利鎌山城と福田氏(福田氏滅亡説を考える)

備陽史探訪:151号」より

田口 義之

はじめに

有地氏の飛躍は、東隣福田の領主、利鎌山城の福田氏を討ち、その所領を併呑したことにあると言われる。

『西備名区』によると、有地氏が福田氏を滅ぼした経緯については二つの説があった。一つは、山手町の八幡宮の霊験譚ともなっている説で、同書は次のように述べている。

一説に云う。福田遠江守は大内旗下に属す。時に杉原宮内少輔忠興の家士、山手の城主、杉原播磨守(或いは団上監物とも云う)の婿たり。杉原、元大内旗下たりしが、天文の比、雲州の尼子家に属す。有地も尼子に従う。これによって、杉原、有地両士共に尼子に従はんことをすすむ。福田これを容れず、故に不和となり、有地と数度の戦ひ勝負をわかたす。有地ひそかに謀って杉原と示し合わせければ、杉原是を諾してその舅家なるを以て和を計らんと、再三福田を山手に招く。福田其の謀ありとは夢にも知らず、従士僅かにて山手に赴く。有地、兵を俄山に伏せて悉く討ち果たし、直に利鎌山に押し寄せ、其の虚を討って其の城を抜き、福田領悉く押領す。時は天文の末なるよし云へり

実際、この伝承は山手八幡宮の縁起とも結びついていたようで、同書の山手八幡宮のところにも、

福田利鎌山城主福田遠江守は、有地美作守、杉原播磨守に謀られ滅亡す。其の亡霊、杉原に祟りをなす故神と斎祀る。山手八幡宮は遠江守の霊なり

とある。

この伝えが本当なら、遠江守はさぞ無念だったであろう、信じていた舅に裏切られたのであるから…。

ところが、福田氏の滅亡に関しては異説がある。それが以前にも述べたことがある「弘治元年福田氏滅亡」説だ。

この説も『西備名区』が採録した伝承で、前説と違うのは、有地氏が単独で福田氏を滅ぼしたとする点で、杉原氏は登場しない。

時は弘治元年(1555)三月のことと言う。福田遠江守と不和となった有地隆信は、いよいよ勝負を決しようと兵を挙げ、300余騎で利鎌山城に押し寄せた。この時、隆信は子息民部元盛に兵50を与え、城山の背後に潜ませておいた。隆信が城の大手を攻めると、案の定、遠江守が200の手勢を率いて打って出てきた。しばらく戦った有地勢は、遠江守の子息遠江次郎が城内から援軍に出て来たところで、負けて退くそぶりを見せた。福田勢はこの時とばかり、有地勢に襲いかかった。自然合戦場は城から離れていく…。この時であった、背後の山から忍び寄った元盛勢が手薄となった城内に突入したのは…。城方は城主遠江守夫人の奮戦も空しく、城はあっけなく有地氏の手に落ちた。城主遠江守は討たれ、其の子遠江次郎は逃走して、福田氏は滅亡した。

利鎌山城を歩く

利鎌山城
この城跡をはじめて訪ねた時の感動は今でもはっきり覚えている。それは1978年の3月のことだ。友人と二人で、この城に登った。当時既に山は荒れていて道らしい道はなかった。東北の麓から尾根道を登って行くと、2条の堀切に出くわした。城内に入ったしるしだ。ここから尾根上は階段状に削平されて曲輪となっている。一、二、三……、数えていくと十一段。これでも相当な規模だが、この城の場合、ここはまだ城域の外れにしか当たらない。この曲輪群を越えると、立ちはだかる様な絶壁、しかも左右が深い竪堀となっている。城が廃城となって400年後の今日でさえ登坂は容易でない、城壁が堅固に維持されていた戦国時代、この胸壁は多くの血を吸ったはずだ。驚いたのはここだけではなかつた。やっとの思いで攀じ登った我々の眼前には、さらに4条もの堀切が前途をさえぎっているではないか…。

あとから分ったことだが、実は、この4条の堀切から内側が「城内」と言って良い、城の中枢部分であった。

城の要部は、ほぼ真ん中に築かれた堀切を中心にして東西に三分できる。西側の一際高くそびえているのが、所謂「本丸」だ。標高206・6メートルを測る最高所には東西60メートル幅30メートルに達する曲輪があり、さらに東に2段の腰曲輪が築かれている。真ん中の堀切から束の部分が後世で言う「二の丸」だろう。城内で最も広い曲輪で、東西70メートルに及び、居住スペースとして十分な広さを持っている。最初の踏査では分らなかったが、後の詳細な調査で、この曲輪の西端、堀切際には10メートル四方の「櫓台」があることが判明した。

これだけでも十分人目を引く山城遺跡だが、さらに驚いたのは、本丸背後の尾根続きに設けられた迷路のような掘切と、曲輪群の周囲に築かれた「畝状竪堀群」だ。

本丸西側に2条に渡って築かれた堀切は、両端が「枝分かれ」して、「迷路」状になっている。初めて訪ねた時、そこは雑木に覆われ、中に入った私は、一瞬、方向を見失ってしまった。

「畝状竪堀群」は、東西の堀切群から連続して4条から10条に渡って築かれていた。いずれも廃城後400年の今日でもはっきり残り、今でも人を寄せ付けない。

さらに、その後の調査で、城の曲輪は本丸から北に伸びた尾根上と、二の丸東北で枝分かれした尾根上にも連続して築かれ、それらを含めると、城の遺構は東西300メートル、南北300メートルに及び、曲輪37箇所、堀切16本、竪堀22本を数えることが判明した。

これは正に福山市内では最大級の山城遺跡である。城の規模と城主の権勢は比例するのが普通である。とすると、城主福田氏の勢力もまた市域有数を誇っていたはずだ。

福山地方の戦国史を語る時、利鎌山城と福田氏の存在は避けて通れない。福田氏の伝承福山市内有数の規模と構造を持つ利鎌山城、城主の権勢も相当のものであったはずだ。城主が在名「福田」を名字としていたことは間違いない。宮原直倁の編んだ「備陽六郡志」外編、芦田郡福田村のところに、

古城二箇所 欠平 利鎌又戸鎌 両所ともに城主福田遠江守 尼子毛利の節の事なるへけれとも、いつれの幕下といふ事しらず。瀬来伊賀、塩飽十次郎、市善次郎左衛門などというもの、遠江守の家臣なりしとぞ。其の屋敷跡、今に言い伝えて、アサとなれり。岡田氏の者あり、是家臣の末也とそ」

