わが町 日本鋼管とともに(3)

備陽史探訪:18号」より

種本 実

大門町より見る日本鋼管福山製鉄所(現JFE西日本)

鋼管町・引野町③

鋼管の誘地に伴い地元引野町では新しい道路や貨物駅、鋼管引込線(鉄道)の起工等、それまでの田園風景を一変させる工事が相次いで始まった。港町から鋼管前を通り大門駅前へ続く鋼管道路は昭和39年末に完通したものの、舗装が遅れた為一日延べ6000台以上往復したダンプ等工事車両の砂ぼこりが民家の中迄入り畳の上がザラザラになったり庭木も白くなる等被害が出た。地元では「公害対策委員会」を結成し県による散水などの対策を実施させた。貨物駅は昭和39年11月に着工し41年6月に落成し、福山駅の取扱い貨物量年25万トンを大幅に超える200万トンの扱い能力を持ち鋼管のフル操業に備えた。総工費8億7000万円は国鉄・鋼管と一部市が負担した。用地買収は64318平方メートルを90戸から2億9000万円で行なっている。併設の引込線も同時に完成したが、途中のトンネル工事にダイナマイトの爆破作業が昼夜続き夜眠れない等苦情が出た為後に夜の作業は中止された。又引込線は国道2号をまたいでいる為昭和41年1月真夜中を利用して8時間かけて、長さ56幅7高さ4.7重さ240トンの鉄橋が架設された。尚貨物駅は昭和54年4月から地元の強い要望に応じて旅客も扱う東福山駅となった。この他鋼管の従業員用団地の建設等の用地として山林や農地の転用が急増と、農地だけでも昭和34年に699件32.8ヘクタールから40年には1400件78.1ヘクタールと拡大している。この為土地の急騰となり、例えば昭和36年迄1坪500~2000円の農地や山林が5年の内に15000~70000円に、37年に16000円の2号線沿いの宅地が70000円になるなど用地買収時の最高価格が次の買収の時最低価格となり、貨物駅の用地整備を中心とする区画整理に大きな障害となった。

外国貿易港としての福山港は昭和41年4月に開港し出入国管理事務所、検疫所、海上保安所等の合同庁舎の建設用地として手城町天当神社沖が埋め立てられた。一方鋼管現場では41年8月の第一高炉火入れを目ざし日夜4000人を超える労働者が働いていた。犯罪や災害が多発した為防犯自治会が警察と土建業者で設立されたが昭和41年6月時で39・40年の死者合計8人の倍16人が事故死する等災害が急増した。労働者の中には福山市に住民登録をしていなかった人も多く又小規模の事業所では安全設備が不備だったことも事後に分る状態で役所の指導の徹底が求められた。

昭和41年8月26日に第一高炉の火入れ式が行なわれ市内の各地で祝賀塔やアドバルーンが舞い上がり企業城下町福山の門出の日となった。鋼管への来賓を運ぶ為駅構内タクシー30台、大型バス37台がフル運転し、さらに尾道や笠岡・倉敷からもチャーターしたり市内や尾道の一流ホテル・旅館は満員となったと伝えられ、祝賀式の規模がいかに盛大であったかが想定されよう。

次回予告

これまで三回にわたり主に中国新聞の昭和37~41年の記事をもとに鋼管の誘地から第一高炉の火入れまでの軌跡を鋼管町・引野町を中心に述べてきました。次回は地元の人々に直接取材し、地元にとって「鋼管とは何だったのか」を追及してみます。

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