2011年10月01日

備後国人・福田理昌考(美作での活躍について)

備陽史探訪:162号」より

木下 和司

昨年十一月、備陽史探訪の会の徒歩例会で利鎌山を訪ねた際に、備後の国人領主である福田盛雅のことを調べた。この時、盛雅の弟か子息に理昌という人物がいることが分かった。理昌は、『萩藩閥閲録』の「浦図書書出し」に残る天正五(一五七七)年閏七月十八日付けで井上又右衛門尉にあてた「福田盛雅書状写」に、「隋而理昌岡山所縁之儀、重而蔵田殿に得貴意候間、可被仰上候、」として現れる(①)。井上又右衛門尉は実名を春忠といい、小早川隆景の筆頭重臣である。「理昌岡山所縁之儀」とは、岡山は宇喜多直家を指すと考えられることから、理昌に宇喜多氏の縁者との婚姻話が持ち上がったものと推測される。「蔵田殿」とは毛利氏の奉行人であった蔵田元貞であるから、この婚姻に関して元貞に再度確認をして毛利輝元の同意を得たので、隆景の了解を得てもらいたいと、盛雅が春忠に依頼していることになる。この書状から福田氏は毛利氏から小早川氏に預けられていた国人領主であったことが分かる。

今年十一月の美作のバス例会を担当することになって、美作の戦国期に関する史料を調べていて、福田理昌に関する新たな史料を見つけたので、美作と理昌の関わりについて述べてみたい。以前から備後の戦国史を深く掘り下げるためには、岡山県関係の史料調査が必要と考えていた。しかし、岡山県関係の中世史料は活字化されているものが少ないことが悩みの種となっていた。今回、美作関係については、『美作古簡集註解』・『久世町史 資料編第1巻』を見出したことで、戦国期の美作についてはある程度の知見を得ることが出来るようになった。

福田理昌は天正五年に宇喜多氏と婚姻関係を結び、同年十一月には美作に派遣されたことが確認される(②)。この時、理昌は大原主計頭・中村頼宗・牛尾次郎右衛門・近藤豊後守とともに織田信長の中国地方侵攻に備えるため、毛利輝元から美作・播磨国境の諸城を整備するように命じられている。大原氏は美作・西浦城主(苫田郡鏡野町)、中村氏は美作・葛下城主(同前)であり、牛尾氏は尼子方から毛利氏方に転じた出雲の国人と考えられる。また、天正五、六年頃のものと推定される「福田理昌奉書写」によれば、理昌は宇喜多氏の旗下にあった猪俣助五郎の河辺志戸(東津山駅付近)での合戦の功を賞している(③)。『美作古簡集註解』によればこの奉書は、津山市大篠に居住していた毛受氏が所蔵していたものである。毛受氏は、この他に興味深い古文書を所有している。それは、小早川隆景が猪俣采女と寺岡備前守に与えた書状である。この書状には「當城堅固之段誠無比類候」、「心底之通湯原小河所へ申遣候條、」とあり、ここに現れる湯原、小河とは天正七年から八年にかけて美作の祝山城(戦国期の史料では、祝山城と書かれているが、医王山城とも言う。現津山市吉見)に籠っていた湯原春綱・小川元政を指しているから、天正七、八年頃のものと推定される。この時、猪俣と寺岡両氏は、福田盛雅の指揮下に祝山城に籠城していたと考えられる(④)。また、寺岡備前守は、永禄十二年の津山市上横野の「清居山新龍寺棟札」に「時地頭備後国住福田三郎右衛門尉代官寺岡備前守」であり、福田氏の重臣であったと考えられる(⑤)。

以下、余談になるが、今まで気付いていなかったが、天正八年の美作関係で寺岡備前守については他にも二点の史料が『萩藩閥閲録』に確認される。一つは、天正八年八月、小早川隆景が祝山城番に宛てた書状の宛所に「湯 豊」・「寺 備」とあり、「湯 豊」は湯原豊前守春綱を、「寺 備」は寺岡備前守を指している(⑥)。二つ目は、蔵田元貞が舛形城(苫田郡鏡野町)から祝山城番に宛てた書状である(⑦)。この書状の宛所に塩屋豊後守、湯原豊前守(春綱)、小河右衛門兵衛尉(元政)の次に「寺 備」との記載がある。この「寺 備」も寺岡備前守を指していると考えられる。恐らく福田盛雅は舛形城と祝山城(医王山城)の城番を兼ねていたために、寺岡備前守は祝山城(医王山城)に盛雅が不在時の代理的な立場にあったと推測される。