とあり、福田村の古城、欠平、利鎌両城の城主は福田遠江守であったと記している。

福田遠江守の名前は「盛雅」であったようだ。「備後古城記」芦田郡福田村のところに、「利鎌山(戸かま山とも)福田遠江守藤原盛雅」とある。福田盛雅は実在の人物だ。吉備津神社蔵の西国巡礼納経冊に、「大永八戌子年(1528)九月吉日 福田遠江守藤原盛雅」とある。おそらく「備後古城記」の記事はこの納経冊から取られたのであろう。

また、高須杉原氏の家伝文書に、この頃のものと推定される福田三郎右衛門尉盛雅の書状がある。「民部卿」に宛てて、「彼の在所の儀」について異存がないことを述べたものだが、文中に「正法寺」「温井取次を以て」とあるところから、同じく高須杉原文書にある年不詳九月二七日付宮政盛書状(正法寺御同宿中宛)、同じく七月十日付宮實信書状(高須元盛宛)と一連のものだ。

この一連の文書群は、永正初年、備後で勃発した本梨杉原氏と備後守護代山内氏との対立抗争事件に関連して、山内氏に味方した備後の実力者宮政盛、同實信が高須杉原氏に「三抱村」代官職を与えたものである。

盛雅がこの件に関して如何なる利害を持っていたのか不明だが、「民部卿」「正法寺」が宛所になっているのは注意を要する。実は「民部卿」「正法寺」は、備後在国の関係者ではなく、京都南郊にある、「王城鎮斗諄」の霊場、石清水八幡宮の「坊官」である。

要するに、これら一連の文書が発せられたのは「備後」ではなく、「京都」であったのだ。

とすると、福田盛雅、宮政盛は共に京都に居たことになるが、戦国乱世の時代、備後の諸城主が京都に滞在することがありえたのか…。「ありえた」のである。しかもその年代は、木梨氏と山内氏が争った時期とぴったり一致する。備後の国人が大挙して上洛したのは永正五年(1508)のことだ。この年周防の大名大内義興は前将軍足利義植を将軍職に復位させるために大軍を率いて上洛した。この軍勢の中に宮政盛、同實信がいた。福田盛雅もこの軍勢に属して上洛し、しばらく在京したと見て間違いない。

そして、本梨氏と山内氏が、毛利・小早川氏の仲裁で和睦したのは永正九年(1512)のことだ。これら一連の文書が作成されたのはこの頃に違いない。そうすると福田盛雅はい初め「三郎右衛門尉」を称し、のち「遠江守」を名乗ったことになるが、果たして如何に…。

福田三郎左衛門尉盛雅

福田三郎左衛門尉「盛雅」で問題になるのは、この人物の活躍が永禄・天正年間に至っても見られることだ。しかも美作の城主として…。

福田盛雅について、「日本城郭大系」13広島・岡山版の津山市医王山城(岡山県津山市吉見)のところに、次の記載がある。

時は移り、永禄九年(1566)に出雲の富田城は毛利氏によって落城し、尼子氏は滅んだ。そして、天正年間(1573~92)に入って、美作は毛利氏と宇喜多氏が対峙することとなった。この時、医王山城は毛利方に属していて、枡形城主福田盛雅が預り、毛利輝元は在番衆として湯原春綱を送っていた。天正八年(1580)に宇喜多氏は医王山城を攻撃したが、湯原春綱・小川右衛門兵衛尉元政・塩屋元貞は宇喜多方への内通者を出しながらも三の丸を死守し、篭城したといわれる。このため宇喜多勢は撤退した。しかし、天正十年(1582)に毛利氏と羽柴(豊臣)秀吉の和議により、美作は宇喜多領に属すこととなった。ほどなく本城も開城したものと思われる。(下略)」

また、巻末の城址一覧の所にも、

枡形城 苫田郡鏡野町香々美藤屋小早川隆景が築城。永禄年間、福田勝昌が入城。天正七年、毛利。宇喜多氏の攻防戦。

とある。美作枡形・医王(祝)山両城に於ける福田盛雅の活躍は史実である。

先ず兵糧の儀、追々枡形に至り指し上げ候の間、お心安んずべく候、毎事福 三(福田盛雅)相談ぜられ、是非当城の儀(医王山)此方てだて待ちつけられ、

(天正8年6月19日付小早川隆景書状)

「何ヶ度申し候ても当城(医王山)堅固御覚悟比類なく候、此の表御出勢の儀、油断無く相催し候、其の段盛雅(福田)江申し入れ候、其の表御手立ての儀、程あるべからず候、御加勢御待ち付け肝要に候

(天正8年9月十四日付毛利氏年寄連署書状)※(「閥閲録」五十一より)

史料は、枡形城主福田三郎右衛門尉盛雅が援軍の小川元政・湯原春綱等と共に、寄せ手の字喜多勢と悪戦苦闘する様子を伝えている。

問題は、この美作枡形城主福田盛雅と、備後国芦田郡福田利鎌山城主福田氏との関係である。「福田」は、さほど珍しい名字ではない、両者は全く別の家系の可能性もあった。

枡形城の福田氏が備後の出身であったことは、意外な史料の出現で明らかになった。

「東作誌」に収録された次の史料がそれだ。

清居山新龍寺棟札

永禄十二巳巳十二月十九日願主権律師重明
 奉造立仏壇成就時地頭備後国住福田三郎右衛門尉代官寺岡備前守諸旦那繁昌処

この史料が証明したのは次の一点、永禄十二年(1569)、新龍寺の所在する旧美作国東北条郡北高田庄上横野村、現在の津山市上横野一帯の領主(地頭)は、備後国の国人福田三郎右衛門尉であった、という「事実」だ。

備後国人福田氏

津山市上横野の新龍寺の棟札に「時地頭備後国住福田三郎右衛門尉」とあるのは、備後国人福田盛雅が当時(永禄十二年)津山盆地北部の上横野一帯の領主であったことを意味する。地図で確認すると、盛雅の居城枡形山は、この寺の西北3キロに位置する。

枡形山は、標高642メートル、麓からの比高400メートルに達する峻険な山城だ。小早川隆景の築城と伝えるから、盛雅は、隆景の代官としてこの城に入り、一帯に呪みをきかせたに違いない。

