記にでる

備後州吉津平居士・・其室武居・・宅を捨てて師に施し韜光庵と名く・・

この寺は後に規模を拡大して永徳寺と名乗り、二十年にわたって禅師の三備・美作布教の基盤となった(この寺は大利であったが、近世中期には廃寺になった)ことや、建武三年足利尊氏の九州下向の際、能満寺(現福山市西町)の住持直観(杉原兄弟の伯父)の勧めによって、杉原信平・為平の兄弟が参戦し軍功を立て、御調郡木梨十三カ村(尾道市木ノ庄町)を給されたなどのことも、既にこの頃杉原氏がこの地方に勢力を張っていたためだろう。

更にこれらの地名について陳列してあった写経奥書に

‥吉津庄白子村韜光庵

とあったがこのお経を奉納した人はこの寺の住職らしいが名前(慈聖?)は充分読み取れなかったが、吉津庄白子村の地名に心をひかれた。ここからは胎内経とは別に吉津庄のことについて考えてみよう。

吉津庄をめぐって

(是以後の諸史料の多くは小林定市さんの「吉津庄関係史料」を参考にした)

吉津庄は備後南部では最も広域の荘園の一つで、所領関係も複雑でよく分からない点も多い荘園である。現在の福山市吉津町を中心に福山市街北部地域に限定されて認識されているようであるが、中世には現在の蔵王町・春日町宇山・千田町一帯を含む広大な荘園であったと思われる。荘園の成立年代については『経俊卿記』に正嘉元年(一二五七)九月廿一日の条に

武家吉津庄事之を申す,猶評定有る可き之由之を仰せ下さる可き

とあり、次いで正安三年(一三〇一)九月十一日付前勘解由次官頼経奉書(壬生家文書)に「備後国吉津庄、貞応以後新立庄候」とあり、貞応年号は一三二二年~一三二三年で承久の乱の翌年である。乱後公武の妥協で新立荘園が増え、西国に新補地頭が多く配置される時期である。文書の年代から荘園成立の後に論議があった事がわかるが、設立の時、何か問題があったのだろうが、詳しい事はわからない。其の後、正平八年(一三五二)十一月十四日、足利直冬(南朝方、九州より上洛進攻中)が吉津庄内木庄を周防国阿弥陀寺に寄進した文書がある。(周防阿弥陀寺文書=南北朝遺文、しかしこれの実効のほどはわかってない)。其の後、将軍足利義政袖判御教書(長禄三年=一四五九二ハ月二日『越佐史料』)に、和泉国神野庄・但馬国新田庄・参河国一木今岡・越後国漆山・同赤谷村・豊前国今任・垣弘と並んで、「備後国吉津庄内千田村」が、

早大和梅茶法師(新左衛門入道)相伝領掌、不可有相違之状如件

と室町幕府の有力奉公衆大和氏の所領になっている。(康正二年=一四五九年、造内裏段銭并国役引付によれば、大和氏は丹後国を本官地とし丹波・但馬・和泉・備後などの九ケ所に所領を持ち、四十二貫三百十文の段銭を納めており、杉原氏は八ケ所で四十八貫三百六十文の段銭を納めている)更に延徳二年=一四九〇年の室町幕府引付控文書には次の文書がある。

