「備陽史探訪:129号」より
田口 義之
尾道市高須町
先月五日、久しぶりに中世の山城跡に登ってきた。地元有志の方の依頼により、尾道市高須町にあったとされる松尾山城跡を有志の方と共に調査した。
松尾山城跡は、江戸時代の文献に、「松尾城」として記載され、杉原氏の一族「高須杉原氏」の居城として比較的知られていた山城跡である。ところが、近年に発刊された『日本城郭体系』や『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』では「遺構不明」とされ、永らく忘れられた存在になっていた。
「遺構不明」とされ、忘れ去られていた松尾山城跡だが、城主とされる「高須杉原氏」はれっきとした歴史上の存在である。同氏は江戸時代にも長州藩士として存続し、『萩藩閥閲録』をはじめ各種の古文書集に多数の中世文書を伝え、備後中世史を研究するための無くてはならぬ貴重な史料となっている。
高須杉原氏が伝えた古文書によると、同氏は南北朝時代に活躍し、木梨杉原氏の家を興した杉原信平の後裔にあたり、木梨三代光盛の子行勝が父より福田庄高須の地頭職を分け与えられ、同地に本拠を構え「高須杉原氏」の初代となった。以後、光忠・元忠・盛忠・元盛・元胤・元士・元兼と歴代相続し、元兼の代に毛利氏に従って長州萩に移った。一族の中には備後に残り帰農したものも多く、現在でも高須周辺には後裔の方が居住している。
松尾山城は、この高須杉原氏によって築かれ、本拠として利用されたものである。城は藤井川右岸に広がる丘陵地帯の一角、高須町の西南部の標高一三四、八メートルの山頂を利用して築かれたもので、眼下に旧山陽道が通る交通の要衝に位置している。城郭の遺構は、山頂と、山頂から東と東南に伸びた尾根上に残っている。山頂の曲輪群は、南北一五メートル、東西一二メートルの南北に長い楕円形の平坦地と、その東にわずかに低く築かれた東西一五メートル、南北一三メートルの平坦地の二つの曲輪で構成され、この城の本丸と考えて差し支えない。東方の尾根上の曲輪は、本丸から一八メートル下がった場所を、空堀で尾根を切断し、その先に曲輪を築いたものだが、鉄塔やゴルフ練習場の建設によって破壊され、一部しか残っていない。東南の曲輪は本丸から五〇メートル下の尾根上を削平して二段の平坦地を築いたもので、これも鉄塔の建設によって破壊され、部分的にしか残っていない。このように、遺構の残り具合が悪いため、県の調査の際、『遺構不明』として処理されたのだろう。
注目されるのは、南麓の旧山陽道に接した微高地上の平坦地である。現在三段の削平地が存在し、位置的にここに城主の平時の居館があったとして不自然ではない。旧山陽道は、ここから西に五百メートル登り、「坊地峠」を経て尾道に入る。もし、ここに高須杉原氏の居館があったとすると、同氏は街道の要所を押さえることによって流通も支配したと考えられる。高須杉原氏は、日明貿易にも従事していたことが知られているから、ここに交易を重要な収入源とした、地方の一国人武士の姿を見出すことが出来るわけだ。
【松尾山城付近】
https://bingo-history.net/archives/11938https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/fca5bb4314de3c3a413d60aaed8f00ae.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/fca5bb4314de3c3a413d60aaed8f00ae-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:129号」より
田口 義之 尾道市高須町
先月五日、久しぶりに中世の山城跡に登ってきた。地元有志の方の依頼により、尾道市高須町にあったとされる松尾山城跡を有志の方と共に調査した。 松尾山城跡は、江戸時代の文献に、「松尾城」として記載され、杉原氏の一族「高須杉原氏」の居城として比較的知られていた山城跡である。ところが、近年に発刊された『日本城郭体系』や『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』では「遺構不明」とされ、永らく忘れられた存在になっていた。 「遺構不明」とされ、忘れ去られていた松尾山城跡だが、城主とされる「高須杉原氏」はれっきとした歴史上の存在である。同氏は江戸時代にも長州藩士として存続し、『萩藩閥閲録』をはじめ各種の古文書集に多数の中世文書を伝え、備後中世史を研究するための無くてはならぬ貴重な史料となっている。 高須杉原氏が伝えた古文書によると、同氏は南北朝時代に活躍し、木梨杉原氏の家を興した杉原信平の後裔にあたり、木梨三代光盛の子行勝が父より福田庄高須の地頭職を分け与えられ、同地に本拠を構え「高須杉原氏」の初代となった。以後、光忠・元忠・盛忠・元盛・元胤・元士・元兼と歴代相続し、元兼の代に毛利氏に従って長州萩に移った。一族の中には備後に残り帰農したものも多く、現在でも高須周辺には後裔の方が居住している。 松尾山城は、この高須杉原氏によって築かれ、本拠として利用されたものである。城は藤井川右岸に広がる丘陵地帯の一角、高須町の西南部の標高一三四、八メートルの山頂を利用して築かれたもので、眼下に旧山陽道が通る交通の要衝に位置している。城郭の遺構は、山頂と、山頂から東と東南に伸びた尾根上に残っている。山頂の曲輪群は、南北一五メートル、東西一二メートルの南北に長い楕円形の平坦地と、その東にわずかに低く築かれた東西一五メートル、南北一三メートルの平坦地の二つの曲輪で構成され、この城の本丸と考えて差し支えない。東方の尾根上の曲輪は、本丸から一八メートル下がった場所を、空堀で尾根を切断し、その先に曲輪を築いたものだが、鉄塔やゴルフ練習場の建設によって破壊され、一部しか残っていない。東南の曲輪は本丸から五〇メートル下の尾根上を削平して二段の平坦地を築いたもので、これも鉄塔の建設によって破壊され、部分的にしか残っていない。このように、遺構の残り具合が悪いため、県の調査の際、『遺構不明』として処理されたのだろう。 注目されるのは、南麓の旧山陽道に接した微高地上の平坦地である。現在三段の削平地が存在し、位置的にここに城主の平時の居館があったとして不自然ではない。旧山陽道は、ここから西に五百メートル登り、「坊地峠」を経て尾道に入る。もし、ここに高須杉原氏の居館があったとすると、同氏は街道の要所を押さえることによって流通も支配したと考えられる。高須杉原氏は、日明貿易にも従事していたことが知られているから、ここに交易を重要な収入源とした、地方の一国人武士の姿を見出すことが出来るわけだ。
【松尾山城付近】管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
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