国人は「国衆」ともいう、国司・守護など京下りの支配者に対して、その国地付きの有力者を意味する言葉で、多くは鎌倉時代の地頭・庄官の後裔である。

国人は在地に根付いた権力者だけに、山城だけで無く、多くの史跡を残した。福田氏も同様である。

利鎌山城の本丸から眼下に俯蹴できる福田の八幡神社は福田氏が崇敬したお宮だ。福田の八幡神社は「亀山八幡宮」とも呼ぶ。社伝によると、後花園天皇の寛正元年(1461)春、「四郎」というものが、「吾を祭祀して、汝が姓を竹安と名乗るべし」という八幡神の神託により、「鳶が塚」というところに一社を建てたのが起源と云う。その後、利鎌山城主福田遠江守盛雅がこの神を信仰して祠を亀山に遷し、九尺四面の社殿を造営して「神田」を付し、四郎四世の孫又五郎を神主とした。また、八幡神社から東北1キロの「福田地」にある「福性院」も福田氏有縁のお寺だ。現福性院の旧跡を「福田寺」という。その名の通り、地名をそのまま寺号とした由緒ある寺である。今は失われた享保十年(1725)銘の銅鐘に、「中世、福田遠江守盛政、武門の擁護を託し、廃址を披く」とあって、この寺が福田氏の菩提寺であったことがわかる(備陽六郡志)。

現福性院から北に五百メートルほどの山際に、福田一族の墓石と称されるものが残っている。中世末期の五輪塔で、山城主に相応しい石塔だ。亀山八幡神社を氏神とし、福田寺福性院を氏神とした姿は、在地の権力者「国人」にふさわしい。利鎌山城主福田氏は、西隣、鳥の奥城主有地氏と同じく、備後の国人、国衆と見て間違いない。

中世後半の地域の歴史は、こうした国人たちの興亡によって彩られる。彼らは周囲の国人と勢力争いを繰り広げると共に、領内の開発を進め、神社・仏閣を保護して、地域の支配者に成長した。

戦国時代、美作枡形城主福田三郎右衛門尉盛雅は、間違いなく備後の「国人」であった。では、盛雅はなぜ美作で活躍することになったのか…。有地隆信に滅ぼされたという福田遠江守は盛雅であったのか…。次にこの問題に迫ってみたい。

二人の盛雅

毛利方の美作枡形城主、同医王山城代として活躍した福田三郎右衛門尉盛雅が備後国人であったことはわかった。

問題は、永正・大永年間(16世紀前半)の史料に見える盛雅と、天正八年(1580)美作医王山合戦で毛利方の部将として活躍した福田盛雅は同一人物か否かである。

もし同一人物とすると、永正八年(1511)盛雅15歳と仮定すると、天正八年には盛雅は84歳の高齢になってしまい、ありえない話ではないが不自然である。また、大永八年(1528)を盛雅20歳としても、天正八年には72歳となり、やはり不自然である。

盛雅の居城であった美作枡形城に関して、江戸期の地誌「作陽誌」は次のように記している。

升形城
藤屋村にあり、小早川左衛門佐隆景、之を修築、福田玄蕃勝昌同助四郎盛昌をして之を守らしむ。(略)勝昌の弟に福田太郎左衛門あり、浮田直家に従い、兄弟相分かつ

つまり、地元の地誌は、枡形城に居城した福田氏は勝昌・盛昌(雅)父子で、勝昌には太郎佐衛門という弟がいて、兄と分れて毛利氏と対立した宇喜多氏に従ったと伝えているのだ。また、この伝えに関連して、「西備名区」は芦田郡栗柄村嘉山城主を「福田助四郎」とし、

一本古城記に。土生村淵上城主、杉原と戦いありて没落す。里人の言、今に櫓の台跡あり、弓懸畑と云う。没落の年紀しれず

と記す。助四郎は「作陽誌」に載せる「福田助四郎昌」であろう。

美作枡形城主を福田勝昌、盛雅(昌)父子とする伝承が正しいとすると、当然、永正・大永年間の「盛雅」と、天正八年の美作医王山合戦で活躍した「盛雅」は別人ということになる。

果たして「玄蕃勝昌」なる人物は実在したのであろうか…。

状況証拠から見て、盛雅の先代という「勝昌」の存在は認めがたい。前に述べたように、美作での福田氏の活躍は、永禄十二年の新龍寺の仏壇を寄進した福田三郎右衛門尉からである。この三郎右衛門尉は盛雅と見て良い。

美作地方は古く赤松氏が守護職を務め、同氏の勢力が衰えると、その家宰浦上氏の領国となり、更に天文年間には出雲尼子氏が勢力を及ぼし、天文二十年正式に「美作国守護職」に補任された(佐々本文書)。美作に於ける尼子勢力は強大で、毛利氏の勢力がこの国に及ぶのは永禄九年(1566)、出雲富田城が落城し、戦国大名としての尼子氏が減亡して以後のことである。

よって、永禄九年以前に毛利氏の部将が美作枡形城に入るのは不可能で、勝昌の存在は認めがたい。では、「二人の盛雅」が同一人物であると認めてよいのかというと、これも推定年齢からして難しい(前述)、途中に入る「福田遠江守藤原盛雅」の存在を解決しなければならない。

福田氏滅亡説の検討

状況証拠から見て、天文年間、或いは弘治元年、有地氏によって利鎌山城は落城し、福田氏は滅亡したという伝承は認めがたい。

先ず、永禄十二年(1569)美作枡形城の福田盛雅は、自らを「備後国住」人と称していることだ(東作誌所収新龍寺棟札)。もし、盛雅が本拠地を美作に移したのなら、こんな書き方はしないだろう。

毛利氏に従った備後国人で、同氏の命で他国の最前線の城の城代を務めた例は、福田盛雅だけではない。芦田郡久佐(府中市久佐町)の国人楢崎氏は豊景以来毛利氏に従っていたが、孫の弾正元兼は美作月田山の城代を務め、宇喜多氏や織田氏の兵と干戈を交えている。