「備後国吉津庄内市村地頭方代官職并梅津蔵龍院領同庄内上山村事」という文書の中に市村代官職は宮下野守(政盛)が度々の御成敗に関わらず去年避状を出しながら在所を渡さず、上山村については、先祖供養のため寄進した土地で前からの知行地であるといって、一乱(応仁の乱)以来押領しているので回復したいという文書や更に翌年延徳三年には「北野宮寺備後国吉津保上分事」という文書に、吉津庄保上分が押領されたので重要な神事仏事が行われないのは、甚だ不都合なことだ、任務を果たして神事が行われるよう努力せよという命令が幕府奉行人で社家奉行松田長秀から守護代にだされている。蔵王は古代には深津庄として京都仁和寺の荘園だったこともあるがこの時代は吉津庄内であった。ここで「上分」と言うのは寺社領において正規の年貢の外に特別な祈祷・法要など行うための貢納である。吉津庄に対して北野天満宮が上分の得分権をもっていたことが分かる。吉津庄は備南では最大の荘園で開発の進んだ個々の地域がそれぞれの地名をつけて多くの村や保ができていったのだろう、必ずしも○○庄が一つの行政体として統一した行政が行われたものではないだろう。保と言う地域は多くの場合、郷士や刀禰など在地有力者が中心となって開発しその開発者が保司となり国衙の管理下にあっても、保司の私領的の性格の強い土地であったが小規模荘園の一般的呼称となった。吉津保と言う場合庄全体ではなく庄の一部の小地域の表現であろう。北野社が「上分」をもつていた吉津保は現在の蔵王と千田の境に有る磐座(いわくら)から発展した蔵王天神社だったのではないだろうか。

前出の「吉津庄白子村韜光庵・・」に見られる白子村は広域の郡・郷が多くの未耕地を含む包括的に定めた広域地域で、その中を地域ごとに開発して具体的な生活の場としての「ムレ。ムラ」としての村・浦・保などの共同体を構成しそれらが、発展・消滅・分裂人口併を繰り返した歴史の一的だろう、胎内経の奥書で生き返った白子村は寂室元光の韜光庵、その発展としての永徳寺の歴史伝承から見て八幡山から妙政寺へかけての一帯で吉津庄の中心地だったのだろう。《参考》(備陽六郡志、三の福山城下寺院の、龍興寺の項に

此地往古、韜光寺と云う、其後永徳寺と改、臨済宗の寺地なり。その節は東の宮より妙政寺迄永徳寺の境内なり‥略

更に臨済宗弘宗寺の項に「当寺は韜光寺と号して行基菩薩の開基にて、龍興寺に有りけるか、龍興寺、神辺より被転而後、妙政寺の下、松林の所に被移、韜光庵と云」とあり。また、内編巻十の本庄村の項の最後尾に、一禅宗韜光寺とありこの寺は水野氏の城下町建設の中で転変があったらしいが、その後、他地へ再建された)。