福田理昌が備中・備前・美作の国人の間において、重要な人物であったことを示す史料が存在する。それは、天正六年八月二日付けで宇喜多直家の重臣であった花房職秀が美作の有力国衆三浦氏の重臣・牧佐介に宛てた起請文である(⑧)。天正六年の春頃から毛利氏は播州上月城において織田氏の先鋒である羽柴秀吉と戦っており、前述のように美作でも播磨国境の警備が重要視されていた。このような状況の中で、備中の庄氏や美作の江見氏等、有力な国人衆に対して羽柴秀吉の調略が始まっていた(⑨)。恐らく、前述の「花房職秀起請文」は、織田氏との緊迫した情勢下で宇喜多氏と備後からの派遣部隊である福田氏の間に疑念が生じ、その疑念を解く仲介役を牧氏が果たしたことに対する礼状であったと推測される。毛利氏の美作派遣部隊において福田氏が中核を担っていたことを示す史料となっている。

この後、天正七(一五七九)年の後半になると宇喜多氏の裏切りにより、毛利氏と織田氏の戦線は、美作・備中が主戦場となってくる。備中の戦線は、松山城主・穂田元清が中心となり、備後からも楢崎豊景等が派遣されている。美作の戦線は舛形城番であった福田盛雅が中心となり、湯原・塩屋・小川氏という出雲の国人衆を指揮して祝山城(医王山城)を守備している(⑩)。この時期には福田理昌に関する史料を確認できないが、美作から備中に渡って広範囲に戦線が構築されているため、盛雅とともに中心的な武将として活動していたと推測される。

天正九年になると福田盛雅等が祝山城(医王山城)をなんとか守り抜き、美作での戦闘の中心は、津山市久米の岩屋城へ移る。これ以降、福田氏に関する史料は確認されなくなる。天正九年の毛利氏と織田氏の攻防の焦点は、因幡の鳥取城となったことが大きく影響して、美作関係史料の残存が大きく減少したことが一因と推定される。

天正年間の美作関係史料に登場する福田氏があと二人存在する。それは、福田助四郎と福田孫八である。近世に編纂された「武家聞伝記」(⑪)では、助四郎を舛形城主とし、その実名を盛昌とするが、何らかの誤伝であろう。また、「美作古城記」によれば孫八は助四郎の次男とされている。福田助四郎は、三吉興能・元孝なる人物から天正二年に美作に所領を与えられ(⑫)、天正六年には美作での合戦に関して感状を与えられている(⑬)。また、天正年中と推定される時期に毛利輝元から礼状を与えられており、助四郎は美作で毛利方にあったことが分る(⑭)。三吉興能・元孝は実名から見て、大内義興と毛利氏から諞諱を与えられたと推測されることから、備後か安芸の国人ではないか推測されるが、他に史料が確認されず、その推論に確証は得られていない。

ここに現れる福田助四郎・孫八と福田盛雅・理昌との関係についても史料がないために、その関係を明らかにすることができない。しかし、旧久米南条郡(現久米郡)には福田村(現津山市福田)が存在しており、美作に在地名の福田を名字とした一族がいた可能性がある。今後、十一月のバス例会までに、美作関係の史料をもう少し精査して備後の福田氏と助四郎・孫八の関係を明らかに出来ればと考えている。

十一月のバス例会は、美作に於ける毛利氏と織田・宇喜多氏の激戦地である祝山城(医王山城)を訪ねる。祝山城(医王山城)の選地や縄張りは非常に素晴しく、毛利・織田氏の決戦を指揮するのに相応しい中世山城である。地元の方々が医王山城跡保存会を結成され、よく整備されている中世山城でもある(⑭)。

【補注】
①『萩藩閥閲録』に載る追記には、芸州浅野家に仕えた春忠の子孫からこの書状の写が到来したとある。
②「木村文書」(『久世町史 資料編第1巻』所収)、(天正五年)十一月朔日付け「毛利輝元書状」
③「美作古簡集註解上」巻之六所収
④「美作古簡集註解上」巻之六所収、(年欠)七月十日付け「小早川隆景書状写」
⑤ 田口会長「利鎌山城と福田氏」(「備陽史探訪 第151号」所収)参照。
⑥『萩藩閥閲録』巻115之2「湯原文左衛門書出し」所収。
⑦『萩藩閥閲録』巻51「小川右衛門兵衛書出し」所収。
⑧「美作牧家文書」(『久世町史 資料編第1巻』所収)、
⑨「美作古簡集」(『久世町史 資料編第1巻』所収)、(天正六年)正月十日付け庄駿河守宛「羽柴秀吉書状写」
「美作国諸家感状記」(同前)、(天正六年)正月十八日付け江見九郎次郎宛「羽柴秀吉書状写」
⑩ 補注⑤・⑥参照
⑪ 近世に津山藩森家家臣・木村昌明が編纂した美作の地誌
⑫「木村文書」(『久世町史 資料編第1巻』所収)、天正二年九月廿二日付「三吉元孝・興能連署宛行状」
⑬「木村文書」(同前)天正六年六月廿三日付「三吉元孝・興能連署感状」
⑬「美作古簡集註解上」巻之七所収、(年欠)二月二十三日付「毛利輝元書状写」
⑭ 医王山城跡保存会ホームページ(http://www3.tvt.ne.jp/~nagataki/sub3.htm