さらに有名な例では、神辺城主杉原盛重がいる。盛重は毛利氏の後援で神辺城主となるや、毛利氏の命で山陰方面に出動し、伯耆尾高城、同八橋の城主として八面六臂の活躍をした。楢崎、杉原両氏とも美作、伯耆の城を任されたとは言え、それぞれの本拠地の城を放棄したわけではない。楢崎氏では、本拠の朝山二子城(府中市久佐町)は、祖父豊景、信景、或いは叔父筑後守等によってしっかりと維持され、本領の久佐は慶長五年(1600)の関が原合戦まで楢崎氏が保持した(毛利氏八カ国時代分限帳)。盛重の場合も、彼自身「伯州の神辺殿」と敬称され、「家城」神辺城には、城代所原肥後守、重臣の横山備中守が居て、盛重の留守を守っていた。

元兼、盛重は共に毛利氏の信任の厚い国衆であった。言い換えれば、厚い信頼を得ていたからこそ、他国の重要な城を任されたのである。盛雅も同様であろう。

このように考えると、利鎌山城を有地氏によって攻め落とされた結果、福田氏は美作に移ったという説は、成り立ちがたい。盛雅は、「家城」利鎌山を維持しつつ、美作で活動したと考えるべきだ。

このことは、現在残る利鎌山城の遺構からも言えることである。利鎌山城の最大の特徴は、その「畝状竪堀群」にある。城郭主要部を東西に区切る堀切群の城内側の斜面は、南北両側とも3条から7条に及ぶ畝状竪堀群によって厳重に防備されている。見事なものだ。

備後南部の城に「畝状竪堀群」が構築されるのは、永禄から天正年間(1558~93)のことと考えられる。亀寿山城、掛迫城、志川滝山城など、天文年間(1532~54)まで使用され、その後に利用された形跡のない城には、この遺構は見られない。利鎌山城に畝状竪堀群が見られるのは、この城が永禄年間に入っても修築が繰り返されていたことの証拠だ。

だが、この城には、今のところ「石垣」は発見されていない。備後南部の山城で「石垣」が残っている城は限られている。楢崎氏の朝山二子城、渡辺氏の一乗山城などだが、それらの城に共通するのは、何れの城も国人の本拠として、慶長五年の関が原合戦まで機能していたことだ。小なりとは一一甲え、織田・豊臣城郭の特徴、「総石垣」の影響がこれらの城にも及んでいるわけだ。

よって、利鎌山城は天正年間の後半には廃城になったと考えられる。その理由は、福田氏の改易か転封であろう。「毛利家八箇国時代分限盤には、唯一人福田姓の給人として、「福田少輔七郎」なる人物が記載され、備後恵蘇郡、周防吉敷郡で166石余を領している。盛雅の後継者と見て良いだろう。この分限帳は年貢収納高で記載され、しかも「軍役高」と見られるから、福田氏の本領は江戸時代の村高で400石以上、ほぼ福田村の草高に匹敵する。

福田氏が本領の福田を没収され恵蘇郡(現庄原市、或いは周防)に移された理由は判然としないが、有地・杉原の両氏も出雲に移されており、「国衆の在地性を奪う」という毛利氏の政策であろう。この分限帳は天正十九年(1591)の「惣国検地」の結果と言われているから、福田氏は天正十九年を以て名字の地「福田」を去り、その結果、利鎌山城も廃城となったのであろう。

掛平山城と福田氏

備後国人福田氏の城として、もう一つ知られているのは、利鎌山城から有地川を挟んで北に位置する掛平山城である。

掛平山城は、岩見の端城、魚見原城とも云い、芦田川に臨む断崖上の山城だ。

芦田川右岸の土手道をずっとさかのぼって行くと、「福戸橋」の辺りから左手に黒々とした山塊が道路上に押し被さるように迫ってくる。これが掛平山だ。

「岩見の端」「魚見原」の別名は、城下に芦田川が流れ、大きな「淵」となっていることから名付けられたのであろう。尾根続きを西に行くと4キロで有地氏の相方城に達する。城の立地からも福田氏と有地氏が競合する国人領主であったことがわかる。

『西備名区』によると、この城には、初め福田遠江守の舎弟小野九左衛門常延が拠り、福田氏没落の後、光成氏が有地氏の「与力」としてこの城に拠ったという。

前回も述べたように、天文、弘治年間の福田、有地氏の合戦は伝説の域を出ない。

郷土史書に伝える合戦記は虚構に過ぎないとは言え、両氏が隣接する国人領主として時に対立する存在であったことは事実である。有地氏の大谷、鳥の奥城、福田氏の利鎌山城の要害堅固さは何よりも雄弁にこのことを物語っている。

事実関係を明示し得ないのは残念だが、有地氏の相方築城は、両氏の勢力関係に「変化」があったことを物語っている。掛平山の標高83メートルに対して、相方の城山の標高は191メートル、相方城が築かれた天正初年(1575頃)に至って、有地氏の勢力が福田氏のそれを凌駕したことを示している。或いはこのことが福田盛雅の美作枡形入城に関係しているのかもしれない(逆もまたあり得た、盛雅の美作進出が有地氏の福田領侵略を呼んだ)。

おわりに

ここで、今まで触れることの出来なかった「福田遠江守」と「福田盛雅」の関係について私見を述べておく。

天正8年(1580)、美作医王山合戦で活躍した福田三郎左衛門尉盛雅を考察する場合、最大の難点は備後一宮吉備津神社に納められた、大永8年(1528)9月吉日の銘を有する「福田遠江守藤原盛雅」の西国順礼納経冊の存在だ。この納経冊があるばかりに、大永年間に活躍した「福田三郎左衛門尉盛雅」と天正8年の福田盛雅は別人としか考えられず、話をややこしくしてしまった。当時の慣習から盛雅が「三郎左衛門尉」から「遠江守」に任官することはありえても、その逆はありえないからだ。

現物を見ていないので、はっきりしたことは言えないが、この順礼納経冊には疑問点が多い。まず何よりも「大永八戌子年九月吉日」は「存在しない」ことだ。大永8年は8月20日に改元されて「享禄元年」となっている。正しくは「享禄元戌子年九月吉日」と書くべきなのだ。

勿論、都から離れた備後のことだ。遠江守盛雅が「改元」を知らなかったということも考えられる。しかし、以前述べたように、盛雅は上洛したこともある当時の教養人だ。「都」の動きには敏感だったはずだ。