すばらしい胎内奉納物に直接触れた感激に酔って駄文をものしましたが、勘違いや誤解があるだろう、博物館の研究報告が待ち遠い昨今である。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/1778d529dfb0cb8d50beee1ace8436e0.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/1778d529dfb0cb8d50beee1ace8436e0-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:142号」より 出内 博都 本尊修理にあたってその胎内から写経・願文をはじめ多くの施入品が発見され、貴重な史料になることは多くある。このたびの解体修理にも多くの事柄が発見されたようである。胎内施入品があることは一応知っていたが、解体・取り出しの実演の映像を見るのは初めてで驚くばかりだった。 第一に三百点に近い数の多さである。特に仏頭部分に金鋼製五輪塔型舎利容器(写真①)及び法華経写本(杉原親光筆、約三八メートルの巻物状の妙法蓮華経)、胴体部分の観世音経(版本・写経)。願文及び梱包在などである。いかに多くの信者が祈りを込めたものかと、中世社会を垣間見る思いであった。胎蔵寺は備後宮氏や福島氏に関連を持つ名刹で、水野氏の福山築城に関連する寺で、城山にあった常興寺の本尊である釈迦三尊像を移して胎蔵寺の旧称を生かした伝承をもつ寺である。 したがってこの本尊が何時・誰によって作られたかは願主椙原親光の法華経写本の奥書によって分かる(写真②)。(四月二十日特別公開解説書口語訳によれば) ・・右の様に、ご本尊一体を造立し、八軸の法華経を書写しました、これは、今年が祖母の寂妙禅尼の十三回忌に相当たるので、祖母によって育てられた恩に報い徳に感謝するためです、微力ですが精一杯心をこめて、大功が成就するよう努力します(略)三宝が必ず私を哀れ思召し、祖母が成仏でき、又等しく仏のご利益(りやく)を得られますように、心からお願い申し上げます 敬白 貞和三年 丁亥 暮春下三日         民部大丞平朝臣         親光 敬白(平朝臣親光は浄土寺の他の文書によって椙原親光ということが判明している) 次にこのご本尊が何処の寺へ納められたのかは次の文書で判明できる。この寺が何処にあるかついては、同じ史料の「略法華経奥書」(写真③)に(口語訳)に 継宗上座が所持する略法華経一部を日本国備後州深津郡椙原保にある常興禅寺の大仏殿の本尊釈迦如来像の中に奉納する。この功徳を普く一切の人々に及ぼし、継宗とすべての人が悟りを開くことができますように、ひたすらこい願う 貞和三年三月十六日 住持である僧 曇雙心華が書く とあり、更に別の版本観世音経の奥書(写真④)に、先妣(亡き母=尼)心蓮所持の晋門品奉納 日本国備後州深津郡椙原保常興禅寺大仏殿本尊釈迦牟尼如来像中・・・ (以下写真不鮮明で略す)と記した、近くの寺の住持の記入がある。これは、永仁六年五月一日に入手した経本で、奉納は貞和三年丁亥まで読める(以下は不鮮明で読めない)。 以上の史料で、本尊釈迦如来座像は貞和三年制作で、従来の説より約一〇〇年さかのぼるとみられ、県内の仏像群の作成年代の見直しおも迫るのではないかともみられている。 更に重要なのはこれらの奥書にでる「備後州深津郡椙原保」という地名である。伊勢平氏の系譜を持ち、幕府引付の諸役に任じ備後の国人土豪として備後各地に勢力を張った杉原氏の備後の基点となった「杉原保」は尾道の山間部の小原椙原(旧御調郡原田村)でなく海にひらけた旧深津郡の現地が中心拠点だったのではないだろうか、臨済宗本山永源寺(滋賀県)の開祖園応禅師寂室元光が中国留学から帰った後の行状記にでる 備後州吉津平居士・・其室武居・・宅を捨てて師に施し韜光庵と名く・・ この寺は後に規模を拡大して永徳寺と名乗り、二十年にわたって禅師の三備・美作布教の基盤となった(この寺は大利であったが、近世中期には廃寺になった)ことや、建武三年足利尊氏の九州下向の際、能満寺(現福山市西町)の住持直観(杉原兄弟の伯父)の勧めによって、杉原信平・為平の兄弟が参戦し軍功を立て、御調郡木梨十三カ村(尾道市木ノ庄町)を給されたなどのことも、既にこの頃杉原氏がこの地方に勢力を張っていたためだろう。 更にこれらの地名について陳列してあった写経奥書に ‥吉津庄白子村韜光庵 とあったがこのお経を奉納した人はこの寺の住職らしいが名前(慈聖?)は充分読み取れなかったが、吉津庄白子村の地名に心をひかれた。ここからは胎内経とは別に吉津庄のことについて考えてみよう。 吉津庄をめぐって (是以後の諸史料の多くは小林定市さんの「吉津庄関係史料」を参考にした) 吉津庄は備後南部では最も広域の荘園の一つで、所領関係も複雑でよく分からない点も多い荘園である。