当時、こうしたものは発注してから納品されるまで相当な「時間」を要した。やはり、この順礼納経冊は後世の偽作と考えるべきであろう。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/25.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/25-150x150.jpg管理人中世史「備陽史探訪:151号」より 田口 義之 はじめに 有地氏の飛躍は、東隣福田の領主、利鎌山城の福田氏を討ち、その所領を併呑したことにあると言われる。 『西備名区』によると、有地氏が福田氏を滅ぼした経緯については二つの説があった。一つは、山手町の八幡宮の霊験譚ともなっている説で、同書は次のように述べている。 一説に云う。福田遠江守は大内旗下に属す。時に杉原宮内少輔忠興の家士、山手の城主、杉原播磨守(或いは団上監物とも云う)の婿たり。杉原、元大内旗下たりしが、天文の比、雲州の尼子家に属す。有地も尼子に従う。これによって、杉原、有地両士共に尼子に従はんことをすすむ。福田これを容れず、故に不和となり、有地と数度の戦ひ勝負をわかたす。有地ひそかに謀って杉原と示し合わせければ、杉原是を諾してその舅家なるを以て和を計らんと、再三福田を山手に招く。福田其の謀ありとは夢にも知らず、従士僅かにて山手に赴く。有地、兵を俄山に伏せて悉く討ち果たし、直に利鎌山に押し寄せ、其の虚を討って其の城を抜き、福田領悉く押領す。時は天文の末なるよし云へり 実際、この伝承は山手八幡宮の縁起とも結びついていたようで、同書の山手八幡宮のところにも、 福田利鎌山城主福田遠江守は、有地美作守、杉原播磨守に謀られ滅亡す。其の亡霊、杉原に祟りをなす故神と斎祀る。山手八幡宮は遠江守の霊なり とある。 この伝えが本当なら、遠江守はさぞ無念だったであろう、信じていた舅に裏切られたのであるから…。 ところが、福田氏の滅亡に関しては異説がある。それが以前にも述べたことがある「弘治元年福田氏滅亡」説だ。 この説も『西備名区』が採録した伝承で、前説と違うのは、有地氏が単独で福田氏を滅ぼしたとする点で、杉原氏は登場しない。 時は弘治元年(1555)三月のことと言う。福田遠江守と不和となった有地隆信は、いよいよ勝負を決しようと兵を挙げ、300余騎で利鎌山城に押し寄せた。この時、隆信は子息民部元盛に兵50を与え、城山の背後に潜ませておいた。隆信が城の大手を攻めると、案の定、遠江守が200の手勢を率いて打って出てきた。しばらく戦った有地勢は、遠江守の子息遠江次郎が城内から援軍に出て来たところで、負けて退くそぶりを見せた。福田勢はこの時とばかり、有地勢に襲いかかった。自然合戦場は城から離れていく…。この時であった、背後の山から忍び寄った元盛勢が手薄となった城内に突入したのは…。城方は城主遠江守夫人の奮戦も空しく、城はあっけなく有地氏の手に落ちた。城主遠江守は討たれ、其の子遠江次郎は逃走して、福田氏は滅亡した。 利鎌山城を歩く この城跡をはじめて訪ねた時の感動は今でもはっきり覚えている。それは1978年の3月のことだ。友人と二人で、この城に登った。当時既に山は荒れていて道らしい道はなかった。東北の麓から尾根道を登って行くと、2条の堀切に出くわした。城内に入ったしるしだ。ここから尾根上は階段状に削平されて曲輪となっている。一、二、三……、数えていくと十一段。これでも相当な規模だが、この城の場合、ここはまだ城域の外れにしか当たらない。この曲輪群を越えると、立ちはだかる様な絶壁、しかも左右が深い竪堀となっている。城が廃城となって400年後の今日でさえ登坂は容易でない、城壁が堅固に維持されていた戦国時代、この胸壁は多くの血を吸ったはずだ。驚いたのはここだけではなかつた。やっとの思いで攀じ登った我々の眼前には、さらに4条もの堀切が前途をさえぎっているではないか…。 あとから分ったことだが、実は、この4条の堀切から内側が「城内」と言って良い、城の中枢部分であった。 城の要部は、ほぼ真ん中に築かれた堀切を中心にして東西に三分できる。西側の一際高くそびえているのが、所謂「本丸」だ。標高206・6メートルを測る最高所には東西60メートル幅30メートルに達する曲輪があり、さらに東に2段の腰曲輪が築かれている。真ん中の堀切から束の部分が後世で言う「二の丸」だろう。城内で最も広い曲輪で、東西70メートルに及び、居住スペースとして十分な広さを持っている。最初の踏査では分らなかったが、後の詳細な調査で、この曲輪の西端、堀切際には10メートル四方の「櫓台」があることが判明した。 これだけでも十分人目を引く山城遺跡だが、さらに驚いたのは、本丸背後の尾根続きに設けられた迷路のような掘切と、曲輪群の周囲に築かれた「畝状竪堀群」だ。 本丸西側に2条に渡って築かれた堀切は、両端が「枝分かれ」して、「迷路」状になっている。初めて訪ねた時、そこは雑木に覆われ、中に入った私は、一瞬、方向を見失ってしまった。 「畝状竪堀群」は、東西の堀切群から連続して4条から10条に渡って築かれていた。いずれも廃城後400年の今日でもはっきり残り、今でも人を寄せ付けない。 さらに、その後の調査で、城の曲輪は本丸から北に伸びた尾根上と、二の丸東北で枝分かれした尾根上にも連続して築かれ、それらを含めると、城の遺構は東西300メートル、南北300メートルに及び、曲輪37箇所、堀切16本、竪堀22本を数えることが判明した。 これは正に福山市内では最大級の山城遺跡である。城の規模と城主の権勢は比例するのが普通である。とすると、城主福田氏の勢力もまた市域有数を誇っていたはずだ。 福山地方の戦国史を語る時、利鎌山城と福田氏の存在は避けて通れない。福田氏の伝承福山市内有数の規模と構造を持つ利鎌山城、城主の権勢も相当のものであったはずだ。城主が在名「福田」を名字としていたことは間違いない。宮原直倁の編んだ「備陽六郡志」外編、芦田郡福田村のところに、 古城二箇所 欠平 利鎌又戸鎌 両所ともに城主福田遠江守 尼子毛利の節の事なるへけれとも、いつれの幕下といふ事しらず。瀬来伊賀、塩飽十次郎、市善次郎左衛門などというもの、遠江守の家臣なりしとぞ。其の屋敷跡、今に言い伝えて、アサとなれり。岡田氏の者あり、是家臣の末也とそ」 とあり、福田村の古城、欠平、利鎌両城の城主は福田遠江守であったと記している。 福田遠江守の名前は「盛雅」であったようだ。「備後古城記」芦田郡福田村のところに、「利鎌山(戸かま山とも)福田遠江守藤原盛雅」とある。福田盛雅は実在の人物だ。吉備津神社蔵の西国巡礼納経冊に、「大永八戌子年(1528)九月吉日 福田遠江守藤原盛雅」とある。おそらく「備後古城記」の記事はこの納経冊から取られたのであろう。 また、高須杉原氏の家伝文書に、この頃のものと推定される福田三郎右衛門尉盛雅の書状がある。「民部卿」に宛てて、「彼の在所の儀」について異存がないことを述べたものだが、文中に「正法寺」「温井取次を以て」とあるところから、同じく高須杉原文書にある年不詳九月二七日付宮政盛書状(正法寺御同宿中宛)、同じく七月十日付宮實信書状(高須元盛宛)と一連のものだ。 この一連の文書群は、永正初年、備後で勃発した本梨杉原氏と備後守護代山内氏との対立抗争事件に関連して、山内氏に味方した備後の実力者宮政盛、同實信が高須杉原氏に「三抱村」代官職を与えたものである。 盛雅がこの件に関して如何なる利害を持っていたのか不明だが、「民部卿」「正法寺」が宛所になっているのは注意を要する。実は「民部卿」「正法寺」は、備後在国の関係者ではなく、京都南郊にある、「王城鎮斗諄」の霊場、石清水八幡宮の「坊官」である。 要するに、これら一連の文書が発せられたのは「備後」ではなく、「京都」であったのだ。 とすると、福田盛雅、宮政盛は共に京都に居たことになるが、戦国乱世の時代、備後の諸城主が京都に滞在することがありえたのか…。「ありえた」のである。しかもその年代は、木梨氏と山内氏が争った時期とぴったり一致する。備後の国人が大挙して上洛したのは永正五年(1508)のことだ。この年周防の大名大内義興は前将軍足利義植を将軍職に復位させるために大軍を率いて上洛した。この軍勢の中に宮政盛、同實信がいた。福田盛雅もこの軍勢に属して上洛し、しばらく在京したと見て間違いない。 そして、本梨氏と山内氏が、毛利・小早川氏の仲裁で和睦したのは永正九年(1512)のことだ。これら一連の文書が作成されたのはこの頃に違いない。そうすると福田盛雅はい初め「三郎右衛門尉」を称し、のち「遠江守」を名乗ったことになるが、果たして如何に…。 福田三郎左衛門尉盛雅 福田三郎左衛門尉「盛雅」で問題になるのは、この人物の活躍が永禄・天正年間に至っても見られることだ。しかも美作の城主として…。 福田盛雅について、「日本城郭大系」13広島・岡山版の津山市医王山城(岡山県津山市吉見)のところに、次の記載がある。 時は移り、永禄九年(1566)に出雲の富田城は毛利氏によって落城し、尼子氏は滅んだ。そして、天正年間(1573~92)に入って、美作は毛利氏と宇喜多氏が対峙することとなった。この時、医王山城は毛利方に属していて、枡形城主福田盛雅が預り、毛利輝元は在番衆として湯原春綱を送っていた。天正八年(1580)に宇喜多氏は医王山城を攻撃したが、湯原春綱・小川右衛門兵衛尉元政・塩屋元貞は宇喜多方への内通者を出しながらも三の丸を死守し、篭城したといわれる。このため宇喜多勢は撤退した。しかし、天正十年(1582)に毛利氏と羽柴(豊臣)秀吉の和議により、美作は宇喜多領に属すこととなった。ほどなく本城も開城したものと思われる。(下略)」 また、巻末の城址一覧の所にも、 枡形城 苫田郡鏡野町香々美藤屋小早川隆景が築城。永禄年間、福田勝昌が入城。天正七年、毛利。宇喜多氏の攻防戦。 とある。美作枡形・医王(祝)山両城に於ける福田盛雅の活躍は史実である。 先ず兵糧の儀、追々枡形に至り指し上げ候の間、お心安んずべく候、毎事福 三(福田盛雅)相談ぜられ、是非当城の儀(医王山)此方てだて待ちつけられ、 (天正8年6月19日付小早川隆景書状) 「何ヶ度申し候ても当城(医王山)堅固御覚悟比類なく候、此の表御出勢の儀、油断無く相催し候、其の段盛雅(福田)江申し入れ候、其の表御手立ての儀、程あるべからず候、御加勢御待ち付け肝要に候 (天正8年9月十四日付毛利氏年寄連署書状)※(「閥閲録」五十一より) 史料は、枡形城主福田三郎右衛門尉盛雅が援軍の小川元政・湯原春綱等と共に、寄せ手の字喜多勢と悪戦苦闘する様子を伝えている。 問題は、この美作枡形城主福田盛雅と、備後国芦田郡福田利鎌山城主福田氏との関係である。「福田」は、さほど珍しい名字ではない、両者は全く別の家系の可能性もあった。 枡形城の福田氏が備後の出身であったことは、意外な史料の出現で明らかになった。 「東作誌」に収録された次の史料がそれだ。 清居山新龍寺棟札 永禄十二巳巳十二月十九日願主権律師重明  奉造立仏壇成就時地頭備後国住福田三郎右衛門尉代官寺岡備前守諸旦那繁昌処 この史料が証明したのは次の一点、永禄十二年(1569)、新龍寺の所在する旧美作国東北条郡北高田庄上横野村、現在の津山市上横野一帯の領主(地頭)は、備後国の国人福田三郎右衛門尉であった、という「事実」だ。 備後国人福田氏 津山市上横野の新龍寺の棟札に「時地頭備後国住福田三郎右衛門尉」とあるのは、備後国人福田盛雅が当時(永禄十二年)津山盆地北部の上横野一帯の領主であったことを意味する。地図で確認すると、盛雅の居城枡形山は、この寺の西北3キロに位置する。 枡形山は、標高642メートル、麓からの比高400メートルに達する峻険な山城だ。