現在の福山市吉津町を中心に福山市街北部地域に限定されて認識されているようであるが、中世には現在の蔵王町・春日町宇山・千田町一帯を含む広大な荘園であったと思われる。荘園の成立年代については『経俊卿記』に正嘉元年(一二五七)九月廿一日の条に 武家吉津庄事之を申す,猶評定有る可き之由之を仰せ下さる可き とあり、次いで正安三年(一三〇一)九月十一日付前勘解由次官頼経奉書(壬生家文書)に「備後国吉津庄、貞応以後新立庄候」とあり、貞応年号は一三二二年~一三二三年で承久の乱の翌年である。乱後公武の妥協で新立荘園が増え、西国に新補地頭が多く配置される時期である。文書の年代から荘園成立の後に論議があった事がわかるが、設立の時、何か問題があったのだろうが、詳しい事はわからない。其の後、正平八年(一三五二)十一月十四日、足利直冬(南朝方、九州より上洛進攻中)が吉津庄内木庄を周防国阿弥陀寺に寄進した文書がある。(周防阿弥陀寺文書=南北朝遺文、しかしこれの実効のほどはわかってない)。其の後、将軍足利義政袖判御教書(長禄三年=一四五九二ハ月二日『越佐史料』)に、和泉国神野庄・但馬国新田庄・参河国一木今岡・越後国漆山・同赤谷村・豊前国今任・垣弘と並んで、「備後国吉津庄内千田村」が、 早大和梅茶法師(新左衛門入道)相伝領掌、不可有相違之状如件 と室町幕府の有力奉公衆大和氏の所領になっている。(康正二年=一四五九年、造内裏段銭并国役引付によれば、大和氏は丹後国を本官地とし丹波・但馬・和泉・備後などの九ケ所に所領を持ち、四十二貫三百十文の段銭を納めており、杉原氏は八ケ所で四十八貫三百六十文の段銭を納めている)更に延徳二年=一四九〇年の室町幕府引付控文書には次の文書がある。 「備後国吉津庄内市村地頭方代官職并梅津蔵龍院領同庄内上山村事」という文書の中に市村代官職は宮下野守(政盛)が度々の御成敗に関わらず去年避状を出しながら在所を渡さず、上山村については、先祖供養のため寄進した土地で前からの知行地であるといって、一乱(応仁の乱)以来押領しているので回復したいという文書や更に翌年延徳三年には「北野宮寺備後国吉津保上分事」という文書に、吉津庄保上分が押領されたので重要な神事仏事が行われないのは、甚だ不都合なことだ、任務を果たして神事が行われるよう努力せよという命令が幕府奉行人で社家奉行松田長秀から守護代にだされている。蔵王は古代には深津庄として京都仁和寺の荘園だったこともあるがこの時代は吉津庄内であった。ここで「上分」と言うのは寺社領において正規の年貢の外に特別な祈祷・法要など行うための貢納である。吉津庄に対して北野天満宮が上分の得分権をもっていたことが分かる。吉津庄は備南では最大の荘園で開発の進んだ個々の地域がそれぞれの地名をつけて多くの村や保ができていったのだろう、必ずしも○○庄が一つの行政体として統一した行政が行われたものではないだろう。保と言う地域は多くの場合、郷士や刀禰など在地有力者が中心となって開発しその開発者が保司となり国衙の管理下にあっても、保司の私領的の性格の強い土地であったが小規模荘園の一般的呼称となった。吉津保と言う場合庄全体ではなく庄の一部の小地域の表現であろう。北野社が「上分」をもつていた吉津保は現在の蔵王と千田の境に有る磐座(いわくら)から発展した蔵王天神社だったのではないだろうか。 前出の「吉津庄白子村韜光庵・・」に見られる白子村は広域の郡・郷が多くの未耕地を含む包括的に定めた広域地域で、その中を地域ごとに開発して具体的な生活の場としての「ムレ。ムラ」としての村・浦・保などの共同体を構成しそれらが、発展・消滅・分裂人口併を繰り返した歴史の一的だろう、胎内経の奥書で生き返った白子村は寂室元光の韜光庵、その発展としての永徳寺の歴史伝承から見て八幡山から妙政寺へかけての一帯で吉津庄の中心地だったのだろう。《参考》(備陽六郡志、三の福山城下寺院の、龍興寺の項に 此地往古、韜光寺と云う、其後永徳寺と改、臨済宗の寺地なり。その節は東の宮より妙政寺迄永徳寺の境内なり‥略 更に臨済宗弘宗寺の項に「当寺は韜光寺と号して行基菩薩の開基にて、龍興寺に有りけるか、龍興寺、神辺より被転而後、妙政寺の下、松林の所に被移、韜光庵と云」とあり。また、内編巻十の本庄村の項の最後尾に、一禅宗韜光寺とありこの寺は水野氏の城下町建設の中で転変があったらしいが、その後、他地へ再建された)。 すばらしい胎内奉納物に直接触れた感激に酔って駄文をものしましたが、勘違いや誤解があるだろう、博物館の研究報告が待ち遠い昨今である。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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