小早川隆景の築城と伝えるから、盛雅は、隆景の代官としてこの城に入り、一帯に呪みをきかせたに違いない。 国人は「国衆」ともいう、国司・守護など京下りの支配者に対して、その国地付きの有力者を意味する言葉で、多くは鎌倉時代の地頭・庄官の後裔である。 国人は在地に根付いた権力者だけに、山城だけで無く、多くの史跡を残した。福田氏も同様である。 利鎌山城の本丸から眼下に俯蹴できる福田の八幡神社は福田氏が崇敬したお宮だ。福田の八幡神社は「亀山八幡宮」とも呼ぶ。社伝によると、後花園天皇の寛正元年(1461)春、「四郎」というものが、「吾を祭祀して、汝が姓を竹安と名乗るべし」という八幡神の神託により、「鳶が塚」というところに一社を建てたのが起源と云う。その後、利鎌山城主福田遠江守盛雅がこの神を信仰して祠を亀山に遷し、九尺四面の社殿を造営して「神田」を付し、四郎四世の孫又五郎を神主とした。また、八幡神社から東北1キロの「福田地」にある「福性院」も福田氏有縁のお寺だ。現福性院の旧跡を「福田寺」という。その名の通り、地名をそのまま寺号とした由緒ある寺である。今は失われた享保十年(1725)銘の銅鐘に、「中世、福田遠江守盛政、武門の擁護を託し、廃址を披く」とあって、この寺が福田氏の菩提寺であったことがわかる(備陽六郡志)。 現福性院から北に五百メートルほどの山際に、福田一族の墓石と称されるものが残っている。中世末期の五輪塔で、山城主に相応しい石塔だ。亀山八幡神社を氏神とし、福田寺福性院を氏神とした姿は、在地の権力者「国人」にふさわしい。利鎌山城主福田氏は、西隣、鳥の奥城主有地氏と同じく、備後の国人、国衆と見て間違いない。 中世後半の地域の歴史は、こうした国人たちの興亡によって彩られる。彼らは周囲の国人と勢力争いを繰り広げると共に、領内の開発を進め、神社・仏閣を保護して、地域の支配者に成長した。 戦国時代、美作枡形城主福田三郎右衛門尉盛雅は、間違いなく備後の「国人」であった。では、盛雅はなぜ美作で活躍することになったのか…。有地隆信に滅ぼされたという福田遠江守は盛雅であったのか…。次にこの問題に迫ってみたい。 二人の盛雅 毛利方の美作枡形城主、同医王山城代として活躍した福田三郎右衛門尉盛雅が備後国人であったことはわかった。 問題は、永正・大永年間(16世紀前半)の史料に見える盛雅と、天正八年(1580)美作医王山合戦で毛利方の部将として活躍した福田盛雅は同一人物か否かである。 もし同一人物とすると、永正八年(1511)盛雅15歳と仮定すると、天正八年には盛雅は84歳の高齢になってしまい、ありえない話ではないが不自然である。また、大永八年(1528)を盛雅20歳としても、天正八年には72歳となり、やはり不自然である。 盛雅の居城であった美作枡形城に関して、江戸期の地誌「作陽誌」は次のように記している。 升形城 藤屋村にあり、小早川左衛門佐隆景、之を修築、福田玄蕃勝昌同助四郎盛昌をして之を守らしむ。(略)勝昌の弟に福田太郎左衛門あり、浮田直家に従い、兄弟相分かつ つまり、地元の地誌は、枡形城に居城した福田氏は勝昌・盛昌(雅)父子で、勝昌には太郎佐衛門という弟がいて、兄と分れて毛利氏と対立した宇喜多氏に従ったと伝えているのだ。また、この伝えに関連して、「西備名区」は芦田郡栗柄村嘉山城主を「福田助四郎」とし、 一本古城記に。土生村淵上城主、杉原と戦いありて没落す。里人の言、今に櫓の台跡あり、弓懸畑と云う。没落の年紀しれず と記す。助四郎は「作陽誌」に載せる「福田助四郎昌」であろう。 美作枡形城主を福田勝昌、盛雅(昌)父子とする伝承が正しいとすると、当然、永正・大永年間の「盛雅」と、天正八年の美作医王山合戦で活躍した「盛雅」は別人ということになる。 果たして「玄蕃勝昌」なる人物は実在したのであろうか…。 状況証拠から見て、盛雅の先代という「勝昌」の存在は認めがたい。前に述べたように、美作での福田氏の活躍は、永禄十二年の新龍寺の仏壇を寄進した福田三郎右衛門尉からである。この三郎右衛門尉は盛雅と見て良い。 美作地方は古く赤松氏が守護職を務め、同氏の勢力が衰えると、その家宰浦上氏の領国となり、更に天文年間には出雲尼子氏が勢力を及ぼし、天文二十年正式に「美作国守護職」に補任された(佐々本文書)。美作に於ける尼子勢力は強大で、毛利氏の勢力がこの国に及ぶのは永禄九年(1566)、出雲富田城が落城し、戦国大名としての尼子氏が減亡して以後のことである。 よって、永禄九年以前に毛利氏の部将が美作枡形城に入るのは不可能で、勝昌の存在は認めがたい。では、「二人の盛雅」が同一人物であると認めてよいのかというと、これも推定年齢からして難しい(前述)、途中に入る「福田遠江守藤原盛雅」の存在を解決しなければならない。 福田氏滅亡説の検討 状況証拠から見て、天文年間、或いは弘治元年、有地氏によって利鎌山城は落城し、福田氏は滅亡したという伝承は認めがたい。 先ず、永禄十二年(1569)美作枡形城の福田盛雅は、自らを「備後国住」人と称していることだ(東作誌所収新龍寺棟札)。もし、盛雅が本拠地を美作に移したのなら、こんな書き方はしないだろう。 毛利氏に従った備後国人で、同氏の命で他国の最前線の城の城代を務めた例は、福田盛雅だけではない。芦田郡久佐(府中市久佐町)の国人楢崎氏は豊景以来毛利氏に従っていたが、孫の弾正元兼は美作月田山の城代を務め、宇喜多氏や織田氏の兵と干戈を交えている。 さらに有名な例では、神辺城主杉原盛重がいる。盛重は毛利氏の後援で神辺城主となるや、毛利氏の命で山陰方面に出動し、伯耆尾高城、同八橋の城主として八面六臂の活躍をした。楢崎、杉原両氏とも美作、伯耆の城を任されたとは言え、それぞれの本拠地の城を放棄したわけではない。楢崎氏では、本拠の朝山二子城(府中市久佐町)は、祖父豊景、信景、或いは叔父筑後守等によってしっかりと維持され、本領の久佐は慶長五年(1600)の関が原合戦まで楢崎氏が保持した(毛利氏八カ国時代分限帳)。盛重の場合も、彼自身「伯州の神辺殿」と敬称され、「家城」神辺城には、城代所原肥後守、重臣の横山備中守が居て、盛重の留守を守っていた。 元兼、盛重は共に毛利氏の信任の厚い国衆であった。言い換えれば、厚い信頼を得ていたからこそ、他国の重要な城を任されたのである。盛雅も同様であろう。 このように考えると、利鎌山城を有地氏によって攻め落とされた結果、福田氏は美作に移ったという説は、成り立ちがたい。盛雅は、「家城」利鎌山を維持しつつ、美作で活動したと考えるべきだ。 このことは、現在残る利鎌山城の遺構からも言えることである。利鎌山城の最大の特徴は、その「畝状竪堀群」にある。城郭主要部を東西に区切る堀切群の城内側の斜面は、南北両側とも3条から7条に及ぶ畝状竪堀群によって厳重に防備されている。見事なものだ。 備後南部の城に「畝状竪堀群」が構築されるのは、永禄から天正年間(1558~93)のことと考えられる。亀寿山城、掛迫城、志川滝山城など、天文年間(1532~54)まで使用され、その後に利用された形跡のない城には、この遺構は見られない。利鎌山城に畝状竪堀群が見られるのは、この城が永禄年間に入っても修築が繰り返されていたことの証拠だ。 だが、この城には、今のところ「石垣」は発見されていない。備後南部の山城で「石垣」が残っている城は限られている。楢崎氏の朝山二子城、渡辺氏の一乗山城などだが、それらの城に共通するのは、何れの城も国人の本拠として、慶長五年の関が原合戦まで機能していたことだ。小なりとは一一甲え、織田・豊臣城郭の特徴、「総石垣」の影響がこれらの城にも及んでいるわけだ。 よって、利鎌山城は天正年間の後半には廃城になったと考えられる。その理由は、福田氏の改易か転封であろう。「毛利家八箇国時代分限盤には、唯一人福田姓の給人として、「福田少輔七郎」なる人物が記載され、備後恵蘇郡、周防吉敷郡で166石余を領している。盛雅の後継者と見て良いだろう。この分限帳は年貢収納高で記載され、しかも「軍役高」と見られるから、福田氏の本領は江戸時代の村高で400石以上、ほぼ福田村の草高に匹敵する。 福田氏が本領の福田を没収され恵蘇郡(現庄原市、或いは周防)に移された理由は判然としないが、有地・杉原の両氏も出雲に移されており、「国衆の在地性を奪う」という毛利氏の政策であろう。この分限帳は天正十九年(1591)の「惣国検地」の結果と言われているから、福田氏は天正十九年を以て名字の地「福田」を去り、その結果、利鎌山城も廃城となったのであろう。 掛平山城と福田氏 備後国人福田氏の城として、もう一つ知られているのは、利鎌山城から有地川を挟んで北に位置する掛平山城である。 掛平山城は、岩見の端城、魚見原城とも云い、芦田川に臨む断崖上の山城だ。 芦田川右岸の土手道をずっとさかのぼって行くと、「福戸橋」の辺りから左手に黒々とした山塊が道路上に押し被さるように迫ってくる。これが掛平山だ。 「岩見の端」「魚見原」の別名は、城下に芦田川が流れ、大きな「淵」となっていることから名付けられたのであろう。尾根続きを西に行くと4キロで有地氏の相方城に達する。城の立地からも福田氏と有地氏が競合する国人領主であったことがわかる。 『西備名区』によると、この城には、初め福田遠江守の舎弟小野九左衛門常延が拠り、福田氏没落の後、光成氏が有地氏の「与力」としてこの城に拠ったという。 前回も述べたように、天文、弘治年間の福田、有地氏の合戦は伝説の域を出ない。 郷土史書に伝える合戦記は虚構に過ぎないとは言え、両氏が隣接する国人領主として時に対立する存在であったことは事実である。有地氏の大谷、鳥の奥城、福田氏の利鎌山城の要害堅固さは何よりも雄弁にこのことを物語っている。 事実関係を明示し得ないのは残念だが、有地氏の相方築城は、両氏の勢力関係に「変化」があったことを物語っている。掛平山の標高83メートルに対して、相方の城山の標高は191メートル、相方城が築かれた天正初年(1575頃)に至って、有地氏の勢力が福田氏のそれを凌駕したことを示している。或いはこのことが福田盛雅の美作枡形入城に関係しているのかもしれない(逆もまたあり得た、盛雅の美作進出が有地氏の福田領侵略を呼んだ)。 おわりに ここで、今まで触れることの出来なかった「福田遠江守」と「福田盛雅」の関係について私見を述べておく。 天正8年(1580)、美作医王山合戦で活躍した福田三郎左衛門尉盛雅を考察する場合、最大の難点は備後一宮吉備津神社に納められた、大永8年(1528)9月吉日の銘を有する「福田遠江守藤原盛雅」の西国順礼納経冊の存在だ。この納経冊があるばかりに、大永年間に活躍した「福田三郎左衛門尉盛雅」と天正8年の福田盛雅は別人としか考えられず、話をややこしくしてしまった。当時の慣習から盛雅が「三郎左衛門尉」から「遠江守」に任官することはありえても、その逆はありえないからだ。 現物を見ていないので、はっきりしたことは言えないが、この順礼納経冊には疑問点が多い。まず何よりも「大永八戌子年九月吉日」は「存在しない」ことだ。大永8年は8月20日に改元されて「享禄元年」となっている。正しくは「享禄元戌子年九月吉日」と書くべきなのだ。 勿論、都から離れた備後のことだ。遠江守盛雅が「改元」を知らなかったということも考えられる。しかし、以前述べたように、盛雅は上洛したこともある当時の教養人だ。「都」の動きには敏感だったはずだ。 当時、こうしたものは発注してから納品されるまで相当な「時間」を要した。やはり、この順礼納経冊は後世の偽作と考えるべきであろう。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
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